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 時刻は午前9時。とてもラーメンを食べるような時間ではないが、店内には既にラーメンの臭いが充満している。寸胴鍋はコポコポと煮えたぎり、白い湯気をもうもうとあげている。高く伸びた孟宗竹に日の光が遮られているせいで、店内はどこか薄暗い。僅かな間接照明に照らされるのは、黒檀の調度品。とてもラーメン屋の店内とは思えない程の優雅な空間の一角、白い霞にまみれたカウンター席で、店主が一杯のラーメンを前に手をあわせていた。




 店主の前に置かれたるは、雷来軒唯一のメニュー「こってりラーメン」。スープは、一見するとチャーシューと同化してしまいそうなほど濃ゆい赤銅色で、その濃厚さを体現するかのようにトロミを帯びている。含まれる油分は如何ほどの物かとても想像が及ばない。麺は中太のちぢれ麺で、その濃厚なスープとよく絡み、店主の「スープを味わえ」という強い意志が伺える。付け合わせは、メンマに白髪ねぎ、チャーシュー、そして燻製たまご。オーソドックスな組み合わせではあるが、いずれも店主がこのラーメンの為に作った自身の品である。




 再度、申し上げるならば時刻は午前9時。朝食にしては実に重たい一品であろう。




 「いただきます」




 店主は、天を仰ぎ呟く。その様は、まるで神に祈る信仰者のようだ。否、現実に店主は神に祈っていた。その胸に抱く神は、「ラーメン神」。(八百万もいるのだから、そのような神が一柱がいてもおかしくなかろう)「今日も最高のラーメンが出来ていますように」と、心の底から神に祈るのだ。




 「ごちそうさまでした」




 店主の表情は安どに満ちていた。どうやら、ラーメン神は今日も彼に微笑みかけたようだ。誤解のないように言っておくが、雷来軒のラーメンの味は神頼みというわけではない。一見すると、油マシマシのパンチが強いだけのラーメンに見えるが、其の実、油の中で溺れた強烈な旨味は厳選に厳選を重ねられた材料によって重層的に、かつ緻密に積み上げられたもので、ほんの少しの狂いも許されない完璧なバランスによって成り立つものなのである。その繊細な味を保つプレッシャー故に、店主は神に祈らざるを得ないのだ。




 朝9時の一杯のラーメン。もし味に支障あれば、その日は店を開けない。これは、店主が自身に課した絶対のルールであった。




 ちなみに、そんなラーメン屋だからこそカウンターには高菜も、ニンニク醤油も、コショウすら置かれていない。店主の作るラーメンこそが唯一絶対のもので、客にそのバランスを崩すことは一切許されていないのだ。




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