第3話

 二十八歳になり山での生活も十年目の冬、鷺沼ニシキが俺の小屋にいる。山口ではめずらしく、昼間から雪が降っている。手作り故に雑で粗末な小屋の隙間だらけの無くても困らないような扉を、声をかけずにいきなり開けた彼の表情は、論文が煮詰まっている大学生のような、悲しげで自嘲的で、かつ思索的なそれだった。短髪がそのまま伸びてしまったような長めの野暮ったい黒髪と黒縁の眼鏡をかけたことによって、柔和な雰囲気が近寄りがたいものに変わってしまっていた。

「ひさしぶり、アポも取らずにいきなり来てごめん」

 粗末な玄関に立ったまま、ニシキは寝転がって本を読んでいる俺を見据えて言った。

 今の俺にアポもクソもない。どうせ明日もあさっても予定はないのだから。

「かまわないけどさぁ、それより寒いから扉閉めてよ、死んじゃうから」

 人と話すのは半年前に母親と会って以来だった。

 そもそも喉からまともに聞き取れる声が出てきたことがうれしかった。

 ニシキは目をじっと見て話すので、思わず目をそらしてしまったことを数秒後後悔した。

 ニシキは俺の了承も得ずに勝手に小屋の中に上がり込み、図々しくも俺が寝転がっている簡易ベッドに腰かけた。

「ねぇ和泉、この前神奈川県でさぁ、八十歳の男が餓死したんだって」

 ひさしぶりに会ったのにいきなりそんな話題か、と驚いたが、もともとそういう奴だった。

 この男は、礼儀や気づかいを気にするのは客商売人か奴隷だ、とバカにしていたのをおもいだした。

 読んでいた本をその辺にうっちゃって上体を起こし、ニシキと横並びに腰かけて会話する体勢になった。

「そうなんだ」

 俺はあまりに唐突なニシキの質問に興味を持てなかった。

 もっと何か会話するにしても前置き的な準備運動が必要なんじゃないのか。

「どう思う」

 ニシキがたずねる。

「どう思うって」

「問題あると思う、日本で餓死だよ」

「無いしどうでもいいよ」

「問題あるかないか、っていうのはいまの日本の社会だぞ、なぜ無いって思うの」

 十年経っても相変わらずこの男はしつこい。

 しょうがないのでしっかりと説明してやることにした。

「まずさ、人権なんてものはしょせん人間が作り出した幻想だから、貧困で死んだとしても国や行政に責任は無いよ、本来餓死するような弱者はほっとくべきなんだからな、遺伝子の多様性を残しておくという意味で最低限のセーフティネットは必要だけど、八十歳の男なら生殖機能が劣化しているだろうからいくら死んでも問題ない、国の経済の面からしても、働けない年寄りなら死んでくれたほうが損失よりメリットの方が大きいだろう、働ける場所もないだろうしね、社会的な生物としても男の老人なんて一番必要無い、八十歳でも女なら娘世代の育児を経験と知識で代替母としてサポートするって役割があるけど、男にはなにもないからな、現在はネットによる集合知が発達しているからかつての部族社会における長老の役割はいらないし、仕事の話をするにしても世代がちがうから話が通じないだろう、なんにもできないやつだ、死んでもかまわない、俺個人的には、べつに誰がどこでどれだけ死のうがどうでもいいよ」

