第15話

「アオイちゃん、いっしょにたべよう」

「うん、ありがと」

 アオイがビスケットを笑顔で受け取る。

 おいしい、と言うと、まだしゃがんだアオイと同じくらいの背丈の彼女は、満足したような顔で次は楽器のようなおもちゃを使った遊びにアオイを巻き込む。アオイは俺の方を時々伺いながらだが、楽しそうにしている。子供との距離感を測るのが上手い。アオイはSUAの児童養護施設育ちなので、年少の子をあやすのは慣れているようだ。春日の娘である春日ミコトはアオイと相性がよさそうだった。

 俺たちは春日社長夫妻にくっついて、公安二人の捜査報告を彼らの自宅で待っていた。 

 ギガストラクチャー品川エリア四十八階、彼らの会社よりずっと上層の住宅エリアだった。アルファ向けの分譲地、分譲地と言っても恐ろしく広い。彼らの家に入るには門をくぐってから、車で五分ほど走る必要があった。一直線ではなく、無駄に曲がりくねった道を抜けると、ドイツ風のでかい屋敷がある。かえって嫌味なほど外観に特徴が無く、十九世紀ドイツの工場をそのまま持ってきました、と言われてもおかしくないほどだった。

 中は外観とちぐはぐにならないよう、華美になりすぎないように気を使われた、成金に思われたくないと言いたげな卑屈な感性が垣間見える家だった。 

 だだっぴろい応接間で、俺は出されたコーヒーを飲みながら改めて考えた。警備という名目で、アオイと春日夫妻と一緒にもう三日過ごしている。日永広報部には茂山が枝を張り巡らせているが、今のところ犯人からの連絡もない。今回の事件はおかしい。憂国風盾会は実質的に俺たちが吸収した。葛野曰く、日永ほどの大会社を脅す根性を持っている者は、自分が殺した幹部の中にもいなかっただろうとのことだ。もちろん俺たちは葛野がもともと所属していた会社ということで公安の二人からは怪しまれているだろう。二人を始末するシナリオも選択肢として持っておかねばならないが、できる限り警察とは関わりたくないものだ。

「おにいちゃん、いっしょにたべる」

 ミコトが俺にもビスケットをくれた。

「ありがとう」

 俺も笑顔を作って対応する。七歳くらいだろうか。口の周りがよだれだらけだが、将来は美人になるだろう。子供は欲求に素直なので好きだ。

「よかったね、子供と遊んでくれる若い人たちが来てくれて」なんて春日夫妻が話している。春日は外見こそ中肉中背の普通のサラリーマンといった風体だが、それとなく観察していると、効率と原則に縛られた、組織に属する人間の理想形であると感じられた。彼の電話を盗聴する限り、彼は部下に対して、一日に何度も「規則」という言葉を使う。観察しているうちに、特徴のない外見がかえって、彼の肩書も含め絶対的な力を帯びさせている様に思えた。

 一方彼の妻は日永の取締役兼日永フードサービスの社長を務めており、専業主婦のような良妻の雰囲気を出しながらも、社長業もしっかりとやっているところは、女性の社会進出が極まった二十一世紀の女性像におけるトレンドだった。

 しかし、社員一万人を抱える組織のトップがこのように薄い印象の人間というのは意外だった。金剛やニシキなど、アクの強い人間を見てきたからだろうか。

 春日夫妻は脅迫状の衝撃が少し薄れてきたようで、余裕が出てきた。部下からひっきりなしにかかってくる仕事関係の電話に当たり前のように対応しながら、夫婦で会話を楽しんでいる。俺たちは日永社員の通信をすべて盗聴することで、日永という組織の内情をほぼ手中に入れていた。

 茂山が日永を調べた限り、黒い噂は山ほどあった。政治家へのSUAを介しての献金、過度のライバル企業に対する情報収集、解雇された従業員の自殺、工場での事故、東北の水源林の国有地買い占め等。それらの証拠を握っている人間が企業から金を引っ張るというのは、そんなに珍しい話でもないだろう。春日がなにをもって脅されているかは俺たちと話すことはなかった。

