さよなら風たちの日々 第11章ー5 (連載36)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第36話


              【10】


 確かに緑が違うと思ったのは、盛岡を過ぎたあたりからだったよ。

 国道4号線をずうっと北上してきて、前日は福島県の桧原湖でキャンプ。その日は一気に、十和田湖まで走るつもりだったんだ。

オートバイのリアシートに、必要最少限のキャンプ道具と生活必需品を積んで、ソロツーリングに出たのは去年、初めて自動二輪の運転免許とオートバイを手に入れた八月だった。

 オートバイに乗ろうとしたきっかけが友だちに連れて行ってもらった本栖湖だったから、ぼくは猪苗代湖とか田沢湖とか、そんな東北地方の湖を、オートバイで巡ってみたいと思ったんだ。

 そして最終ゴールは青森県の十和田湖。その十和田湖は寺下龍二の詩物語そしてもうひとつのピリオドと《風と少女とオートバイ》に登場するステージでもあったからなんだ。


 オートバイで国道4号線を北上しながら、ぼくは考え続けていた。この緑の濃さ、深さはいったい何なんだろう。奥羽山脈の緑も、国道沿いの街路樹も、それから田んぼの稲さえも、今までぼくが知っていた緑とは異質な緑だった。だからぼくはずうっと、その意味を考えながらオートバイを走らせていたんだ。

 発荷峠。そこを走っていると突然、巨大なパラボラアンテナのようなものが樹木のすき間から見えた。それがぼくが見た、初めての十和田湖だったんだ。ぼくは思わず、ヘルメットの中で声を出した。でもそれは言葉にならず、ほとんど叫ぶような感じだったので、ぼくはこの感動を言葉で表現できない自分を不甲斐ないと思った。。

 濃い緑に囲まれたアスファルト道路。ふと目を移すとその向こう側に、神秘的なほどの藍色をした十和田湖が広がっているんだ。その湖面を、夏の光がまぶしいほど乱舞して輝いている。

遊覧船乗り場。おみやげ売り場。旅館街。湖の周回道路はそんなメインストリートを過ぎると、ブナ、カエデ、カツラなどが生い茂る原生林の中に入り込んで行く。そんな原生林のすき間から十和田湖が、ぼくを見え隠れしながら追いかけてくる。

 ほんとうは自分が十和田湖のまわりを走っているだけなんだけど、ぼくにはそれが十和田湖がぼくを歓迎して、一緒に並走しているよう、に見えたんだ。

 そしてしばらく走っていて、ようやくぼくは気づいた

 この緑。この緑の濃さ、深さ。それらはすべて、この藍色をした十和田湖をさらに美しく、神秘的に見せるためのコーディネートなんだってね。


 夜。ぼくは子のねのくちキャンプ場にテントを張ったんだ。

 夜空は、原生林のすき間から見える夜空は、いち面、宝石箱をひっくり返したような星空だった。こんなにたくさんの星たちがきらめいていて、それが帯のように夜空を覆っているのに、それでもどうして空は漆黒のままなのか、ぼくはそんな不思議について、長いあいだ考えていた。

 遠くで揺らめくキャンプファイアー。陽気なキャンパーたちの歌声、歓声。嬌声。花火の音。

 そんな中、ときおり風が原生林を駆け抜けていって、その存在を誇示する。枝葉がこすれ合い、揺れ合い、ざわめきに似た歌を奏で続ける。

 そしてときおり輝く流れ星。音もなく降り注いできて、それが手に届きそうで、ぼくはそんな星空を、飽きることなく眺めていたよ。


              【11】


 朝。鳥たちのさえずりで目をさますと、原生林全体はうっすらと霧に覆われているんだ。耳を澄ませば、、葉を伝う雫の音が聴こえそうなほど、原生林はしっとりとしたたたずまいに姿を変えている。夜露に濡れたテントには、昨夜の風の置き土産のような葉っぱが、いたる所で模様を描いている。

 テントから這い出して冷たい水で顔を洗っていると、原生林に突然、陽の光が差し込んできた。木洩れ日、あるいは光芒、とでもいうのだろうか。生い茂った樹木たちが、その大きさを誇示し合うかのように広げた梢のすき間。そこから幾条もの光の帯が、湿り気を含んだこげ茶色の地面に差し込んでいるんだ。

 すると森はやっと、はつらつとした少女のように活気づく。キャンパーたちは手際よくあと片付けを始め、次の目的地に向かう準備をしている。

 やがて霧が晴れると原生林は、再び強い色彩のコントラストになる。その中をキャンパーたちが忙しそうに動きまわり、クルマやオートバイが1台ずつどこかへ消えて行ってしまうと、原生林はまた、元の静けさに戻るんだ。

 ぼくは何日か十和田湖にとどまるつもりだった。だからテントとかシュラフとか、かさばる荷物はそのままにして、ショートツーリングに出かける準備をしたんだ。その目的地は、奥入瀬渓流だった。


 国道102号線に沿って、奥入瀬渓流は流れている。ナラ、トチ、カツラ。そんな深い原生林のトンネルの中を、奥入瀬渓流は国道102号線と複雑に交差しながら、流れているんだ。

