第2話

 西暦二〇四一年、実質一ヶ月しか続かなかった対中露戦争が終わり、日本がとても曖昧な敗北に甘んじていたころ、両親は山口県長府市のはずれにある霊鷲山のふもとの一軒家に住んでいた。俺に戦争の記憶は一切無く、両親にもどの程度影響があったのか定かではないが、何をやっているのかよくわからない父と、明るいが何を考えているのかわからない母親のもとでなんの疑問も持たずにくらしていた。家の周囲には山と誰のものかわからない荒れた田畑だけで、両親以外の人間が棲んでいるところに向かうにはどんな交通手段を使っても一時間以上要した。

 物心ついたときには、父の蔵書を読むのが好きだった。

 父はいつも家に居ないくせによく本を買ってきて自分のささやかな書斎を細かく更新していた。俺は居ない父の代わりに書斎の主となり多くの時間をそこで過ごした。読書以外の時間は、山で木に登ったり山の地図を作ったりしてあそんでいた。ほとんどひとりであそんでいたが、小学校にあがるまで両親以外の人間と関わりを持っていなかったし、孤独であることに気付いていなかった。本は何でも読んだが、特に好きな本というものは無かった。ただ、背が伸びると本棚の上の段に手が届くようになる。上の段になるにつれて本は難しい内容になった。最上段の本を読んでいた時、母親にえらくほめられた。母は父の本棚の本の配置をすべて把握していたが、内容までは知らなかったのだろう、その時読んでいたのはくだらない小説で、ほめられるような内容ではなかったので違和感を覚えた。読んでいたのはセリーヌの「夜の果てへの旅」だった。絶望した男の物語だ。

 父は滅多に帰って来なかったが、まれにふたりで山を登るときに、外の世界には刺激があり、面白いことがたくさんあるよ、と言った。興味をそこまで持てなかったが、父の語り口がとても楽しそうだったので、聞いている俺もうれしくなった。父は金をどこから仕入れているのか知らなかったが、母親が金に困っているような様子はなかった。

 小学校、中学校と進むうちに不条理な暴力や権力の横行があることを本以外で知った。

 学校は初めて対峙するシステムだった。

 体育座りという座り方を教師に強制されたとき、なんて窮屈な恰好だろう、とおもった。

 他人に従う、ということは俺にとって新鮮な体験だったが、すぐにいやになった。最初は被害者であったが、体が大きくなるにつれ、他人にな暴力をふるってみるようになった。

 それはこの先の人生を決定づける実験だった。巨大な壁だと思っていた本棚は、いつのまにか俺の背と同じくらいになり、文字通り等身大の友人だった。


 中学二年生の冬、歴史の授業中に教師の頭を黒板におもいきり叩き付けてみた。

 二〇三〇年代に作られた、かなり老朽化した校舎の二階、当時は近代的だと思っていたが、今考えると笑ってしまうくらい古臭いモダンデザインの教室の中だった。明度の高いパステルカラーで彩られた、子供の野性を押さえつけるための入れ物だった。硬い木と鉄でできた椅子。クラスメイト達は騒ぎ、先生がそれを注意する。

 俺は音を立てないように椅子から立ち上がり、生徒全員の視線を感じながら、黒板に古代エジプトを滅ぼした海の民に関する説明を書いている彼に気配を消して近づいた。自分より背の低かった彼の後頭部を、右手でつかみ野球のサイドスロー投法のように前方に投げた。当然の結果だが、黒板に顔面を強打した彼は額から血を出して昏倒した。そして彼の表情を観察した。痛みに歪んで、いつも以上に醜くて不快だった。痛めつけた人間の表情など、見るもんではないな、とおもい、ふと背後に目をやると、教室が静まりかえっていた。しばらくすると級友たちは見知った顔が血を出して倒れていることに、興奮したり、青ざめたり、無理して気にしていないふりをしていた。女子がまとまって外に出ていった。俺が好ましく思っていたおとなしくて小柄な女の子が、俺を虚無的な表情で見つめていた。視線をあわせると、緊張しているのか目をそらした。見つめ続けると、彼女の息が徐々に荒くなっていくのがわかった。

 教室の反応やその後の学校側の処理はおおかた予想通りといったところだが、ほめられたり、うまいものを食ったり、運動をしたときの様な、健全で本能に根差した快とはちがう、からだの中のほの暗い部分から沸き上がる、陶酔するような快楽をおぼえた。けして快楽が目的ではなく、あくまで副次的な発見だった。今考えると自分がどのような理不尽を公的なものに対して振るえるかという無意識的な確認作業、という意味合いが強かった。