 考えたことを相手の都合も話の構成も考えず一気にしゃべった。

 ニシキはこの答えに満足したような顔をしていた。ほとんど人と会話しない男による、むちゃくちゃで適当な理論に納得できたとしたら、こいつもこいつでおかしい。

「その理屈を聞いて納得する人は、日本に四割いないだろね」

「一割もいないんじゃないかな、怒るやつばっかりだろう、特に人権が大好きなやつらとか」

「でもほんとうのことだ、お前は正しい」

 ニシキは微笑んだ。雪がスーツの肩部分をまばらに白く染めていた。

 ニシキが俺を持ち上げて何をしようとしているのか、分からなかった。

「まわりくどい話はよせよ、俺に会いに来るなんてまたなにか不満でもあるのか」

 俺はイラついてきた。ニシキは学生時代からグチっぽかった。わざわざ俺にだけぶつぶつと呪いの言葉を唱え続けるのだ。

 ニシキは少し考えて、ぽつぽつと話しはじめた。

「いや、その通り、和泉にはかなわないな、きっと不満があるんだ、うん、あるね、今の日本というか、仕事とか恋愛のくだらない悩みじゃないから安心してよ、悪い、自分でも意を決してきたのに、要領を得ないな、すこし相談したいことがあるんだ、というか今なにしてるの、シラフだとなんかダメだね、お酒かなんかある」

 ニシキはいいやつだが、こいつもしゃべるのがうまくない。眼鏡の奥の目玉をあわただしく動かして考えながら、絞り出すように話す。その熱量はたとえ内容が拙くとも、時折向けられる刺すような視線と相まって聞き手を圧倒する。

「酒は無い、俺は別に今なにもしてないよ、本読んでるだけだ、それより相談ってなんだよ」

「相談したいっていってもさ、もうわかりきっていることなんだ、もう決めているんだよ、ごめん、相談じゃなかったね、お願いをしに来たんだ、僕は自分がしたいことを知っていて、それへ向けた行動ができる、世にもめずらしい人間だからね、金もある、たくさんあるんだよ、あとはやるだけなんだ」

 曖昧で気取った言動に腹が立った。具体的な言葉が聞きたい。

「お前は官僚だったな、政治家への愚痴でもないだろ、もったいぶるなよバカ、うっとうしいなぁ、世間話するだけなら意味無いから帰れよ」

 うん、ごめん、とつぶやいて卑屈っぽく笑った後、間をおいてニシキは答えた。

「日本はこのままだとまずい」

 ニシキは寒さか怒りか判らないが震えていた。ここで癲癇の発作なんて起こされたら面倒だとおもった。


 二〇四一年の中露戦後、日本ではある企業グループが社会において大きなウェイトを占めていた。

 SUA(サービス企業単位連合、サービスカンパニーズ・ユナイテッド・アソシエーション)というなんなのか聞いてもいまいちよくわからない名前の組織だが、医療、ネットワーク、移動体通信、マスコミ、各種保険、インフラ、教育、エンタメ産業等のサービス企業大手が連合し、持ち株会社が経営権を一手に握る構造をもった、日本最大のスーパーコングロマリットだった。

 SUAが提供する商品は保険や携帯情報端末、インフラ等の使用料金から賃貸マンションの家賃をすべてまとめて、所得別にバリエーションを持たせたサービスパッケージだ。どのランクのサービスパッケージを使っているかが、家庭の所得レベルを表していた。そして今や生活の大部分がサービスパッケージランクに拠って内容を決められていた。サービスパッケージは大まかに五段階に分かれており、アルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、エプシロンの順に内容が貧相になっていく。提供される娯楽の知性レベルや、保険の適用内容等すべてランク別に差があった。例えば、最も高価なアルファのサービスコードを買っていれば、「トリスタンとイゾルデ」のオペラ公演に行く権利を持つことができる。ただアルファ未満のサービスコードの持ち主は見ることはできない。相応の文化レベルと経済力に応じたサービスコードを選択しなければならない訳だ。購入したサービスコードを認証する一枚のカード、通称コードキーは、ありとあらゆる消費活動と結びついていた。月額料金を支払ってしまえば、どんな小さな買い物でもその範囲で賄うことができる。現金を持ち歩く必要性は激減し、サービスコードさえ購入していればある程度の生活は保障される。中流以下の日本人は、可処分所得のほとんどをサービスコード購入に充てるのが常識となっていた。