 そこにときどき大きな岩がむき出しのまま寝そべっていて、そこが小さな滝になっていたり、激しい流れになっていたりする。ぼくはそんな景色に出会うたびオートバイを停め、そのほとりを歩いた。

 シダやコケに覆われた岩肌にそっと手を触れ、ぼくは清流をすくいあげ、時が経つのも忘れて、そこにたたずんでいたりしたんだ。

 銚子大滝。雲井の滝。玉すだれの滝。人の織りなすさまざまな糸が、そこに重なり合い、もつれ合い、そしてすべてが押し流されてしまうかのように、それぞれの滝はそれぞれの美しさで、ぼくの心をとらえて離さなかった。

 奥入瀬渓流はときには、荒れ狂った阿修羅の形相を見せたかと思うと、無邪気にたわむれる仔犬たちを思わせたり、悟りを開いた菩薩のような表情を覗かせたりする。

 大きな岩。せせらぎをさえぎったり、せせらぎに浮かんでいたり、あるいは激流にあらがうかのように、その巨体を誇示する大きな岩の数々。

 それらの岩には馬門岩まかどいわ屏風岩びようぶいわ天狗岩てんぐいわなどの名前がつけられているんだけれど、そんな大きな岩のひとつひとつが、ぼくの目を奪うには十分すぎるほどの美しさを持っていた。

 今、ここに、とぼくは思った。今ここにぼくの愛する人がいたとしたら、ぼくはきっとそれが、自分の人生の中で最も至福のときになるのではないかと。


              【12】


 ヒロミに《そしてもうひとつのピリオド》のあらすじを話しているうち、その物語に出てきた十和田湖を、ぼくはオートバイで走ったことを思い出した。

 そうだ。その十和田湖にヒロミを誘おう。そこでぼくは、何の進展もないこの恋を、一歩前進させるんだ。

 そうしてぼくはヒロミに十和田湖の体験談を話し、今度の夏、十和田湖に一緒に行かないかと誘ってみた。


 店内に、ウエスモンゴメリーのユニゾンギターが流れている。スリリングかつ華麗なプレイだ。そのジャズギターに耳を傾けながらぼくは、もう一度ヒロミを十和田湖に誘ってみた。

「夏になったら、十和田湖に行かないか。いや、オートバイじゃなくていいんだ。バスでだって、電車でだって」

 声にこそ出さなかったけれど、ヒロミは大きく反応したようだ。

 ヒロミはぼくを見据え、それから言葉の真意を探るように、ふいに視線を泳がした。

 戸惑っているのだろうか。それとも予期せぬ誘いに、返す言葉を探しあぐねているのだろうか。

 違う。なぜだか分からないけれどヒロミは、おそらく断ろうとしているのだ。だからヒロミはなかなか返事をせず、唇の端をかすかに歪めて、首をゆらゆら振り続けているのだ。

 ヒロミの長い髪が、風鈴にくくりつけられた短冊のように揺らめいている。その揺らめく髪で、ヒロミは表情を読まれまいとでもするかのように、目線を隠し続けている。

「ポール」

 とヒロミが、短くぼくを呼んだ。けれどヒロミは、そう言ったきり押し黙った。

 ぼくはふと昔、晩秋の上野公園でヒロミがつぶやいた言葉を思い出した。

 涙をあふれさせ、彼女はこう言ったのだ。

 先輩殿。待ってますから。わたし、ずうっと待ってますから。

 あのとき彼女は、確かにそう言ったのだが、ときの流れが、彼女の気持ちを変えてしまったのだろうか。自分に任された喫茶店が忙しくて、もうそれどころではなくなってしまったのだろうか。


 沈黙が続いた。その沈黙が、いたずらにぼくの心をかき乱した。

 その心を落ち着かせるために、ぼくはに飲み終えたコーヒーカップを再び口に運んだ。残滓に近いコーヒーが、それでも少しは喉を潤した。そのコーヒーカップの向こうで、ヒロミの姿がかすんで消えそうになる。

 季節は今、つかの間の春を過ぎ、気がつけばいつしか青春が終わってしまうことを、遠回しに教えようとする五月だった。


 ぼくは後悔している。高校三年生のとき、正門でヒロミを待ち伏せしていたのに、ぼくはどうして彼女に何も言えなかったのか。

 秋葉原で呼び止められたとき、なかなか話を切り出そうとしないヒロミに、どうして自分の心を押さえ込んでいたのか。

 そして暮れなずむ上野公園。ずっと待ってますと言ったヒロミを、どうして受け入れなかったのか。


 分かってはいる。ぼくだって初めてヒロミと会った身体測定の日から、ぼくは彼女にときめいていたのだ。恋に堕ちていたのだ。けれどそれを妨げようとするものが、あのときのぼくには多すぎた。

 だからこそ、だからこそそれらを修復するための十和田湖の誘いだった。





 ドアの方で音がした。閉店なのに、誰かが入ってきたのだ。

 ぼくよりずっと年上で、おそらく三十歳前後だろう。身体も大きくて、身長は185cmはあるかもしれない。その男が近づいてくると、ヒロミの顔が強張った。

 誰。誰。誰なんだ。この土足でぼくらのあいだに近づいてきた男は。

 じつはこの男が喫茶店ポールの不思議であり、阿修羅の始まりでもあったのだ。




                           《この物語 続きます》






 





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