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 とある日のこと。その日の店主は、いつにもまして上機嫌であった。なぜなら、つい昨晩、雷来軒の「こってりラーメン」は大幅なアップデートを果たしたからだ。旨味は増し、より複雑に絡み合った食材はそれぞれの宿した味を十二分に発揮している。完成したばかりのスープは、どこか神々しくすら思えるほどだ。




 だが、どんなに浮足立った一日であろうと店主がルーティーンを怠ることはない。今日も店主は、完成したレシピをもとに朝九時の一杯目のラーメン作りにとりかかっていた。ご機嫌な鼻歌と共にスープを煮立たせる。さあ、時間を無駄にしてはいられない同時進行でトッピングの準備だ。ネギの土を落とし薄く細く切っていく。トントントンと包丁の音が店内に心地よく響く。その音はまるで、拍子木を打ち鳴らしたもののようであった。しかし、拍子木だけではちと寂しい。店主が、「これに鼓でも合わさったら更に良いのだが」なんてしょうもないことを考えていると、ふと一人の常連客のことが脳裏をよぎるのであった。




 その常連客は、店主が密かに『大タヌキ』と呼ぶ大食漢のことであった。いくら常連と言えども、所詮はラーメン屋の店主と客の関係だ。客の素性なんぞ、店主の知るところでない。しかし、よく来る客の顔は覚えてしまうし、そうすると区別するために仮の名が必要となってくる。店主は目ぼしい常連客全てにあだ名をつけていた。『大タヌキ』に始まり、店に入ってくると必ずハローと声をかけてくる『ハロー爺さん』、常にアロハシャツに迷彩柄のハーフパンツを履いている『アロハ迷彩』、その手足の細さから『ナナフシ』なんて名付けた男もいる。もちろん、人前で声に出して呼んだりはしない。あくまで店主の中でのみ使われるものだ。




 大タヌキは、雷来軒の常連中の常連、その来店する頻度と言ったら店主についで多いほどの猛者である。あだ名の由来からもわかるように、かなりの巨漢でそのプヨプヨとしたお腹を手のひらで打てば、それこそ鼓顔負けで「ポンッ」と良い音が鳴るであろう。大タヌキのタヌキっぷりは、それだけにとどまらない。日にコンガリとやけた肌はタヌキの毛色によく似たものであるし、落ちくぼんだ目に影ができているその愛らしい様はまさにタヌキそのものだ。




 大タヌキは、店に来ると必ず「こってりラーメン」を大盛りで頼んだ。通常のどんぶりの倍はある大盛りの、そのカロリー量は厚生労働省が提唱する成人男性の一日の摂取カロリーをゆうに超す。そのうえ、大タヌキは替え玉までも頼むのだから驚きだ。かつてタヌキと称された徳川家康は、タイの天婦羅にあたって死んだとされるが、きっとこの大タヌキもラーメンにあたって死んでしまうのではないかと店主が気に病むほどの大食らいであった。






 そんな大タヌキが、もう三月も姿を見せていない。




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