第20話

 気づくと、おれはやたら明るい無機質な狭い部屋の中に座らされていた。後ろ手に縛られ椅子に括り付けられている。目の前には若い男が二人いる。一人は気難しそうな表情で、日に灼けた女性の様な顔、汚いダウンジャケットを着ている。もう一人は無表情でうっとうしい長髪に眼鏡、サイズの合っていないスーツを着ている。何をしているやつかわからない、警察官ではないだろう。

 そうだ、おれは春日の子供を誘拐したのだった……

 なんで今こんなところに居るんだ。


「すみませんね喜多さん、こんなことして」

 眼鏡の方がゆっくりとしゃべった。

「おまえらは何者だ、なにがしたいんだ」

 勇気を振り絞って強く出る。四十近く歳下の人間にいいように馬鹿にされるのは屈辱的だ、あくまで対等に話したい。むこうもプライドのない男など会話したくもならないだろう。

「あんたみたいな弱くてきもちわるくて迷惑なやつを日本から排除する者だ」

 ダウンの方が俳優のような恐ろしく魅力的な声で言った。かなり若い、だが全身から自信がみなぎっている様で、シュウちゃんたちとは大違いの覇気があった。

「あんたらみたいな若造になにがわかるんだ、おれたちはあんなふざけたビルができる前から東京に住んでいたんだ。戦争になってもがんばってって、この国が好きだから……」

「好きなのは生きていくのに楽だからだろ、日本だから考えなくても生きていけたんだろその年まで、学ばなくても、文句を言いながら、この国のインフラを享受して、だけどそのインフラが暴走し始めて、こわかっただろう、その年まで我慢して、ついに爆発か、その結果がこんな頭の悪いお粗末な犯罪だ、バカげた人生だ、無意識的な劣等感からずっと逃げ続けて、進退窮まったらバカな若者三人だまくらかして自暴自棄の誘拐か、なさけないじいさんだな」

 ダウンの男は淡々と語った。おれを殺したい、と全身で表現している様な男だった。

「おれのなにがわかるんだ」おれだって勉強はある程度した。ただ組織の中でじょうずに生きることができなかっただけだ。

 おれの肩に埋め込まれているDNAパッチがアラートを告げている。緊張による発汗と心拍数の上昇だ。

「なにもわかんないけど、いや、お前がつらい理由はなんとなくわかるよ、つらいのはお前がバカで弱いからさ、この世はバカで弱いやつにはつらい、あたりまえだ、だがすべてはそれに尽きる、もっとちゃんとやれば日永の社長程度簡単に脅せた、なのになんだこれ、この体たらくは、想像力が無いとしかおもえない、他の国ならとっくに死んでるぞ、安心しろ、これから俺がこの国をお前みたいなやつが生きていけない国に変えてやる、どうせ今までの人生で頭の悪いミステリしか読んでこなかったんだろう」

 眼鏡の男が言った。こいつはダウンの男とは対照的に、俺を馬鹿にして楽しんでいる。

 ミステリが好きなことを知っているということは、俺についてだいぶ調べた後だろう。自分のことをこんな若者が調べてくれたことに対して、少しうれしくなっている自分がいるのが、また悲しかった。

「ちょっと待ってくれ、あんた、日永の人間じゃないのか」

 おれは脱出するためになんとか情報を集めたかった。

「俺たちはどこにも所属していない」

 眼鏡の男が答えた。

 するとダウンの男が、眼鏡に対してこいつの質問に答えるな、と注意した。

「おれだってなにもしゃべらないぞ、おれの仲間はどこへやった、お前ら、今は若いからそう言っていられる、後に人生の無意味さがお前を呑み込む、いずれお前にどうにもならない絶望がくる、若いから分からないんだ、お前らは何もわかってない、クズ野郎共」

「格好つけた言い回しをして自分に酔うのをやめなよ、恥ずかしいやつだな、あんたは決定的に生物として弱っちいんだよ、それだけだ、体も小さい上に体は弱くて、衝動的で、世界が狭くて、不勉強な、年だけ取った役立たずだ、お前は狂うこともできない、理由は弱いからだ、お前の様なしけたジジイと話している時間が惜しい、春日がやったことを話せ、話せば殺さないでいてやる」