 ニシキ曰く、SUAがプロデュースする消費構造は、資本主義の皮をかぶった全体主義であり、無能な人間が最も幸せに暮らせるように作られているそうだ。俺も現状を聞いた限りではニシキの意見に全面的に賛成だが、もっと何か、更に恐ろしいものが背後に秘められているように感じていた。ぬらぬらとした、周囲を取り囲む生暖かい空気がたまらなく、ことごとく不快だった。

 所得ごとに同じサービスを受けて、同じ情報を吸収する。この商品が日本人の九〇パーセントに普及するには戦後二十年かかったそうだ。


 そもそもSUAの前身は二〇四五年頃誕生した多神教の新興宗教で「偉大なる家」という。神道やニューエイジ思想のいいとこ取りの教義を持ち、神秘体験を売りにして拡大していった団体だった。彼らは自身があがめる「偉大なる存在」をブッダやキリスト、天照大神と同一であるとし、神と交信して心の平安を得ることを目的としていた。他宗教のような禁欲や執着を捨てることなどの教義は無く、自分の分を弁えて現状に満足するといったことを説いていた。事実、世界で起きている科学的な進歩や戦争による、生活の過激な変化に疲弊していた日本人の頭には比較的にすんなりと浸透し、指数関数的に信者を増やしていた。憲法では信仰の自由が認められているが、サービスを購入している六割がこの宗教を受け入れている。このマジョリティーはもちろん政治家にとっての最大票田であり、関係が最も強い政党である保守第一党は二十年間野に下っていない。またこの宗教はマズローの欲求のピラミッドにおける自己実現を謳っているが、市場競争や向上心などの上昇志向をある意味否定していた。そのせいかこの宗教に対して自称知識人のバッシングはすさまじく、サービスコードが完全に普及し終わった現在でも、ベータ以上のサービスコードを購入している層はSUAが提供する宗教に対して懐疑的・批判的な態度をとっていた。ただ、大部分の人間が共通する、日本人としての宗教に対する態度、「まあいいや」で済ませた。SUAのサービスコードは彼らにとって、とにかく便利なのだ。

 SUAの指導者たちは戦争で不安定になった産業構造をまとめ上げ、資本を注入しあらゆる企業を統合していった。最初はネット料金や携帯端末使用料と水道や電気、ガスなどのインフラ使用料金をひとまとめにしたパッケージだった。次第にエンタメ業界や金融商品などのオプションが付き始めた。これを契約していれば生活に困ることは無いので、よほどこだわりが無ければ契約する、という状況が進んでいった。

 日本の産業はSUAに加盟している各業界一~三位の寡占状態が続き、流動性を欠いて緩やかに停滞していった。それ以外のサービス企業の商品や海外企業の輸入品は、いわゆる高所得者の嗜好品となった。日本はSUAサービスのユーザとそれ以外の高額所得者に二分され、都市もそれに伴い資本効率化を繰り返していった。

 そして、SUA傘下のスーパーゼネコン五社が主導する、東京ギガストラクチャーの建設計画がスタートした。巨大な建築は、日本人を少しずつ、だが確実に取り込んで肥大化していった。

 SUAはユーザが持つ願望をサービスに取り入れて巧みに昇華し、彼らから向上心や不満さえ奪い去った。そして傘下企業による分業を徹底し、労働を均一化して管理していった。その結果社会は硬化し、企業活動も徐々に斜陽となり、外資系企業の蹂躙を許していた。


 ニシキはそんな日本の状況を嫌悪していた。

「僕、この構造がきらいなんだよ、あのクソ宗教をぶっ潰したいんだ、日本をスポイルしている、このままじゃ日本は外国の商品を買う金持ちと、餌を与えられる家畜しかいなくなってしまう、和泉ならわかってくれるきらいなんだよなにもかもが、日本人の男は戦争と経済の敗北によって精神的にオカマになってる、女たちは非現実に逃避してウツか宗教だ、もうたくさんだ、きらいなんだよ」

