第九話 忘れたくない二人
これほど息が詰まる儀式は他に無いと陽菜実は思った。
焚かれた香の煙たさが、容赦無く鼻孔を突き刺す。切り花特有の青臭さが追い打ちをかける。規則正しい木魚とお鈴の音に、反響する住職の読経。周囲の啜り泣く声。焼香に立つ人の足音。そして、激しく脈打つ己の心音。
陽菜実がこの儀式に参列するのは初めてではない。一度目は母方の祖父で、二度目は父方の祖母だった。宗派も作法も今回のそれと何ら変わらない、実に有り触れた物。しかし、唯一違う点があるとすれば。
「陽菜実、付いて来い」
親族席に座る彼女は、読経中であるにも拘わらず背後から肩を叩かれた。理由は分かっている。生きた心地がしない中、彼女は徐に席を立つ。端の席であったことが幸いし、他の参列者を煩わせることなく会場を出られた。
祖母に連れられて来た先は、直前までいた建物の裏手に存在るする、雑木林の中だった。奇しくも先日の御役目で、陽菜実が敵と対峙した場所。そして――。
「あの娘が落命した場所だ」
祖母の冷淡な声が、夜の闇に散っていく。陽菜実の心臓を、これでもかと言わんばかりに締め付ける。
呼吸が乱れる彼女の目線の先には、震えながら槍を握る先輩の姿があった。
いつも冷静なあの先輩が、ここまで怯えた表情を浮かべたことが今までにあっただろうか。陽菜実はその目を疑わざるをえない。それくらい、現状は日常から掛け離れていた。
何か言葉を掛けなければと思った。だが、それよりも先に相手が陽菜実の存在に気付いた。怯えを孕んでいた瞳は、驚嘆の色に変わった。
「一条さん、どうしてっ……」
大きく見開かれた双眸に、陽菜実の祖母が映り込む。全てを察したらしい紫織は、眉をぐっと寄せ、叫んだ。
「師範、なぜ陽菜実さんを連れて来たのですか! この場は私が受け持ちますから、彼女を今すぐ帰らせて下さい!」
「この子の教育に必要だと思ったから連れて来たまでのこと。本当なら妹の方も連れて来たかったんだが、陽菜実がどうしても嫌がるのでな。なに、邪魔はさせんから気にするな」
「ですがっ!」
言葉を続けようとした紫織を遮り、祖母は一点を指差して言う。
「喋るよりも先にすべき事があるだろう? 本来ならその日のうちに片付けるところを、どうしても決心が付かぬからと待ってやったんだ」
その声に導かれるように、陽菜実は祖母の指し示す先を見る。木々が織り成す影の奥で、護符を纏い蠢く存在が一つ。『それ』は陽菜実と距離があるものの、目視するには十分だった。
分かっていたとはいえ、息が詰まる。吐き気がする。立っているのも辛くなり、ふらふらとよろめく。
「紫織、お前の槍は何のためにある? 後輩の尻拭い一つできんようでは、一条の血を継ぐ者として先が思いやられるぞ」
両手で槍を握り締めるその姿は、素質に溢れた討魔師でも大人びた先輩でもなく、十七歳のただの少女だった。
陽菜実と紫織の目線の先。闇と一体化した場所で、かつての仲間を象った敵がその身を荒ぶらせている。
◇ ◆ ◇
「私って次女だから、陽菜実ちゃんや紫織さんみたいに能力を受け継げないんだよね」
夏風が吹く清々しい日のこと。たまの息抜きにと連れ立って外出した際に、莉乃はふと思い出したように語った。
「能力って、うちの家系の長女に身に付くあれですか?」
「そうそう。陽菜実ちゃんは、師範と同じ千里眼でしょ?」
「そう聞いてます。全然実感ありませんけど……」
「まぁ、発現には個人差があるらしいもんね。紫織さんは生まれつきなんですよね?」
「ええ。物心ついた頃から当たり前にあったから、それが普通だと思っていたわ」
なんてことない風に答えた紫織に、莉乃は大袈裟に反応して見せる。
「いいなぁ。私もそういうのあったら、御役目でもそれ以外でも何かと便利だったと思うのに。ちょっと妬いちゃう」
「てことは莉乃さん、お姉さんがいらっしゃるんですか? 討魔師……ではないでそうですよね、お会いしたこと無いし」
陽菜実は首を傾げながら問う。至極真っ当な疑問なのだが、言い出した莉乃は黙り込んで目線を落とす。
ひょっとして、病弱で戦えないのだろうか。自分の母親のケースを思い出して尋ねるも、莉乃は微妙な反応で言葉を濁すばかり。普段は溌剌とした口調であるだけに、陽菜実は戸惑いを覚える。
莉乃も陽菜実も黙り込み、蝉の声だけが三人の間に響く。不毛な静寂に耐えかねたのか、紫織が徐に口を開いた。
「……三橋さんのお姉さんは、幼い頃病気で亡くなっているのよ」
いつになく静かな声だった。蝉の声の煩さがそれを掻き立てる。
一度息を飲んだ後、陽菜実は目を伏せた。
「そう……なんですね。ごめんなさい」
八月の頭だというのに、夏の終わりのような寂しい空気が辺りに流れた。木々のざわめきが蝉の声と混ざり、哀愁が空を舞う。
そんな空気を打ち消すように、莉乃は両手を振って見せた。
「ご、ごめんね! 私が言い出した事なんだから、そんな顔しないで!」
