第十二話 大切な妹

 その依頼が一条家に舞い込んだ時、自分達姉妹の状況を考えて陽菜実は頭を抱えた。

 怨霊は、人が死ねばいつでも発生する。討ち取る側の事情を考慮してくれる訳もなく、例えそれが大喧嘩の最中であっても変わらない。怨霊退治の指示が来れば、どんな状況であれ武器を取る他ない。それが討魔師だ。

「今回は大通りでの交通事故現場。発生時は今日の十七時頃で、死者数は五名。私達二人で片付けるようにって」

 御役目である以上、喧嘩を引きずる訳にもいかない。妹を呼んで内容を読み上げたものの、傍で聞いていた詩月は返事の一つもしなかった。仕方が無いと思う反面、寂しくもあった。聞いているのかいないのか、それすらもよく分からないまま。

 陽菜実は二年もの間、たった一人で怨霊と戦い続けていた。他の地域からの応援も断り、一切心を動かされることなく淡々と。一日に複数体相手することも少なくは無かったし、その度に彼女は御役目を完遂してきた。

 だから、今回もその気になれば彼女一人でどうにかできる筈なのだ。詩月を危険な目に遭わせずとも、一人だけで。二年の間で同時に相手した数よりも多かったが、きっとどうにかなった筈。妹に御役目を伝えなければ良かったと、陽菜実は後悔した。


 討魔師を辞めて、普通の女の子として生きて欲しいと語ってから数週間。姉妹の間に会話は無い。ごく稀に言葉を交わすとすれば、互いの意地の張り合いが始まる。まともに話し合うこともできず、気付けば時間ばかりが経過していた。

 親しい人を二人も目の前で亡くし、自らも精神に異常をきたしつつある陽菜実にとって、詩月だけが最後に残った光だっだ。

 彼女は祖母や母と違い、家柄や御役目に固執していない。むしろ嫌っている。周りの同級生達と同じように、怨霊退治とは無縁に生きたいと願っている。太刀を振るうのも気味悪がり、半年以上経っても慣れることは無い。討魔師としてはいざ知らず、人間としては間違いなく一条家で一番正常だった。彼女を見ていると、陽菜実自身も正常でいられる気がして救われた。討魔師という御役目から外れ、一人の高校生に戻してくれる妹の存在が何よりも大きく膨れ上がっていた。

 だからこそ、取り返しのつかないことになる前に、安全な場所に逃れて欲しかった。戦力としてではなく一人の姉として見てくれる妹を、どうしても守りたかった。いかに自分が躊躇いなく敵を殺せても、絶対に安全とは言えない。

 けれど、事態は思うようには動いてくれず。詩月は家を出ず、陽菜実の傍で戦うことを望んだ。嬉しくもあり苦しくもある妹の言葉は、陽菜実のことを悩ませ続ける。

 ――せめて、詩月が家を出るまでは、私があの子の分まで敵を斬ろう。

 最後に二人で帰宅した日、自分の胸に立てた誓いを再度呼び起こす。自らがすべきことを反芻し、心の炎を燃やす。

 ――おばあちゃんのことも封じ込めたんだ。詩月にはできるだけ斬らせない。。

 三年前の顛末が脳裏に蘇る。大好きだった先輩達の、何よりも辛い最期の姿。肉体と怨念という、それぞれ二度目にした散り際。悲哀に彩られた彼女達の姿に、自然と妹の姿が重なる。

 不快極まりない情景を追い出すように、陽菜実は大きく頭を振った。

 ――今回の御役目は、いつにも増して危険度が高い。できるだけ、私一人で殺しきろう。

 それは陽菜実の、姉としての譲れない意地だった。


 ゆえに、陽菜実は詩月と別れて怨霊退治を開始したのだ。最も霊力が低いであろう敵一体の元に詩月を向かわせ、彼女自身は他の四体の始末に取り掛かった。本当なら妹を戦わせたくは無かったが、身内の目と本人の意思、それから一般人への被害を出してはいけないということもあり、苦渋の決断だった。

 上手くいくと思っていた。詩月が一体を相手取っている間に他を全て片付け、残りの一体もとどめを刺すのは陽菜実がやるつもりでいた。祖母には、詩月に干渉しないよう過去に二度も釘をさしてある。恐らく、千里眼で監視してくることもない。普段よりも数が多いとはいえ、さして難しくもない筈だった。