 俺たちの狙いは二つ、公安の疑いを晴らすことと、春日に接触してSUAの情報を引っ張るということだ。

 これだけの大企業の代表であれば、世間に出ていない情報が聞けるかもしれない。また俺とアオイが出張ったのは、単純に金春と高安に与しやすいと読んだからだ。特にアオイなら金春に色仕掛けでもしてもらって、警察経由でSUA警備部の情報が取れるかもしれない。茂山がSUA本部に諜報員を潜り込ませようと躍起になっているが、外郭団体が限度でいまいち実態が見えないのが現状だ。この動きが敵に露見したら、俺たちが潰されるだろう。

 春日ミコトがなにか騒いでいる。自身の存在をアピールするのに彼女は躊躇しない。おそらく母親が近くに居るのに構ってくれないことに不満なのだろう。当の春日夫人は電話対応中だ。

「ゆびが、ゆびがいたい」

 指を抑えて泣いている。アオイがどれどれ、と彼女をなだめつつ指を見てあげた。

「なんにもなってないよ、どうしたの」

「ゆびがいたいぃ」

 いくらアオイがあやしてもミコトは泣き止まない。

 電話を終えた春日夫人が、ほうっておいてください、と事務的に言った。

「以前指にとげが刺さった時に、優しくされたのを覚えているんですよ、構ってほしい時にそう言う癖がついたんです、だから泣いても構わないでください」

 アオイはそういうもんなんですか、と言ってしぶしぶ泣くミコトのそばをはなれた。

 ミコトは疲れて眠ってしまうまで泣いていた。俺たちは彼女の両親の言いつけ通り、無視し続けた。

 ミコトは現在、自身がとても裕福で、日本の同年代の中で稀有な状況にあることは自覚しているだろうか。多忙であるが優しい両親、これから与えられるであろう最高レベルの教育、五体満足で健康で美しい肉体。人はいつ自分と、自分以外の存在を相対的に見るのだろう。俺はいつだっただろうか。両親と自然と本がすべてであった世界。学校通い始めたときだろうか。字が読めるようになってからか。母親の言葉を理解した時からか。認知心理学か発達心理学の本を読めば疑問は解けるだろうか。ただ、俺に関しては一般の例とは違う気がしてならない。俺はまだ、社会的な動物、人間になっていないのではないだろうか。なにか、自身の動物的なものを押し込めて生きている人たち。いずれ爆発してしまうのに、ただその時を待っているのか。


 五月十七日、金春と高安が春日邸に戻ってきて、憂国風盾会の現状を春日夫妻と俺たちに報告した。一度本庁に戻り検討すると告げてまたあわただしく出ていった。

 初めて春日邸に入った高安は、インテリアや調度品をいやらしい目つきで品定めしていた。ああいう子には高価なプレゼントが有効なのだろうなと、色恋沙汰に無頓着な俺でもわかった。彼らにはなんら期待できないだろう。俺たちは依然として春日邸の応接間で、護衛という名の子守りの日々を過ごした。金春と高安は、捜査そっちのけで俺たちに絡んできた。


「和泉さん、ミコトちゃんと仲良くなったんですね、いいなぁ」

 高安はひっきりなしに俺に話しかけてくる。事件に関係あると疑っているのだろうか、いまいち目的が読めない。

「まだまだ、俺と話しているときは表情が硬いですよ、アオイはすごい仲良くなりましたけど」

 感じのいい表情をしたつもりだ。長年人と会話していなかったので、人当たりのいい人物を演じるのはまだ自信が無い。

「日永みたいな大会社の社長さんって近寄りがたいイメージだったけど、すごく優しいですよねぇ、奥さんもすごく上品だし、憧れちゃうな」

「高安さんもそうなれますよ、あんた綺麗だし」

 俺がそういうと、高安が照れているのか、怒っているのかわからないが、へっ、と笑って顔を下に向けた。あんた呼ばわりはまずかったか。お世辞に慣れるにはまだ若すぎるのだろう。