 ダウンの男は俺の頬をペンと軽く叩いた。子供を叱るときのように、あくまで馬鹿にする目的だった。警察でも日永の人間でも無い、いったいこいつらは誰なんだ……

「話したら俺を殺すだろ」

「春日のやったことを話せば殺さないって言ってるじゃん、いちいちバカだなあんた、こういう話の通じないジジイはどのみち全員殺したほうがいいな」

「話せばあんたの若い友達も返すよ」眼鏡の男が言った。

 おれは混乱と怒りでなにもしゃべることができなかった。

「ま、ゆっくり考えなよ」

 そう言って二人は俺を椅子からほどいて部屋から出て鍵をかけた。二人に掴み掛る気力は無かった。それより椅子とテーブルしかない空間に閉じ込められたショックの方が大きかった。

 おれが日永を脅そうとしていたネタを話してしまってもよかった。三人が自由になることが今は大事だ。

 昔勤めていた薬品工場、あそこには何かが欠けていた、人間が当たり前に持っている良識が……俺は何もすることが無かったので、昔の事を思い出し始めた。

 日永は日本の子供を発達障害にしようとしている。おれがそう気づいたのは、あるマイクロマシンの組成データを偶然見つけたからだった。

 現在日永フードサービス社長で当時研究者だったあの女は、直轄で指揮している医薬品部門で、脳神経の発達に重要な役割を担うたんぱく質の機能をめちゃくちゃにするマイクロマシンを開発した。一から十二歳までの幼児の体内に定常的に経口投与すると、神経回路の発達が阻害されて異常な神経回路が形成され、ADHDや自閉症などの発達障害を発症する確率を増やすものだ。なんの目的かは知らないが、あの女は他人の子供を意図的に障害者にしようとしていた。

 おれは運悪くこのマイクロマシンが幼児の体内でどういった作用をするか分かる知識があった。大学は中退だが神経生理学を研究していたためだ。こっそりとマイクロマシンの組成図を盗み会社を辞めて、いつか世間に公表するつもりだった。だが元妻に職を斡旋してもらっている手前決心がつかず、三十年経ってしまった。

 日永フードサービスの子会社である定食屋チェーン「飛鳥軒」は子供用のメニューがある。また小学校用給食サービスも近年手を出している。日永は子供が口にする可能性の高い食品にそのマイクロマシンを混入させている。間違いなく、日永の社長である春日の指示だ。

 おれはそれをネタにゆすってやるつもりだった。おれは彼らに話すべきだろうか。彼らは本当に日永の人間ではないのだろうか。いや、それを考えてもしょうがない、シュウちゃんたちが捕まっている以上、おれが失敗すれば彼らはどうなるのだろう。おれのせいで若者三人に被害が及ぶことだけは避けたい。しかし、ネタを三人に話さなくてよかった。おれが喋らなければ、彼らはどうなるのだろうか、まさか、拷問なんてされないだろうな……

 そう考えていた矢先に、椅子にしばりつけられて目隠しをされ、口に生理用ナプキンを詰められたキョウさん達三人が、おれの目の前に連れてこられた。薬で意識がもうろうとしている様だ。またダウンの男と眼鏡の男が入ってきた。どちらも彫刻の様に無表情だ。 

 眼鏡の男がおれのめっきり少なくなった髪をつかんで、椅子に座っているおれを無理矢理立たせた。そしてキョウさんの顔のすぐ近くにおれの顔を持って行った。

「いいか、老人が自分の幻想に若者を巻き込むな」

 ダウンの男がそう言うと、たん、と乾いた音が鳴り、薬きょうが床にちん、と音を立てて落ちた。

 眼鏡の男がキョウさんの後頭部を拳銃で撃ったのだ。俺は命がなくなる瞬間のキョウさんの表情の変化を間近で見た。ゆっくりとキョウさんの体から力が抜けて、椅子からずり落ちた。叫び声を出すこともできなかった。目をそらそうとしても、ダウンの男に首を死体の方に向けさせて固定された。背の高い男がキョウさんの死体の目隠しを取った。額に真黒な穴が開いて、そこからまっくろな血が流れていた。