「お姉ちゃんっ!」


 切羽詰まった妹の声が、数時間経った今もなお脳内で反響している。ありとあらゆる感情を掻き乱し、自己嫌悪を増幅させる。

 油断したつもりは無かった。これでも三年は討魔師として積み重ねた実績がある。護符を使いつつ急所を確実に狙えば、失敗なんてするはず無かった。

 想定外は二つ。うち一つは、怨霊が集団で行動していたこと。子供の姿をした集団行動をしていたこと。子供の姿をした一体に、両親と思しき男女が付き添っていて離れなかった。護符を貼ろうにも他の二体に必ず邪魔をされ、纏めて斬ろうにも必ず一体は背後に回ってきた。薙刀の間合いを活かしても、寄せ付けないのが限界だった。

 この三体を相手取る前に、単体でいた一体は難なく倒せたのだ。感じる霊力も、さほど強くはない。固まっているとはいえ、自分一人でも十分に倒せる筈。

 冷静になれと、自分に幾度も言い聞かせた。最初に斬るべき一体を狙い、定まらぬ焦点を一箇所に絞った。自分はこの後も詩月がある。ここで時間を食っている場合では無いのだと、全神経を集中させて刃を振るった。


 ――それが良くなかった。


「……背後の敵に気付かんとは、珍しいこともあるもんだ」

 いつの間にか隣に来ていた祖母が、水滴を一粒吐き出すように言った。陽菜実は、真っ赤に染まった目で声のした方を見上げる。周囲の椅子はいくらでも空いているというのに、立ったままで正面を見詰めている。その表情は無。

 だが、信じる物と日頃の言動がどうであれ、祖母なりに思うところがあるらしいことは伺えた。陽菜実を見ないままの彼女は、重い空気に溶かすように言葉を紡ぐ。

「……最悪の事態は免れた」

 気にするな。

 そして、言葉を返すよりも先に祖母は去って行った。この場にいるのは陽菜実だけ。三年前と同じ待合室に、三年前とは違いたった一人。

 押し潰されそうな心を支えてくれる先輩はいない。かといって、祖母の言葉が代わりになることもない。むしろ、陽菜実の心臓を容赦無く抉る。

「……気にしない訳、無いじゃん……っ」

 嗚咽混じりの濡れた声が、人のいない待合室に響いた。誰にも受け取られることの無い声は、冷えた壁にぶつかり跳ねる。耳障りな残響となって鼓膜を震わせるその音は、陽菜実の脳髄を掻き乱す。

 全ては想定外だったのだ。怨霊が三人一組でいることも、背後を取られることも、――詩月が陽菜実の元に駆け付けることも。

 妹の実力を見誤っていた。純粋な剣技は別として、怨霊を討つことに関して彼女は誰よりも不得手だと思っていた。半年以上もの間、人と同じ姿の敵を斬ることを激しく嫌悪してきたのだ。親友を守った時のような急を要する場面を除き、二十分も掛からずに敵を討てるなんてこと、今まで無かった。だからこそ陽菜実は加勢に行けると踏んでいたのだ。

 それが、まさか。

「……あの時と、一緒だ……」

 蘇るのは、過去にこの場所を訪れた時のこと。紫織と共に泣き続けた、莉乃が落命した秋の日の夜。

 あの時、陽菜実は襲われ掛けていたところを敵から守られた。庇われた、という表現の方が正しい。後輩の為に身を呈した先輩は、代償として命を失った。

 あの悪夢を決して繰り返してはいけないと思った。もう二度と、怨霊による被害者を出してはならないと。だからこそ鍛錬に勤しんできたし、薙刀を振るい続けてきた。時には負傷を厭わずに妹を庇った。先輩達と妹の為に、強く完璧な討魔師であろうとした。

 それなのに。

 陽菜実は再び背後を許し。

 気付いた時には既に遅く。

 穂先が敵を斬るよりも先に、飛び込んできた妹が侵蝕を受けて。

 感性の一部を失い、自らの変化と過去の記憶に苛まれつつも、彼女は敵を斬り続けた。できる限りの努力をしてきた。それでも、三年前と何も変わらない。莉乃が命を落とした時と、何一つ変わってはくれない。