 近くでアオイと金春とミコトが遊んでいた。アニメキャラの双六を三人でやっている。高安が加わろうとしたら、ミコトに断られてしまったようだ。身長が高くて派手な顔立ちの彼女は、ミコトの友達にはなれなかったらしい。

 金春は明らかにデレデレしながらアオイとはしゃいでいる。前職からして、男を気持ちよく話させるのはアオイの得意技だ。それに毎日ニシキと飯を食っていると、自然と聞き上手になる。アオイは楽しそうにしながらも俺と高安の方を時々ちらちらと伺っている。おそらく小さいころから、うるさくするとその集団の支配者に怒鳴られる環境にいたのだろう。その態度は俺をイラつかせた。

 春日夫妻はそれを不満げに見ていたが、彼らも自宅に引っ込んでいるのに業を煮やしている様だ。そろそろ出社してもいいかもね、と話しているのが聞こえた。脅迫事件は、なかったことになりつつあった。


 一週間経っても犯人からのアクションは無く、俺とアオイはこの場を葛野の部下に任せて切り上げた。空港の警戒は依然として続いており警視庁とSUA警備部が半々でギガストラクチャー内の新成田・新羽田両空港を百人態勢で警戒していた。現場の主導権はSUA警備部が握っており、警官たちは苛立ちを募らせていた。とある空港職員が警備部と警官の小競り合いを撮影した動画をネットに流し、マスコミの格好のおもちゃとなった。

 アオイはミコトに情が移ってしまい、名残惜しそうにしていた。ミコトは泣き出してしまい、ぐずぐずとすねていたが、春日夫人が上手くなだめていた。春日達は都合のいい子守りが居なくなったために、ミコトを庭で遊ばせるようにした。葛野の部下を一人付けたが、本来であれば両親のどちらかが見ていなければ不安なのでは、とおもった。


 次の日の五月二十五日の事だった。春日ミコトが何者かにさらわれた。


「あんたらは何をやっていたんだ」

 明らかに混乱している春日は俺たちと公安二人に向けて怒鳴った。春日夫人はショックを受けているのか、ソファに腰かけてずっとうつむいている。

「只今から本庁で対策本部が作られます、あなたたちは自宅から決して出ないでください」

 金春が冷静かつ厳しい表情で言った。

「ミコトが見つからなかったら警察の責任です、事前に警戒していたのに、情けない、 見つからなかったらどうしてくれるんだ」


 春日ミコトがいなくなったのは、俺とアオイが春日邸から去って、前任者に警護指揮を引き継いだ翌日だった。彼女が庭で遊んでいた時見ていたのは、イズミテクノサービスの警備人員一人だけだった。葛野の自衛軍時代の元部下で、空手の有段者だった。だが、彼は情けないことに失神して庭の木に括り付けられていた。俺はこんな無能が自分の組織に居ることに腹が立った。葛野に、警備員でも質にもっと気を配れ、と言い含めなければならない。

「和泉さん、契約不履行です、契約書には私の家族が警備対象だと書いてあるはずですよ、事が落ち着いたら告訴させていただきますんでそのおつもりで」

 春日は鼻息を荒くして俺にくってかかった。春日夫人はソファに座って呆然としている。俺は春日夫妻を交互に観察しながら、黙っていた。

「何か言ったらどうなんだ」

 春日は怒っている演技をしているだけだ、と感じた。

 その場を取り繕うのが面倒になった俺は彼を無視して春日邸から出て、ミコトがいなくなる直前まで遊んでいた庭のブランコ近くをぶらぶらしていた。春日は俺の態度が気に食わなかったらしくぎゃあぎゃあうるさかったが、俺は考えをまとめたかったので無視を決め込んだ。かわいそうにアオイはそれを見ながらハラハラしながらなにもできずにその場でたたずんでいた。

