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店主の記憶は今や、全て明らかとなった。
あの日も、大タヌキは店に来るなり「こってりラーメン」大盛りを声高らかに注文した。その提供は実に迅速だ。あっという間にできあがったラーメンが、大タヌキの前へと店主自身の手によって運ばれてくる。店主からしてみれば、大タヌキが店に入ってくるなり通常の二倍の麺をゆで始め、注文が入るころには麺のあがりを待ち構えているのだから当然といえば当然の早さであろう。あとは、大タヌキの食の進みに従って、注文されるであろう替え玉の投入時期を見極めるばかりなのである。「ナナフシ」が来店したのは、そんなタイミングであった。
ナナフシは、大タヌキとは対照的に線の細い男であった。細く鋭い目に、シャープな印象の角ばった眼鏡をかけている。普通の感性であるならば、タヌキの対象で彼に「キツネ」の愛称をつけたであろう。しかし、ナナフシは「キツネ」と称するにはあまりに細すぎる。まるで道端に落ちている小枝のように、細く弱弱しい、かつ長く伸びた手足から想起されるのは必然的に昆虫の「ナナフシ」なのである。しかしながら、彼の食欲はその愛称とは打って変わって太く逞しいものだった。
と言っても、大タヌキのように大量のラーメンに立ち向かうわけでは無い。彼が食べきるのは常に、通常の「こってりラーメン」一杯に過ぎない。だが、その一杯にかける静かながら熱い思いは常人のそれを遥かに超えている。大タヌキの食べっぷりを敵の大群の中を単身突き進む武将に例えるならば、ナナフシのそれは静止した世界の中から、一瞬で決着がつく剣豪同士の一騎打ちと言えよう。ナナフシの食事はあまりにも静かでかつ早い為、いつも店主が気づかぬうちに食べ終わってしまっているのだ。いつの日か店主は、ナナフシがラーメンの湯気で眼鏡を曇らしながらラーメンを啜っている姿を見てやろうと密かに隙を伺ってみたことがあった。しかしホンの一瞬、寸胴鍋に気を取られた僅かな時間の内に彼は既に「ごちそうさま」の合掌へと移行していたほどだ。
思い返せば、あの日は、そんな二人が店内に居合わせる初めての日であった。二人とも雷来軒の常連であるものの、来る時間帯が僅かにズレていることもあって、これまで二人が顔を合わすことがなかったのだ。それが何の因果か、今日は普段よりも少し早い時間にナナフシがやってきた。
店主は、大タヌキを一瞥する。どうやら、食べ終わるにはまだ時間がかかりそうだ。店主の意識は、自然とナナフシへと移っていく。ナナフシは、店主へと軽い会釈を送って店内を見回した。手頃の席を物色しているのであろう。「さて、どこに座るのかな」と店主がその様子を伺っていると、ナナフシは突然ギョッと身体をひくつかせ、目をまん丸と開き呆けてしまった。その見開かれた眼には大タヌキの巨大な背中が映っていた。まあしかし、これは無理のないことだろう。見慣れてしまった店主ならともかく、初めて見るものにとっては大タヌキの体はあまりにも大きすぎた。
「お好きな席にどうぞ」
いつまでも動き出す様子のないナナフシに、店主は促す。するとナナフシは、ハッと我に返りそそくさと大タヌキの隣の席に腰を下ろした。他にも空いている席があるだろうに、と店主が訝しんでいると
ナナフシの目玉がチラリチラリと巨大などんぶりに向かう大タヌキへと向いているのが見て取れる。どうやら、ナナフシは大タヌキの様子が気になって仕方がないらしい。それは、ナナフシの目の前にラーメンが提供されてからも止むことはなかった。ナナフシは、何かブツブツと言葉にならない声を口から漏らし、その手に握られた箸はドンブリにたどり着くことなく宙を泳ぐばかりだ。大タヌキもさすがに、不気味な隣席の様子に気づいたようで、どうにもラーメンに集中できなくなってしまっていた。
「ごちそうさまでした」
大タヌキの声に、店主は思わず「えっ!?」と驚きの声をあげてしまった。大タヌキの食の進み具合を見定め、注文こそ受けていない者の既に替え玉をゆで始めてしまっていたからだ。それを察してか、大タヌキも申し訳なさそうな表情でカウンターに金を置き、そそくさと店を出て行ってしまった。あの大タヌキが、替え玉を頼みもしないなんてことは、いまだかつてなかった。いやしかし、ナナフシの異様な挙動がなければこんなことはなかったであろう。店主は、茹で上がった替え玉をしばし恨めしく見つめ、その責任を問うかのように視線をナナフシへと移した。
しかし、そこにナナフシの姿はなく、カウンターに置かれた代金と、全く手を付けられていないラーメンが寂しく湯気をあげているばかりであった。
店主は、膝から崩れ落ちた。経緯はともかく、二人の常連が、一人は替え玉を頼まず、もう一人はラーメンに手を付けさえしなかったという事実が、店主へと重くのしかかったのだ。なにが完璧なバランスだ。なにが知る人ぞ知る名店だ。店主は、更なり進歩を追い求めなかった自分自身を呪った。だが、店主が再び立ち上がるまでにそれほどの時間はかからなかった。店主のラーメンへの熱い情熱が、再びハートを燃え上がらせたのだ。
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