 唯一違う点を挙げるとすれば、詩月が一命を取り留めたことか。

 ――でも、まだ予断を許さない状況だって……。

 陽菜実の呼吸は、過呼吸にも近い程に乱れている。直前までは辛うじて出せていた声も、もはや出なくなっている。静寂を破る物が嗚咽しか無くなり、時間と空間の感覚が朧気になる。

 酸欠で霞がかかりつつある頭にやけに鮮明に浮かぶ自分の声が、彼女自身の思考回路を辛うじて保っていた。

 が、思考が保たれているということは、すなわち現実が否応も無しに追い掛けてくるということで。動きを続ける脳が、陽菜実自らの首を絞める。

 ――私の所為だ……。

 数十分前に見た妹の姿が、閉じた瞼の裏にありありと映し出された。

 祝詞が隙間無く書き込まれた包帯に、頭部と上半身をきつく縛られ横たえられた体躯。点滴と酸素マスクを装着されたその姿は、あまりにも儚げで脆く儚い印象を押し付けた。

 詩月の詳しい容態を、陽菜実は知らない。説明を聞きはしたものの、一切として頭の中に入って来なかった。眠る妹の白い顔だけが、陽菜実に与えられた現実であり真実だ。


 ◇ ◆ ◇


 その晩、陽菜実は夢を見た。

 それは、とても温かくて穏やかな夢。現実とは掛け離れた、手に入れたかった理想の夢。

 夢の中で、陽菜実は笑っていた。二人の先輩と大切な妹に囲まれて、四人で笑い合っていた。

 もしかしたらあったかもしれない夢。現実にしたかった未来。

 春の陽射しのような尊い空間で、陽菜実は二人の先輩と三年ぶりに話をした。二時間にも満たない幸せな時間の中で、確かに言葉を交わしたのだ。


 ◇ ◆ ◇


 羽純凛子が一条家を訪れたのは、翌日のことだった。

「詩月に、会わせて貰っても良いですか!」

 午前十時過ぎ。分厚い雲が空を覆い隠す、薄暗い朝。呼び鈴が鳴り陽菜実が出ると、間髪入れずに凛子は言った。駅から走って来たらしく、肩で呼吸をしている。

 過去に何度も会ったことがあるとはいえ、彼女が不躾な申し出をしてくることは一度も無かった。その驚きと、向けられた双眸の必死さに、陽菜実は言葉を詰まらせた。

「突然押し掛けてしまってすみません。でも、昨日から詩月に何度チャットを送っても電話しても既読すら付かなくて! 三日前から凄く嫌な予感がしてて! 一昨日学校で忠告したんですけど、どうしても心配で!」

 怒涛の勢いで紡がれる言葉は、言うまでもなく凛子の心情を具現化していた。日曜日の早朝に、わざわざ電車を使って訪れていることからも、その焦り具合は伺える。「陽菜実さんにもチャットを送ったんですけど、やっぱり返事が無かったから」と言われて初めて、陽菜実がスマホを確認していなかったことに気が付いた。

「詩月は今どこにいますか!? 信じて貰えないかも知れないんですけど、あの子が道で倒れてる景色が頭に浮かんで! 怨霊っぽいのとか太刀とかも一緒に見えたから、昨日の夜からずっと心配で!」

 何も返せずにいる間も、凛子は必死な顔で言葉を紡ぎ続ける。陽菜実を真っ直ぐと捉える瞳は、親友の身だけをただひたすらに案じていた。

 一瞬の思考の後、陽菜実は僅かに目尻を下げた。

「……ちょっと、場所を移そっか」

 一晩中泣き続けた彼女の声は、極限まで枯れていた。掠れた声と、腫れた瞼。焦燥に突き動かされていた凛子の脳を白で埋めるには十分で、彼女は言葉を切った後両目を見開いた。

 冷たい風が、二人に吹き付けた。


 場所を移すとは言っても、行く先に選択肢は無かった。家には羽純家を快く思っていない祖母がいる。かといって日曜日の朝に気軽に入れる場所は限られている。カラオケやファミレスの喧騒に身を任せる気には到底なれない。結果、近所の公園に落ち着いた。

 近隣の小学校も休みの筈なのに、公園には人っ子一人いない。普段は子供達で賑わっている場所が、空模様も相まって酷く殺風景に映った。

 午前中にも拘わらず仄暗いその場所のベンチに、どちらからともなく腰を下ろす。

 陽菜実の隣で、凛子は俯いている。自分の服の裾を掴み、その両手をじっと見詰めている。硝子玉のような瞳には何も映っていない。虚無だけを映した黒い瞳は、左右に小刻みに揺れている。