 犯人からはまたなんらかのアクションがあるだろう。

 それを待つだけだが、彼らの目的は金だろうか。それとも春日に対して個人的な恨みがあるのだろうか。それは俺にとって大した問題じゃない。ミコトに危害を加えるのが目的か。そんなわけはないだろう。動機を想像して何になる。解決する意味はあるのか。春日夫妻を恨んでいる人間はたくさんいるだろうが、娘に手を出すという手口は、なんというか情念を感じる。金目当てならこんな派手なことをやらなくてもいいだろう。派手と言うか……そうだ、稚拙さだ。この手口はいかにも頭が悪い。ミステリだ。それも特別低級の。子供の誘拐なんて手あかのついた犯罪は、デルタからエプシロンのドラマにありそうだ。低層は刺激をドラマやスポーツに求める。犯人はチープな犯罪ドラマの主人公になったつもりなのだ。

 春日もそうだ。先ほどの怒りは嘘だ。感情として本物なのは春日夫人の方だ。男の感情ほど当てにならないものは無い。仕事で部下を叱るときに覚えた演技を流用しているだけだ。男は別に子供が死んだとしても、また新しい健康な女に産ませればいい。春日の怒りは嘘だ。あの大根ぶりからすると、どこかの女に隠し子でも作らせているのかもしれない。

 考えがまとまった俺は庭から応接間に、土足のまま戻った。そして春日の襟元をつかんで、

「怒った演技をするなよ、奥さんにはバレてるぞ」

 俺は彼にそう言い放ち、アオイとともにこの場を去った。春日夫妻は怒りを通り越して呆然としていた。俺は不思議と事件の顛末になにも興味が持てなかった。公安や俺たちも含めて、関係者すべてが軽蔑の対象だった。春日は終わらない舞台上でずっと怒りの演技を続けていた。いずれ疲れて眠るだろう。眠れないのは春日夫人の方だ。


 俺たちがギガストラクチャーを出て新宿に向かう道中、ミコトとよく似た服を着ている子供がいるのを見かけた。アオイは彼女を見るや否や駆け寄ってしゃがみ、顔を見た。俺も小走りでその子の方へ向かうと、案の定ミコトではない、同年代の違う子だった。アオイはミコトに既に情が移っていたようで、残念そうにため息をついた。その子はもじもじしながら、俺に花束を渡してきた。よく見ると風呂に入っていないのか、少し匂う汚い子供だった。おそらくアジア難民だろう。日本語が喋れない様だった。着ているワンピースは間違いなくミコトが着ていたものだった。つたない英語で「渡せと言われた」というようなことをわめいている。花束には飛鳥軒のレシートが入っていた。そういえば飛鳥軒は日永フードサービスの傘下企業だ。裏にメッセージが書いてあった。


 春日、子供を殺す、ネットで真実を話せ


 俺はその手紙のバカバカしさに吐き気をもよおした。

 二十世紀のセンスだ。チープだし、子供を使った手口も何か古い映画や演劇で見覚えがある。手の込んだ手口を使うことで自らの犯行に酔っているような気がした。もう関わりたくないと思い、俺はそのレシートをすぐに捨てた。アオイが驚いてすぐ拾ったが、俺はその手紙について春日に報告するのはやめた。こんな事件はくだらない。解決する気もしない。おそらく犯人は俺たちの近くで監視していて、俺がレシートを捨てたところを見て驚いているだろう。周りをぐるりと見渡す。新宿は目の死んでいる若者だらけだった。大半が難民だ。俺は唾を吐いて、アオイと帰路についた。不快な感情を一刻も早く洗い流したかった。春日は公安と俺たちに本当は何を望んでいるのだろうか。俺は春日が殺してくれと訴えているような気もしていた。大企業の社長のくせにそんな弱々しい表情をするな、ともう一度戻って言ってやろうかと思ったがやめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る