 社会的実験。自分の力をためすため。

 できるだろうな、とおもい、やっぱりできただけのことだった。成長するにつれことあるごとに、この確認作業は重要だった、とおもいかえすようになる。

 歴史の教師は、目がシジミくらいの大きさで、はっきりしない印象の顔が不快だったくらいで、好きでも嫌いでもなかった。時折彼の言う冗談で笑ってしまうこともあったし、彼のもつ情報量に感心したこともある。あえて理由を考えるとすれば、当日彼の着ていた服がださくて気にいらなかったくらいだ。

 彼の着ていたカーディガンの淡い赤と、彼の額から出た血の黒さが印象的だった。頭が悪そうで肌の汚い体育教師が教室に飛び込んできて俺を押さえつけるまで、俺はその赤黒い血とカーディガンの明るい赤を見比べながら、血の色のほうが渋くてすきだな、俺の血もこの色なのだろうか、などとのんきなことを考えていた。

 その後自宅謹慎処分となった。母親は一応俺を叱ったが、内心おもしろがっているのが伝わってくるようなおざなりな叱り方で、この人とは血がつながっているのだと感じた。

 彼女は借り物の価値観でしゃべらない。母のいちばん好きなところだった。

 確かに理不尽な暴力というものは傍から見るとシュールでおもしろかったりするものだ。

 彼女にとっては外国に居る父も学校で事件を起こした俺も、心理的な距離はおんなじで、別の星の出来事のような感覚で捉えているようだった。父はこの時も不在だったが、この事件の詳細を聞けばよろこんでくれただろう。

 二週間の謹慎期間中、ずっと山にいた。山中は昼間でも光のとどかない、とても暗い広葉樹林がある。人工的な光が苦手だったので、暗いところですごすのがすきだった。単純にまぶしくて眼が痛くなるからだ。

 夜は自宅のすぐ後ろにある山の中腹に位置する廃寺の崩れかかった仏殿に忍び込んで寝ていた。木屑と砂、土で汚れた床を軽く手で掃除する。仏像は盗まれていてもう無い。自分がこの仏殿の主になった気がしてうれしかった。ランタンをつけて心地よい光量に調整する。ちょっと暗すぎるぐらいが望ましい。見たいものなんてここには無い。

 母親は時折廃寺に来て二日分の食事をまとめて持ってきてくれた。なぜ山にいるのかは訊かなかった。俺も答えることは出来なかっただろう。謹慎期間最初の夜、ランタンの光しかない廃寺の暗闇のなかで、流血した教師の映像を頭中で反芻した。あのとき、血を流しながら天井を見つめていた。意識はあったはずだ。俺からは目をそらしていた。これも予想通りだが、彼は死ななかったにもかかわらず、復讐に来ることはなかった。


 山口県長府市にある公立中学校のカリキュラムを終えて、東京都品川区の高校へ通うこととなった。長い歴史を持つ私立校だった。俺はその高校の敷地内にある寮に入ることになった。父の蔵書はすべて読破していたので、山口ではもうやることがなかった。

 二〇五五年の東京は経済的なピークだった二十一世紀開始時には想像がつかないほど都市がスラム化していた。そのなかで大企業の本社機能が集中している山手線東京~品川駅間のみ、裕福な人間が集まるエリアだった。中露戦後から徐々にその千代田区、中央区、港区、品川区の一部エリアは後の「東京ギガストラクチャー」と呼ばれる超大型建造物群の準備段階に入っており、一〇〇〇メートル以上の高さを誇る高層ビルが、同じ規格できっちり六〇〇メートルの等間隔でタケノコのようにポコポコ生えていた。隣りあう高層ビルをつなぐ通路が均等な高さでつなげられ、最終的には高さ一〇〇〇メートルの巨大な壁に似た構造となった。ビルを頂点、六〇〇メートルで統一された通路を辺として、ちょうど真上から見たときに正六角形を作り出すようにビルは配置されていた。ビルとビルの間の空間は「エリア」という単位で管理され高さ六〇メートルごとに区切る天井がつくられた。例えばかつての銀座は銀座エリア一階と呼称され、その上にいくつもの銀座が重ねられるように、銀座エリア二階、三階、四階、と六〇メートルごとに高くなり、ビルの外観では各エリアの境目に航空障害灯が絶えず明滅していた。その六角柱が何十も集まって、ボードゲームのようなへクスを構成するようになる。衛星高度から見ると、首都圏の南側はまるで蜂の巣に見えた。ギガストラクチャーが巨大になるにつれ、それ以外の都市は衰退していった。主要商業圏はギガストラクチャー内の各フロアになった。かつての大都市である新宿や渋谷などは、大企業のギガストラクチャー内への本社移動などで交通量が激減、治安が悪化し成人するまでは近づかないようにと高校では言われていた。ギガストラクチャーはそれらの都市から見上げると、山脈のような存在感があった。