 何となく、凛子が思い違いをしているであろうことは陽菜実にも分かった。自分の言い方が悪かったかもしれないと反省しつつ、されど全く違うという訳でもないので、どう説明すべきかと悩む。

 しかし、思案している間にも凛子の精神は悲鳴を上げているだろう。それに、吹き付ける風は肌に染みる。長々と考えている時間は無い。

「……詩月のことだけどね」

 生気の無い掠れた声が、生命を感じさせない公園に溶けていく。


 三十分以上掛けて、陽菜実は事の顛末を語った。昨晩の、妹を襲った悲劇を全て。自分がいかに短絡的で情けなく、反対に詩月がどれだけ優秀で勇敢だったかを、余すことなく。

 詩月が一命を取り留めたと知った時、凛子は息を吐いた。魂が抜け出てしまいそうな程に長いそれは、彼女の重い感情全てが乗せられているようだった。

 胸を抑えながら深く息をする凛子の目には、僅かながら光が灯った。

「なら、詩月は無事なんですね」

 ベンチの背もたれに寄り掛かり、凛子は空を仰ぐ。灰色の雲に埋め尽くされた、陽の射さない窮屈な色。呼吸をするのもやっとな寒空の下で、今まで吸えていなかった分目一杯酸素を取り込む。寒い季節特有の匂いが鼻腔を刺激した。

「無事……」

 艶を疾うに失った不明瞭な声が、辺りの空気を僅かに揺らす。

 思考するよりも先に、陽菜実は凛子の言葉を繰り返していた。吟味するように口の中で幾度か反芻した後、今度は脳内でその二文字を転がす。凹んだボールのように歪な動線を描いた「無事」という熟語は、思考の端に行き着き静止した。

「……陽菜実さん」

 遠慮がちの凛子の声が、陽菜実の鼓膜を撫でる。脚元を見詰めていた彼女が顔を上げると、凛子はなにやら続けようと口を開き、しかし何も言わずに閉ざした。口が動いた訳では無かったが、「大丈夫ですか」と続けようとしていたのだと直感した。

 ――優しいな、凛子ちゃんは。

 流石は妹の親友だ、と陽菜実は思う。

 明らかに余裕の無い状態でも、ここで大丈夫か問われれば、肯定以外許されないも同然だ。少なくとも、陽菜実の性格では否定はできない。凛子への気遣いと歳上という立場が、彼女の本音を殺させる。

 それをあらかじめ察し、避けるのはそう簡単にできることでは無い。それも、凛子自身精神的なショックは大きい筈なのに。妹が長きに渡り良い関係を築いている理由を実感した。

 陽菜実はふっと表情を緩めた。

「私は大丈夫。……きっと、詩月も大丈夫だよね。あの子は強いもん」

 大丈夫、大丈夫、と口の中で繰り返す。自分に言い聞かせるように。あるいは、言霊を乗せるように。

 本当は、微塵も大丈夫と言える状況ではない。今こうして話している間にも、容態が急変してもおかしくないのが現実だ。あまりの悲惨さに陽菜実が目を背けるほどには、詩月の容態は悪い。無事と言えるような状況ではない。そしてそれを、凛子も感付いてはいる。

 それでも、本能的に理想に縋っていた。詩月はすぐに快復すると、彼女に限って落命する筈は無いと思い込むようにしていた。そうでなければ、二人とも正気を保てない気がした。

「……大丈夫ですよ、絶対に」

 祈りを込めた声が、空虚な公園に何度目かの反響を生んだ。


 ◇ ◆ ◇


 自室に戻る度に、自然と涙が溢れた。

 泣いてどうにかなる訳では無いし、むしろ不甲斐なさを増幅させるだけだというのに、まるで収まってはくれない。こんなことをしている暇があるなら妹を見舞うのが理想なのだが、それすらも上手くいかなかった。

 毎日欠かさず詩月の元を通いはするものの、十分も経たないうちに病室を後にしてしまう。怨霊の被害を受けた者専用の、宗教じみた病室の居心地が最悪だったのも、要因の一つではある。だが、それ以上に詩月の姿が陽菜実の精神を抉った。

