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 店主は、あまりのことに握った包丁を落としそうになった。あの大タヌキが、雷来軒に三月も来ていないなんて。いや、そうではない。そんなことは問題の一部に過ぎない。それ以上に、店の最常連である大タヌキの不在に今まで気づきもしなかった自分自身にこそ店主は驚愕したのだ。




 店主はヨロヨロの力ない足取りで、カウンター席に辿り着くと、どうにか腰を下ろした。大タヌキの身を案じるほどに不安に苛まわれ全身から力が抜けてしまっていた。しかし何故だ。何故、俺は大タヌキの不在に気づかなかったのだ。自問自答を繰り返す中で、店主は必死に記憶を遡ろうと試みる。しかし、大タヌキを最後に見た日のことを思い出そうとするも、どうにも記憶に霞がかっておりうまくいかない。




 思い返せば、ここ三月の間、店主はラーメンのことしか考えていなかった。日中の営業を終えると、寝る間も惜しんで厨房に詰め、敢えて完璧なバランスを生んでいたレシピを崩し、更なる高みを目指してラーメンに打ち込んだ。そしてその甲斐あって、今日という一日を迎えることができた。




 まさに、ラーメンに命を懸けたと言って過言ではない月日であった。そう。店主はラーメンに打ち込むばかり、大タヌキの不在に気を留めることすらできなかったのだ。そこまで、思い至ったところで、店主の記憶の霞に一筋の光明が差した。光は、急速に霞全体へと広がっていき記憶の全てを鮮明としていく。




 そうして店主は全て明らかとなった記憶から、一つの結論を導き出した。大タヌキが最後に姿を見せた正にあの日、彼はラーメン熱に取り憑かれるに至ったのだ。そして、それらは全て雷来軒常連四天王の一人である『あの男』の仕業に違いないと。




 「全て『ナナフシ』のせいだ」




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