 当時の日本全体では、対中露戦争の講和が政府間で闇の内に締結され、沖縄が中国に、北方領土四島がロシアに実効支配された。政府は敗戦を認めずにあくまで講和と言い張ったが、領土を取られている以上、実質的に二度目の敗戦であることは日本国民共通の認識だった。暗いムードが日本をおおっていた。

 戦争の後、アメリカ合衆国製汎用AIオペレーティングシステム「レーニナⅣ」が発売されたことでさらに空気が一変した。AIフェーズ4のアーキテクチャが搭載されており、言語理解機能はないものの、単純作業には十分すぎるほどに「知性」と呼びたくなるような処理能力を備えていた。近代の残滓である工場には人間は必要がなくなり、完全失業率は一二パーセントを超えた。また事実上の敗戦によりアジア難民の大部分を国連から押し付けられたかたちになり、ギガストラクチャー外のターミナル駅周辺には国籍不明のアジア人があふれ、チャイナタウンとリトルインディアが混じり合ったような、独自の文化圏を作り出していた。東京にスラムが増えているのは、ギガストラクチャーが作られただけではなく、敗戦と「レーニナⅣショック」、大量のアジア難民流入が要因だといわれている。一方ギガストラクチャーは、一定の命令を与えれば自らの判断で動く、レーニナⅣのソフトウェアを搭載した大型建設用機器群によって終わりの見えぬ増築作業を続け、スラムとはまた違ったベクトルで爆発的に膨張していくのだった。東京在住の日本人は聞き慣れない言葉を使う人間だらけのスラムを捨て、ギガストラクチャーの中に逃げ込むように移住していった。


 俺はそんな状勢を頭で把握しながらも、ぼんやりとただ漫然と暮らしていた。住んでいたのはギガストラクチャーの中でもスラムでもなかったし、ある意味東京の中で変化に乏しく、孤立していた地域だったかもしれない。

 通っていた高校には山口の退屈な学友とは一風違った人間がいたが、一番変だったのは、鷺沼ニシキという男だった。

 ニシキは人に好かれる男だった。上背が高くとろんとした表情は常に柔和な雰囲気を醸し出し、いかに周囲から大切に育てられたかうかがえる気品をそなえていた。同年代では頭抜けておとなびたことを言い、思春期にもかかわらず細やかな気配りの出来る男だった。

 父親は脳科学を専門とした元大学教授で、現在は薬品メーカー企業の相談役を務めており、友人の中で唯一アルファのサービスコードを持っていた。ただ印象としては、彼はおそらく狂っているだろうと感じていた。

 到底理解できない迷宮のような虚を心の中に隠し持っていた。


 ニシキとの初対面をよくおぼえている。

 年度が始まったばかりの為まだ殺菌したてのクラスの教室だった。

 また教室に居なければならないんだ、と俺はイラついていた。周りの人間の質が変わるだけで、環境の大枠はちっとも変っていない。

 よっぽど俺が怪訝な顔をしていたのだろうか、ニシキは俺の席の近くまでわざわざ来てからかい半分に話しかけてきた。

「あんた、つまんなそうだねぇ」

 ニシキの表情を見ると、確かに俺よりは楽しそうな表情をしていた。坊主に近い短髪と長身、それですごい目が細いやつだな、とおもった。からかわれているのかもしれない。

「そりゃそうだろ、バカそうなやつばっかりだし」

 適当にそう答えるとニシキはたじろぎながらも笑っていた。俺のあまりにも雑な発言におどろいていた。坊ちゃん育ち。俺はさらにイラついた。

 少し考えて、仰々しくため息をついた。

「そだね、アホばっかりだ」

 そういうお前もアホなんだよ、と言おうと思ったが面倒なのでやめた。ニシキは俺の机に貼りつけられている紙に目をやって不思議そうな顔をしている。座席に名前と番号がふられていた。