 雪のように白い肌は、少し目を離した隙に跡形もなく散ってしまうのではないか。閉ざされたままの瞳は、二度と開かないのではないか。陽菜実を巣食う恐怖は、留まることを知らない。罪悪感と相まって、心臓を締め付ける。


 悔やみ、恐れ、泣き、怯え、震え。自分の世話も通学も忘れた陽菜実だったが、睡眠だけはいつの間にか摂っていた。せいぜい二時間かそこらだが、あらゆる感覚を忘れつつある陽菜実には貴重な休息だった。

 その睡眠の中で、陽菜実は必ず夢を見た。

 場面は毎回異なるが、必ず紫織と莉乃が登場した。そして、陽菜実に言葉を掛けた。

 夢の中で先輩と話している間だけは、陽菜実は現実を忘れられた。

「一条さん」

「陽菜実ちゃん」

 強くて優しかった先輩達の大切な声は、すぐ傍に。


 ◇ ◆ ◇


 討魔師の御役目に休みはない。滅する側にどんな事情があろうとも、街のどこかでほぼ毎日発生する。どれだけ傷心していても、事情を取り計らってくれはしない。

 とはいえ、討魔師とてただの人間。身内の危機に対峙し憔悴している高校生を、たった一人で戦わせるほど残酷でもない。ゆえに、陽菜実の代わりに祖母が戦うと申し出たのだ。日頃は家柄に執着し御役目の出来にも厳しい彼女だが、その実孫娘達のことは気に掛けているのだった。

 だが、陽菜実は拒んだ。心身共に限界が近いにもか拘わらず、自ら薙刀を握り続けた。祖母が掛ける言葉に迷い、母が止める程に彼女は無理を押していた。彼女を突き動かしたのは、並々ならぬ自責の念だった。


「陽菜実さん、お疲れ様です。体は大丈夫ですか」

 詩月が昏睡してから数日が経過した。人々が寝静まった住宅街の外れに、少女の声が吸い込まれていく。

 普段よりも遅くなってしまったな、と陽菜実は息を吐く。薙刀を収納袋に収める手はおぼつかない。敵が強い訳でも数が多かった訳でもないが、擦り切れた体では振るう刃も鈍かった。

 収納した武器を肩に背負い、声のした方を振り返る。差し出されていたチョコレート菓子を受け取り、力無く笑って見せた。

「大丈夫だよ、ありがとうね」

 返答を聞き、凛子は静かに頷いた。その目は憂いと懸念、そして、抑えきれない恐怖で染め上げられている。

 陽菜実は小さく震える肩に手を添え、気丈に振る舞う瞳を覗き込む。

「……凛子ちゃんこそ、大丈夫じゃなさそうだけど。やっぱり、もうやめた方が……」

「……いえ、私は平気です。明日も見学させて下さい。邪魔にならないようにするので」

 光が弱まりつつある双眸が、しっかりと見詰め返した。

「邪魔にはなったことないから、そこは気にしてなくて良いけど、でも……」

 適切な言葉が見付からず、陽菜実は口をつぐんだ。目を伏せ、鈍る思考を巡らせる。

 彼女が再度口を開くよりも先に、凛子は自らの意思を声にしていた。

「……詩月が堪えていた苦しみを、私も知りたいんです。何もできないならせめて、少しでもあの子と同じ景色を見たい」

 大きくはないが芯の通った声に、陽菜実は首を縦に振るしか無かった。


 冷たい風が吹く公園で話してから数日。凛子は、陽菜実の怨霊退治に同行するようになった。

 怨霊が出現している場所は予め陽菜実にも知らされているので、凛子が予知能力を活かして何かをするということは無い。親類とはいえ、当然武器を持つ訳でもない。ただ同行して、陽菜実の戦闘を見守り、終わったら労いの言葉を掛ける。凛子ができることは微々たることだけだ。

 だが、その些細なことでも、知らず知らずのうちに陽菜実の支えになっているのは事実だった。一人きりで敵を斬る虚しさは、陽菜実は嫌という程経験している。詩月の代替品では無いが、凛子がいることで気が紛れているのだ。

 深く重い闇を背負って、陽菜実と凛子は帰路に着く。時間が時間なので、もう最終電車は残っていない。幸い明日は休日なので、凛子は一条家に泊まって行くことになっている。羽純家を快く思わない祖母も、陽菜実が支えられていると知ってからは何も言わなかった。