 ニシキはそう言うと少し落ち着いた。彼としてはこのタイミングで酒でも飲みほしたかっただろう。

 俺に言わせれば、くだらないブランド製品などを買う人間も家畜に近いと思っている。

 幻想にしがみついてないだけ家畜の方がマシかもしれない。

 ましてやあらゆる宗教を信じる日本人は全員死んだほうがいい、ともおもう。

 完全な経済植民地となってしまい、皆が貧乏になったら外資は徐々に撤退するだろうが、そうなると更に宗教にすがるやつが増えるだろう。目に見えている。

 アウトドア用品なども質のいいのは外国製だ。粗悪で安いものはSUA系列のスーパーで手に入るが日本製のものばかりだ。モノづくりにプライドを感じない。昔は日本もすごかったようだけど、現状を鑑みるととても信じられない。学生時代に無料で加入できるエプシロンのサービスを契約している知り合いがいたが、内容は酷いものだった。最低限のインフラ提供、娯楽はギャンブルや粗悪な居酒屋、お互いバカにしあうだけの低俗なコメディー動画、性風俗。そして品性のかけらもない刺激的な原色を用いた広告の類。このサービス内容に浸かったまま人生を送れば、動物園の猿と変わらない文化的にシンプルな一生を終えるだろう。だがエプシロン契約者は、年々増加傾向にあるらしい。


「おし、ついてこい」

 俺はニシキを立たせて小屋の外に連れて行った。

 苛立っていた。

 苛立ちの対象はニシキを通して見た日本人すべてに対してだった。

 高校の時にうんざりしつつ、恐れたもののすべてだった。

 正直に言って今までの話に出てきたすべてに関わりたくない。俺は山での孤独な暮らしがすきだ。それでじゅうぶんで、たりないものなんてなかった。

 小屋から少し歩くが、山の中腹にある廃寺へニシキを案内した。途中の山道は雪が積もっていて、革靴のニシキは足がずぶずぶ埋まって歩きにくそうだった。

 到着すると、ニシキは境内を歩き回って興味深げに崩壊が始まっている重要文化財の仏殿を見ていた。

「なあニシキ、俺はお前に会う前からこの寺が好きだったんだよ、時折ここで寝泊まりしていた、俺が生まれる前から廃寺だったが、もともとは曹洞宗の名跡だったらしいんだ、戦争で下関に近いここも中国人の文化テロの対象になって廃寺になった、もう本尊も誰かに盗まれちゃったんだろうね、なんか古い宗教に力がなくなった象徴みたいだけど、俺みたいに雰囲気が好きな人間が他にもいるんだな、誰か境内を掃除しているのか知らないけどこれ以上は荒れないんだ」

 そうなんだ、というニシキは、コートを俺の小屋に置いてきたことを後悔しているだろう。向かう道々でかいた汗が冷えておそろしく寒いはずだ。ちょっと外をぶらぶらするくらいに思っていたらしく、こんなハイキングは聞いていないぞ、とすこし怒っている。一方俺はダウンジャケットにジーンズでじゅうぶん暖かだった。

 雪に覆われた仏殿は見るも無残な状態だったが、書院はまだ辛うじて屋根が残っていて、縁側に座ればかつて美しかったであろう、日本庭園の跡が見える。俺たちはそこに腰かけて話すことにした。

「今日は雪もふっているから尚のこときれいだね」

 今や腐った木の塊に近い、崩れ落ちた山門の方を見つつ、ニシキは言った。

 剣呑だった表情が寒さでさらに余裕がなくなっている。

「あのいかれた宗教の指導者を殺すのか」

 俺はそのSUAの事も宗教のこともたいして知らなかった。知れば大嫌いになって、指導者を殺したくなるのは間違いなかった。

 ニシキは寒そうにしながらうなずいた。

「それだけじゃない、今のSUAを基盤とした産業構造も壊すんだ、頼むよ和泉、俺と一緒にやってくれないか」

 ニシキは真剣な表情で言った。

 俺の腹はもう決まっている。だがいくつか確認しておきたいことがあった。

「明らかに異常なのに、日本社会は変に安定しているだろ、いまから政治家になるとしても時間がかかるし、確率の低い方法を想定しているわけじゃないだろうし、SUAのシステムをすぐに壊すのなら、安定せしめている人間を殺すのが現実的だ、たくさんの人間を不幸に叩き込むことになるんだよ、それがわかっているのか」