「『和泉ユウ』、これでいずみってよむの、この最初の『和』はよまないの」

「しらないよ、別にどうでもいいだろ」

「へんなの」

「うるさいな、どっかいけよ」

 ニシキは少し間を置いて、

「…………ぼくは鷺沼ニシキっていうんだ、よろしくね」

 人懐こい微笑みだった。俺はきもちのわるいやつだ、という印象を持った。

「おまえだってへんな名前じゃん、なんだよニシキって」

「まぁ、そうだな、そうかも」

 そう言ってニシキは元々細い眼を更に細くしてちょっとだけ笑った。

 自分をいいやつに見せたいのかな、とおもった。


 ニシキという友人ができて、戦後の殺伐とした時代背景にもかかわらず、進学校ならではの守られた起伏のない生活をおくった。住んでいる部屋、マンションの周りの店、学校への行き帰り道、電車で遠出して神保町の古本屋。少しずつ、俺の世界は広がっていった。

 ただ、言いようのない今の環境に対する不満と不安は常にあった。

 年齢を重ね世に蔓延している情報を吸収していくうちに、自分より自由で、楽しんでいる父親のような人間がいる、ということをうっすらと感じていた。父は自らの知性と能力で何にも縛られずに生きているはずだった。それをうらやましいとおもうのは、自らの価値観が予定調和に支配された環境の中で醸成されていくにしたがって、それを打ち破り、自らの力をもって実行したいという欲求があったからだった。ただ俺はそれを誰にも打ち明けなかったし、勘づくような人間は周囲にいなかった。自分の考えはことごとく周囲とちがっていたし、表情は生理的な反応としてうごくことはあっても、感情の発露としては曇ったものしか出していなかった。要は、当時の俺は自己顕示、いわゆる政治が嫌いだったのだ。周囲へのアピール、という行為には傲慢さしか感じなかった。その時は、自分の考えていることを他人に伝える必要がないとおもっていた。生まれてから、誰とも価値観が合うことはなかった。

 東京で暮らしていた当時、不快感はいつまでもぬぐえなかった。情報や快楽は購入したサービスコードの範囲内だけだった。この先大人になり職を得て働き続けたとしても、囚われたままのような気がしていた。

 俺はこの文明社会の概観も知らずに暮らしている、とにかく自分には知識が足りない、周りを覆っているものの歴史、構造、目的も知らず、サービスコードを買いさえすれば、生きていくだけに必要なものが文字通りお膳立てされている、それで満足しなさいと言われても、本に囲まれて暮らした経験のある俺としては無理だった。

 自身を教育しなおさなければ、と感じていた。今手にしているものは人類の結果だ、農耕から工業、工業から情報へと社会の基盤が移っていった経緯の詳細、俺はそれを知らず結果だけ享受している。

 とにかく、勉強をしなければ、既存の社会に何をされてもわからないという状態になってしまう。そう考えるようになった。


 高校三年生の夏のことだった。放課後の学校でニシキととりとめのない話をしながらだらだらとすごしたあと、寮の自分の部屋に帰った。なぜかかなり疲れていて、頭が朦朧としていた。

 学生寮は十二階建てで俺の部屋は六階だったが、運よく周りに高いビルは少なくて見晴らしのいい部屋だった。

 テーブルの前に間抜けた表情で座り、コップに水道水を入れてちびちびと飲みながら何を考えるでもなく過ごしていた。東京に来てからなにかとせわしなく、こうやってひとりになって考えを整理する時間だけ生きた心地がしていた。

 その時突然、体の足下から頭へ悪寒が走り、経験したことのない不安感にとらわれた。自分が自分ではなく、まったく得体のしれないなにやら奇怪なものになってしまった、となぜか確信できた。恐怖で震えずにはいられなかった。

 涙を流しながらも、この泣いている自分が今までの自分ではない、と絶望し、ただおびえるしかない時間が続くのだった。体中の骨がガタガタと震えて止まらなかった事を明確に覚えている。この状態が続けば、自分は精神に深刻なダメージを受けて、取り返しのつかない白痴になるという予感があった。このなにげない夜の数十秒間に自分は徹底的に破壊され、今まで保ってきた精神の平和などすべて夢だったかのように、外部の全てを恐ろしく感じたのだった。うずくまりこの精神的な地獄が終わるのを待ったが、既に目を開けていられなかった。目をつむり布団をかぶってひたすら耐えた。