 先程貰ったチョコレート菓子を食べる陽菜実の隣で、凛子はクッキーを齧っていた。二枚一組の、スーパー等でよく見かけるもの。言うまでもなく、詩月の好物である。

 そう認識した時、陽菜実は反射的に声を掛けていた。

「そのクッキー、凛子ちゃんも好きなの?」

 妹とその親友の共通点を見付けたことが、彼女には何となく嬉しかった。家に帰れば同じ物が買い溜めである。菓子を貰ったお礼に渡そうか、等と思い立ったのである。

 しかし、凛子の反応は陽菜実の想像とは違っていた。

「いえ、甘い物は好きじゃなくて」

 表情を変えず、さらりとそう言ってのける凛子。ならばどうして食べているのか。なぜ持ち歩いていたのか。そう訊ねようにも、彼女の声から感じた大き過ぎる悲しみが、陽菜実にそうすることを止めさせた。

 陽菜実の口の中に広がっていたチョコレートは、いつしかほろ苦い後味だけが残っていた。


 靴音がコンクリートに反響する。会話をする気力も無くて、コツコツという音だけが二人の間に流れている。静寂の中で、辛うじて聴覚を刺激しているのはこれだけだった。

 前にもこんなことかあつたな、と凛子は思う。あれは数ヶ月前の、詩月との下校途中だったか。元担任の自殺未遂に遭遇してから五日目の、二人とも意気消沈していた夕暮れ時。数時間後には地獄を見るとも知らず、この世の終わりのような心持ちで歩いていたあの日。

 ――そういえば、あの時は直後に司と合流したのよね。

 鮮明に蘇る記憶の中で、煩い弟が凛子を眺めている。

 ――司も、何気に来たがってたのよね。詩月のこと凄く心配してたし、落ち着きなく家中歩き回ってたし。

 家を出る前に見た弟の姿が脳裏にありありと浮かんで、少しだけ笑った。

 ――また、誰かと行きあったりしてね。こんな時間だし無いだろうけど、司が走って来たりして。

 現実逃避にも近しい事を考えながら、人っ子一人いない十字路を曲がる。靴音と、時折遠くから聞こえるエンジン音以外は、完全なる静寂。間違っても弟が駆けてくる気配は無い。当たり前のことなのだが、それが少しばかり寂しかった。普段は鬱陶しい弟の憎たらしい顔が、今は無性に恋しくなった。

 この数日間まるで収まることの無い溜め息をこっそり漏らし、凛子は脚を動かし続ける。幸いにして、陽菜実には気付かれずに済んだようだ。

 溜め息を吐くと幸せが逃げるというのが本当だとして、自分は一体何年分の幸せを吐き出したのだろうか。あるいは、見舞った不幸との釣り合いを取るために、延々と溜め息が溢れ続けているのだろうか。考えれども、凛子には分からない。