「それは覚悟してるよ」

「俺が手伝うのであれば、思考停止しているバカは全員殺すからな、ムスリムみたいにテロを一回こっきりじゃないぞ、殺さなきゃいけないやつは今の日本にたくさんいるから俺たちは捕まっちゃいけないし、途中で死んじゃいけない」

「わかってるよ、わかってる、例えばさ、和泉の考える死ななければいけないやつはどういう人間かな」

「弱い奴に決まってるだろ」

「具体的には」

「なにもできないくせに声だけはでかいやつらだよ、デモやったり、市民団体やったり、ツイッターでわかったようなことつぶやいたり、宗教やったりさ、意思を持っている人間の足を引っ張っている思考停止のバカたちだ、自立しようとせず、なにも学ばず、生み出さず、ただただ権利だけを主張しているだろ、今与えられている権利だって、どのような経緯で自分に与えられたのか知らないくせに、集団じゃなきゃなんにもできないやつらだよ、そんなやつらを黙らせる仕組みがない以上、日本社会はそいつらを飼っていかなきゃならないだろう、そんな欠陥だらけの社会はうんざりだ、ほんとうは飢えて死んでなきゃいけないんだよそんなやつらは、そうだ、エプシロンの契約をしているようなやつらさ、生産性もない、そいつらを野放しにしているから日本はこんなみじめな国になったんだ」

 ニシキは、そう、そうなんだ、と相槌を打って、笑いながらうなずいている。

「いいか、バカを殺す権利を俺に与えろニシキ、そうすればSUAなんてぶっ壊してやる」

 俺がそういうと、ニシキはうれしそうに、ここへきてよかったよ、とつぶやいた。


 それから俺たちは具体的な話に移った。あたりが暗くなってきたが構わず、静かな興奮が、二人を包んでいるのが分かった。

 ニシキは話す声がどんどん大きくなっていった。

「SUAがなくなればそいつらにも何らかの意識の変化が起きるはずだ、寄らば大樹で安心しきって、スポーツや、酒や、ギャンブルや性風俗やファッションに逃避している場合じゃないと日本人は気づかなければならない、日本は自分で作り出したシステムにとらわれて、身動きが取れないまま死んでいこうとしているんだ、別に弱い奴らは死んでもいいけど、日本社会の構造自体が完全に壊れてしまうのはダメだ、大規模な外科手術が必要だ」