 何時間、いや何分だったかもしれない、どれだけ時間が経ったかわからないが、そうしているとすこし落ち着いてきた。意識が体から離れて遠くで閉じ込められているような、そこで何者かに醜悪な何かに改造されているようなむかむかする感覚を覚え、落ち着け、落ち着け、とうめきながら、半狂乱で部屋をあるきまわった。

 ふと、部屋の窓から見える建設中の巨大なビルが目にはいった。たくさんのサーチライトがビルに向けられ、夜の帳の中で、舞台上で照明を浴びる女優のように浮かび上がらせた。ビルに重なった窓ガラスに反射した自分の顔は、見たことがないほど醜かった。

 その瞬間、遠近感がなくなり、自分が今ちょうど見ている建設中のビルと同化したように感じた。今の俺の体は他人のもので、あの無限に伸びていくビルなのではないか、と気付きにも似た想像をした。自分が周囲の建築機械に体をいじくりまわされて、強引に形を変えられようとしている。成長はとまらず無限に肥大していく自分。それを想像した時、先程を上回る悪寒と吐気をおぼえ、トイレに駆け込んで激しく嘔吐し、そのまま失神した。

 明朝俺はトイレで目を覚ましたが、昨夜の経験を鮮明に覚えていることに失望した。自分が自分であることに確信を持てなくなった。周りを覆う巨大な人工のシステムへの生理的な恐怖、何より自分の空虚さに気づき、オリジナルなものを探す為に、都会をはなれしばらくひとりになろうとかんがえた。


 その後山中で自給自足の生活をするべきだと結論付けたのは、父の本棚にあったソローを読んだ影響だ。「森の生活」は読むたびに精神が清潔に保たれるような感覚をもたらした。

 理想的な環境を求めるのは自然の感情だ。それを妥協して諦めた人間にはいつからか負けた人間特有の匂いが染みつく。それはどれだけ努力しても拭えないのだ。

 周りに誰もおらず、ただ本を読むだけの生活。自らの力でそれを実現するのを想像すると胸が躍った。SUAのサービス契約はもちろん解除した。恐怖は山へ戻るまで、依然として続いていたが、必死に抗いながら準備を進めた。


 それから一八歳から二八歳になるまで、山口県の実家近く、山の中で暮らした。比較的ひらけた山の中腹の広場に小屋を建て、半自給自足の生活をしていた。インフラはネットと電気のみで、ガスと水道は必要なかった。水は川から汲んだものをろ過すればいいし、ガスは燃やす薪や草があれば無くても問題ない。電気は情報端末をつかう以上必須だったが、冷蔵庫や洗濯機等の家電は一切持たなかった。時間があれば実家から持ってきた本を読んでいた。活字中毒と言われればそれまでだが、無料の電子書籍にも手を出しつつ、ジャンル問わず読みあさった。俺は晴耕雨読を地で行っていた。

 次第にひとりでいることはけして悪いことではないのだとおもえるようになった。むしろ精神生活は充実していたといえる。自然のやさしい無関心は、心地よいものだった。

 父の蔵書もすべて二回以上読み終え、図書館にもないより高度な専門書に手を出すようになっていた。あまりにも専門的な疑問が湧いた場合は、個人的にその分野の権威、主に近くの大学の教授に連絡を取った。大半は好意的にとらえてくれて、丁寧に回答してくれた。大学教授という人種は、ひょっとしたら俺よりも暇なのかもしれない、と考えていた。

 それというのも当時から現在にかけて、日本の大学の研究費は減少の一途をたどっており、教授になっても金のかかる研究はできず、基礎的な研究のみが国内で可能だった。彼らは日々削られていく予算を不満におもい、海外に移住したり民間に移ることも多かった。

 そんな彼らのイラつきを俺は利用した。若さもあいまって知的好奇心は暴走し、ネット経由で米国ブルッキングス研究所の外交に関するレポートや、海兵隊の訓練操典などの資料を入手しては、エッセンスを抽出して自分なりの考察を行った。読んだ本の影響で体を鍛えてみたりもした。

 一見不毛な行為ともとれる十年間は、危機的状態にあった精神の根幹を再形成し、過剰なほどの情報とそれを土台にした適格な判断力をもたらした。気づくと恐怖はなくなっていた。

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