 夜闇に身を任せながら自分と対話をしていた彼女の脳内に、ふと黒い影が過ぎった。

 背筋に冷たいものが流れる。

 全身に鳥肌が立つ。

 浮かんだ鮮明すぎる景色に、体が小刻みに震え出す。

 頭の中が真っ白になった凛子は、反射的に陽菜実の手を掴んでいた。

「凛子ちゃん?」

 陽菜実が心配そうに首を傾げる。いつもならその表情に罪悪感を覚えるものの、今の凛子にそんな余裕は無かった。

 彼女に触れる空気は、全てを抉り取るように強い刺激を纏って突き刺す。痛みこそ感じないものの、それ以上の不快感と恐怖を連れて襲い掛かる。

 呼吸が、激しく乱れる。

 真っ青になった彼女の顔を見て、陽菜実は異変に気付いた。

「凛子ちゃん大丈夫!? 」

 体勢を崩した凛子の肩を支え、道の端に寄る。腕の中の彼女の両目は、深い闇に染まっていた。

「……来る……」

「来るって、一体何が……」

 陽菜実が問うのと、今までに感じたことの無い霊力を捉えるのは、ほぼ同時だった。


 ◇ ◆ ◇


 連日夢に現れる紫織と莉乃。彼女達の姿を見て、陽菜実はあることを思い出していた。

 それは、三年前の春休み。二ノ宮家に遺された、紫織の遺書のこと。

 数々の想いが綴られた中で、一際気になる一文があった。


『過去の記憶を見る能力なんて欲しくなかった。怨霊の正体を知りたくなかった。殺したくなかった』


 陽菜実の知る限りで、紫織が怨霊を「殺す」と表現したのはその一度だけだ。莉乃が産んだ怨霊を貫いた時でさえ「討つ」と言っていた。

 人生最後の吐露の場で、なぜ表現を変えたのか。触れた人間の記憶が見える「過去視」の能力が、なぜ紫織を苦しめたのか。

 怨霊の正体とは、一体何なのか。

 紫織が持っていた能力と、最期の記述。それから、積み重ねた数々の経験。これらのことから、陽菜実の中にはある仮説が浮かんだ。

 しかし、彼女は目を背けた。所詮は証拠も何も無いただの妄想だ。考えるだけ無駄なのだと、死んでしまった人のことは分かるわけが無いのだと自分に言い聞かせた。

 かつて詩月に投げられた言葉だけが、陽菜実の脳内に木霊している。


『死んだ人の怨念が具現化するなら、感謝の気持ちとか、あとはその人自身が現れることは無いのかなって思って』


 ――そんなこと、ある筈無いんだよ。あったら駄目なんだよ。


 ――怨霊は怨念が具現化したものって教わってきたもん。他にある訳ないし、見たことも無いもん。今更他にあるなんて言われても困るよ。だって――。


 ――全部、この手で殺してきたんだもん。


 ◇ ◆ ◇


 病院から出られない筈の彼女が、住宅街に佇んでいる。差程距離は無いとはいえ、本来なら病室から出ることも不可能なのだ。

 なのに、確かにいる。つまりは「そういうこと」だ。


 凛子を背に庇うようにして、陽菜実は薙刀を構えている。先程から震えが収まらない。切っ先も未だに焦点が定まらない。

 目の前にいるのは妹ではない。斬るべき敵だ。人間と酷似した容姿をしているとはいえ、人でない存在なのだ。それが身内を象っていたとしてもだ。かつて紫織か目の前でこなし、また自らも行ったように、どんな姿であれ無慈悲に斬らねばならない。それが討魔師。それが、一条家の家系に生まれた者の宿命。

 妹の姿をした敵は、虚ろな瞳で陽菜実を見詰めている。今のところ攻撃をしようという意思は見受けられないが、いつ襲いかかってくるか分からない。油断は禁物。怨霊である以上、必ず討たねばならない。彼女が、誰かを殺してしまう前に。

 ――分かってる。分かってるけど――。

 陽菜実の心は、決まらぬまま。

 当然だ。怨霊が生じることになった要因にすら、気持ちが追いついていないというのに。莉乃や紫織の時とは訳が違う。これが現実であると、受け入れることすら今の彼女にはは不可能だ。

 背後の凛子は、真っ青な顔をしたまま震えていた。恩師と同じ姿をした敵が目の前で討たれた時でさえ、これ程までには青くなっていなかった。親友の姿をした怨霊と、それが目の前で斬られるという未来。これらが、凛子の脳を嫌という程に突き刺している。

 薙刀を構えているだけの陽菜実と、呼吸すらもままならない凛子。彼女達の聴覚を抉った音は、直後に発せられた絶叫だった。


「おねえちゃあああああああああああああああ!」


「――っ!!」

 声にならない悲鳴が、二人の喉から漏れた。特に陽菜実の喉は、ここ数日で疾うに限界を迎えている。張り裂けそうな激痛が、彼女の喉を貫いた。

 言葉を発する怨霊と、今までに何度か対峙したことがある。存在は稀だが、陽菜実は確かに自らの手で討ってきた。見慣れたとまではいかないものの、本来なら怯えるに値しない存在の筈だっだ。

 詩月ならいざ知らず、陽菜実になら討てる。怯むことも躊躇することも無く、討魔師の御役目を全うできる。目の前の敵が詩月でさえなければ、陽菜実は間違いなく完遂できていた。

 けれど、現実は無情で。

 何度瞬きをしてみれど、眼前の敵は詩月の姿をしていて。

 今まで感じたことの無い霊力であるとはいえ、生きた人間でないことは火を見るよりも明らかで。

 陽菜実は、その場に膝を着いた。

 ――絶対無理、斬れる訳ない。殺したくない。詩月を斬り殺すくらいなら、死んだ方が何倍も良い。

 彼女の眼前で霊力を纏っている存在は、声を上げるのみで一切の攻撃をしてこない。それどころか、移動する素振りも見せない。普通の怨霊なら、怨みを晴らす為に行動するか、障害になると見なした相手に攻撃を仕掛けるというのに。