 ニシキは縁側から降りてそう言った。座っているだけだと寒くてしょうがないのだろう。

 そして境内の手水の方へゆっくりと歩いて行った。

 俺もそれに従って、山門の方まで雪を踏みしめながら向かった。

 俺は、ニシキよりもっと過激なことを考えていた。

 日本という国体自体を破壊したい、とおもった。

 今あるシステムをぶっ壊してこの寺と同じ状態したかった。

 東京のビルを全部壊して倒れたビルのいちばん上に座って今のようにニシキと会話をすることをかんがえた。


「覚悟はあるみたいだな」

 俺は石段から見下ろすことのできる長府の街を眺めた。

 雪は止んで雲間からか細い光を放つ夕陽が見える。明かりをつける家も多くなってきた。

 ニシキは壊れた仏殿を眺めながら腕を組んでいる、何やら考えを巡らせているようだ。 

 そして腕を組んだまま俺の方を向いて仁王立ちした。息を深く吸って、吐いた。


「然るが故にね、僕たちは日本をあらゆる構造から解放するんだ」


 ニシキは大声で叫んだ。

 寒いのは忘れているようだった。

 俺は今度はニシキから目をそらさなかった。


 『然るが故に』って、用法が少しおかしいと思うんだけども、ニシキは思い込みが激しいので、間違いを指摘しても改めないだろう。しかしよく喋るくせに口下手な奴だ。

 十秒ほど黙って見合った。

 息を大きく吸い込んだ後、低く響くような声でニシキは続けた。

「キング牧師でもガンジーでも出せなかった飛距離をお前なら出せるよ」

ニシキは、俺がおもわず笑ってしまったほど真剣な顔をしている。

「そりゃ大げさすぎるよ」

 自給自足の社会不適応者が買いかぶられたものだ。


 日本がどうなろうと知ったことではないと思っていたが、ニシキの少し緊張した面持ちは、俺に対する悲しいまでの信頼と期待に満ちていた。それが演技ではないということが不思議なほど伝わってくる。

 少し盲目すぎやしないだろうか、俺はそう思った。なぜこの男は十年連絡も取っていなかったかつての旧友に対してこのような表情ができるのか。学生時代に感じた懐かしい狂気を思い出す。彼は頭のいい男だが、問題にぶつかった時、あらゆる理論を検証し場合分けを行ったうえで、あえて直観に従う酔狂なところがあった。よく考えたうえで、投げやりな行動に出る、そんなニシキが好きだった。


「具体的にどうするか考えているのか」

 と俺がたずねると、

「バカにされそうで嫌だけど笑うなよ……情報機関を作るつもりだ、内閣情報庁や公安とは独立した、超法規的活動ができる独自の力を持った組織だ、国内外の情報をすべて握り、死ぬべき奴を殺すことが出来る、少なくとも和泉の言う弱者を整理する組織だ」

「バカになんかしないさ、手伝うよ」

 俺は自分でも意外なほど即答した。

 自分自身の行動に時折驚いてしまうことがある。知性を信奉していながら、本人はいたって直感的で嫌になる。

「本当か、助かるよ」

 ニシキの表情があかるくなった。

「国内外の誰もが手を出せないくらい強い組織を作らないとな、一人一人が独立していて強者である組織だ」

 俺がそう言うと、ニシキは一見冷たく見られがちな無表情をくしゃっとゆがめる、ギャップで人好きのする笑顔を見せた。

 その時、俺が常に感じていた敗北感が初めて前向きな色を帯びたように感じた。

 十年前、不安の発作に襲われてめちゃくちゃになり、東京から逃げ出した敗北感だった。

 山口での暮らしで満足しているつもりであったが、俺は無意識のうちに逃げていたことにようやく向き合うことができた。

 俺の眼はあの夜以来なにも見ていなかった。

 ニシキの提案を自分の運命が新しい段階に移ったことを告げる合図と捉えた。今日以降のために自分の人生はあるのだ、と感じていた。ニシキは俺がいないと自分の望みが叶えられないことを知っている。昔教師に暴力を振るったように、俺はこれから不特定多数の人間に蓄えた力を行使する。

 足元の雪は溶けてやわらかくなっていた。大量の雲から解放された夕日が徐々に高度を下げて西側に位置する山裾に近づいている。木々に積もった雪はすこしずつ沈んでいく太陽に溶かされて、音を立てず地面に落ちていた。俺の瞼の裏には、いくら周囲が暗くなろうと、腕を組んだニシキと夕日がセットで焼き付いている。俺は今日をずっとわすれないだろう。

 ニシキが何を考えているかは大体理解した。俺達の敵は変わってはいない。この日本を覆う価値観、システムだ。

 周囲が更に暗くなってきた。山門をくぐり長い石段から見下ろす長府の町は、江戸時代の名残を残す石塀と、雪と、民家の光で彩られていた。俺たちは湿った石段をすべらないように慎重に、興奮しはやくなった心臓の鼓動そのままのテンポで、暗い境内から光の中へと降りていった。

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