「なんでこいつらを巻き込んだんだ、金が欲しかったわけじゃないだろ」

 変わらない調子でダウンの男が言った。おれは恐怖のあまり叫ぶことを忘れて静かに泣くだけだった。

 また、たん、と音が鳴った。

 同じ事が千ちゃんにも行われた。千ちゃんも椅子からずり落ちた。

 二人とも頭に穴が開いていた。

 こんなことをする人間が小説ではなく実際にいるのだということを現実に認めたくなかった。遠い国で戦争が常態化している国もある、日本だってついこの間まで戦争だった。しかし、死人が出る戦争なんて先進国ではもう起きないし、沖縄や北海道ならともかく、東京に住んでいれば永遠に安全だと思っていた。こいつらは本当に、おれたちと同じ日本人なのか。目の前の光景が信じられなかった。まさか殺すなんて。

「このデカいのはうちの隊員相手にかなり暴れた、一息には殺さないよ」

 眼鏡の男がシュウちゃんの右手を銃で撃った。ううっとシュウちゃんが生理ナプキン越しに小さく声を漏らし、シュウちゃんのでかい右手が、手首までしか無くなった。派手だなぁ、とダウンの男が言った。血が数秒間噴水の様に出て、ダウンの近くに居た男が布でシュウちゃんの脇を縛って血止めをした。指があたりに吹き飛んで散らばっている。眼鏡の男が、スーツに血がついちゃったよ、見てよ、と言って生理用ナプキンで血を拭っている。

 そのスーツは諦めろよ、もともとよれよれだったじゃん、と笑いながらダウンの男が言う。いや、このスーツは洗えるんだよ、問題はシャツだよ、畜生、と眼鏡の男が言う。

 まだシュウちゃんは殺さないつもりらしい。だがこれで彼はもうバスケットボールができないだろう、おれが奪ってしまったようなものだ、もしかしたらシケた将棋センターと職場の往復ではない、家族を得て充実した生活が、未来が彼にはあったかもしれないのに。

「おいじじい、質問に答えろよ、なんで自分だけじゃなくて他人を巻き込んだんだ、お前の様な老人が、若者や妻子ある男を、金や同情を使って誘い、挙句の果てに俺たちみたいなのに皆殺しにされるんだ、全部お前の様な無知で傲慢な老人のせいだ」

 ダウンの男が怒鳴った。鼓膜がびりびりと震えるような低く威圧感のある声だった。心底恐ろしくなった。

 いやだ、考えたくない、認めたくない……

「いいか、お前たちの様なきもちわるくて頭の悪い貧乏人はな、本来はとっくに死んでいるはずなんだ、科学が発展したからこそ、淘汰のハードルが下がって生きていられる、まあ多様性を残す意味で生かしておくっていう理屈は分からなくもないけど、お前らになにかを主張する権利は無いよ、弱者なんだから、バカは何も主張せずに生かされているだけありがたいとおもってればよかったんだ」

 おれが放心している間に、シュウちゃんのもう片方の手も吹き飛んだ。シュウちゃんは暴れもせずにひたすら痛みに耐えている。

 おれが頭を抱えて目をつぶっていると、

「もういいよこいつ、どうしようもない」

 とダウンの男が言ってシュウちゃんの左足、右足、とテンポよくダウンの男がふっとばしていった。部屋はシュウちゃんの血と肉だらけになった。頭がついていかない、これ以上考えたくない。

「このままでは出血多量で死んじゃうよ、喜多さん、喜多さん、目を閉じるなよ、おーい」 

 長髪のスーツが馴れ馴れしく言う。

「大丈夫だよ、話せば、こいつを病院に連れてってやるから、まだ死んでないよ」


 おれはうなずくのが精いっぱいだった。なぜ、もっとはやくに反応できなかったのか、自分でもよくわからなかった。若者に小馬鹿にされて、反抗的になってしまったのかもしれない、でも間違いだった。弱者としての自覚をおれは忘れてしまっていたのだ。なぜ、おれは夢を見てしまったんだろう、ただ四人で将棋をしていたかっただけだったんだほんとうなんだ……

「なんでもしゃべる、シュウちゃんを病院へ連れていってください……」

 おれはそう言って目と耳を塞いだ。もうなにも見たくないし、聞きたくなかった。

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