 元が討魔師であるということは、莉乃や紫織の時のことを鑑みるに無関係だ。陽菜実が紫織を討った時も、今のような特異な状況にはならなかった。どこまでも残酷に、討魔師と怨霊という構図があるだけだった。

 この状況はなんなのか。どうしてイレギュラーな事態がいくつも発生しているのか。陽菜実にはまるで分からない。いや、分かりたいとすら思っていなかった。

 ――もう、なんでもいいや。

 唯一の光すらも喪った彼女に、戦う理由はもはや残されていなかった。先輩達の遺志を継ぐという目的も、光があってこそのものだったのだと思い知らされた。

 音を立てて手から零れた薙刀を、背後で硬直している凛子に握らせる。そして、その両目を真っ直ぐと射抜いた。

「凛子ちゃんはこれ持って逃げて。もし危なくなったら、適当に斬り付けて足止めして。あなたにならできるから」

「えっ……」

 言葉の意味が理解できていないらしく、陽菜実と薙刀を交互に見遣る凛子。戦闘経験が無ければ鍛錬すらもしたことの無い彼女には、討魔師の薙刀はあまりにも大きくて重い。振ることすらままならないだろう。だが、この子ならきっと大丈夫だと陽菜実は思った。凛子なら、一人でも一条家まで逃げられるだろうと。そうあってくれなければ困るのだ。

 困惑する凛子を他所に、陽菜実は立ち上がる。

「陽菜実さん……?」

「ごめんね、凛子ちゃん」

 微笑むと、陽菜実は迷わず正面に歩いていく。詩月と同じ姿をした、人でない霊力を纏った存在に向かって。

 あまりの出来事に、凛子は止めることすらもできない。思考が追いつかないまま、陽菜実の行動を眺めているのみ。

「ねぇ詩月」

 妹の名を呼びながら、陽菜実は怨霊らしきものの傍に寄る。そして、一切の躊躇無く抱擁した。

「お願い、一人にしないで」


 ◇ ◆ ◇


 目の前で繰り広げられている光景に、凛子は言葉を失っていた。

 早く陽菜実を引き剥がさなければ。正気に戻さなければ。気持ちはそう焦っているのに、体が全く動かない。思考と行動が少しもリンクしない。

 ――まずい、このままだと陽菜実さんが……!

 しかし、体は硬直したまま。声を出そうにも上手く空気が吸えず、激しくむせ返った。

 その拍子に薙刀を落としてしまった。カラン、という大きな音が辺りに反響する。

 それに呼応するように、凛子の頭にはここではない別の場所の景色が浮かんだ。


 それは、護符の貼られた病室らしき場所。窓に映る空を背景に、二人の少女が笑っている。


 ◇ ◆ ◇


「紫織さん、初めて知った時どう思いました?」

「どうもこうも無いわよ。自分の両手が血濡れてると知って、死にたくなったわ」

「それで本当に死んじゃうんですから、相当辛かったんでしょうね。知らないままで終わったからちょっと罪悪感」

「別に罪悪感を抱く必要はないけれど……。あなたを討つ時に知る羽目になったことは、今でもちょっと怨んでるわ」

「私は、あの時のこと感謝してますよ。紫織さんが斬ってくれたから、凄く清々しい気分になれた訳ですし。今こうして陽菜実ちゃんの傍にいられるのも、紫織さんのお陰ですし」

「三橋さんの役に立てたのは嬉しいけど、それなら怨念に取り憑かれて暴れるのは辞めて欲しかったわ。拘束していたとはいえ、精神にきた」

「そんなの私の所為じゃないですよ!」

「もしもそれで死者が出ていたらどうするつもりだったの?」

「だから、自分でどうこうできるものじゃないじゃないですか! それに、紫織さんだって人のこと言えないですよね?」

「……煩いわよ」

「わっ、理不尽!」


 ◇ ◆ ◇


 深夜の住宅街に、一つの言葉が響いた。

 夜の闇に溶けるようにして消えたその言葉は、今宵の異常事態の解を示しているようだった。

 彼女が何度も言えずに終わってしまった、どうしても伝えたかった言葉。


「ごめん、お姉ちゃん」

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