「これ食べて元気出して」と陽菜実にチョコレート菓子を握らせる。紫織の真似をして持ち歩いていた物だったが、気温が高いせいでドロドロに溶けてしまっている。袋越しにでも分かるその感触に、気まずさを忘れて吹き出した。
「莉乃さんこれ溶けてますっふふ!」
陽菜実の反応で、莉乃もようやく事態を把握したらしい。釣られたように笑い出し、直前までの神妙な面持ちが見る影もなく消え失せる。
「え、嘘!? ごめんねっははは!」
「全く、三橋さんは……ふふっ」
滅多に表情を緩めない紫織でさえ、小花が開くような笑みを浮かべていた。
今となっては遠い昔の、まだ暖かかった頃の出来事。何気ない日常の平凡な一幕。「特別な力が無くても、亡き姉の分まで頑張りたい」と意気込んでいた、健気な十六歳の少女の記録。
彼女――三橋莉乃は、最期まで健気であり続けた。御役目で生じる幾多の困難も乗り越えた。亡き姉の為、愛する家族の為、大切な仲間の為に弓を引き続けた。
陽菜実を庇って頭部に侵蝕を受けた時も、とても穏やかな表情を浮かべていた。
◇ ◆ ◇
彼女は一時たりとも油断をしなかった。ただ、体の反応速度が追い付かなかったのだ。敵を視認した時には、既に手遅れだった。
柄の長い武器は、距離を詰められ過ぎると却って不利になる。短刀や脇差を用意しておくのが理想なのだろうが、彼女は持っていなかった。いや、仮にあったとしても間に合わなかっただろう。敵の目の前で転倒した状態で、愛用の薙刀を手放して短い武器に切り替えるという判断は、あの時の陽菜実にはできなかったに違いない。
あの時彼女は敵に襲われる筈だった。眼前の敵が取ろうとしていた行動は、憑依ではなく侵蝕だった。咄嗟に両腕を顔の前にやったが、良くて両腕の機能の消失、最悪昏睡していただろう。
だが、陽菜実は無事だった。片腕は被害を負ったものの、それだけで済んだ。昏睡することも、致命的な箇所の機能を失うことも無かった。
代わりに、両腕よりも遥かに大切な人を喪った。
命と引き換えに作ってくれた隙を逃さず、怨霊を斬り裂いた後。陽菜実は、幾度も彼女の名を呼んだ。声が枯れるまで叫んだ。空になった矢筒と弓の傍らで、彼女を抱いて叫び続けた。溢れる絶望は地面に染み込み、闇よりも黒い跡を残した。
『鍛錬を積んだ討魔師は、怨みの対象でない限り怨霊に殺されることはない』。昔から、陽菜実は祖母にそう聞かされてきた。しかし、これすらもただの迷信だったのだと知らされた瞬間だった。侵蝕がどういった害をもたらすか、考えれば誰にでも容易に分かることなのに。
現実は残酷だ。どれだけ人の為に戦い続けても、努力を続けても、突然訪れた災厄を前に為す術もなく無に帰してしまう。ボタンの掛け違え一つが大きな皺を作るように、一度の判断の誤りが掛け替えのない存在を奪っていく。
――莉乃さんは、私の所為で死んだんだ。
陽菜実の胸の奥に、黒い染みが幾つも生まれる。
――私が、莉乃さんを殺したんだ。
瞬く間に、感情を巣食うように拡がっていく。決して消えぬ深い染みが、今も尚彼女を蝕み続ける。
莉乃の落命は、彼女自身の不注意として処理された。矢のストックが無くなった所を背後から襲われ、応戦できずに倒れたと。陽菜実の祖母にそう説明したのは、あの晩絶叫を聞いて駆け付けた紫織だった。
「私もお前達の様子を見ておらんかったが、紫織がそう言うのであれば事実なんだろう。……頭部でなければ助かったかもしれんのに、惜しいことをした」
莉乃の搬送先の病院で、祖母は遺憾の意を示してその場を去った。待合室に残された陽菜実と紫織は、重苦しい空気の中微動だにしない。というよりも、体を動かすだけの気力が、彼女達には残されていなかった。
診察時間は疾うに過ぎている。この場には心を潰した討魔師二人。病院特有の臭いを纏った静寂は、彼女達には毒でしか無い。
祖母は今頃莉乃の両親と話しているのだろう。仲の良さが自慢の三橋家だ。彼らがどんな表情を浮かべ言葉を発しているか、二人には考えずとも分かってしまう。
心臓が、痛い。
それなのに、涙は出ない。
陽菜実も紫織も、感情と体が一致しない。
不意に、紫織は己のポケットを漁った。取り出したのは、陽菜実の好物であるチョコレート菓子。彼女が御役目で落ち込んでいる時に、度々渡している物。不器用な紫織の、できる限りの気遣い。
なんと声を掛けたら良いかも分からないまま、紫織はそれを差し出そうとした。だが、彼女よりも先に動いたのは陽菜実だった。
「……どうして、あんなこと言ったんですか」
消え入るような声が、無機質な空間に響いた。生命維持の為の場所であるにも拘わらず命と乖離しているように思えるこの場所で、陽菜実の声だけが生きた者の証だった。
陽菜実は震えている。声も、体も、心さえも。小刻みに震え、苦しんでいる。隣に座る紫織にも、それは肌で感じられる。
慰めなければ、と紫織は思った。しかし思うばかりで適切な行動が分からない。こんな時莉乃だったら、と彼女の心臓はギリギリと締まる。
紫織がどうにか口を開きかけた時、陽菜実は言葉を続けた。
「莉乃さんがああなったのは、私の所為なのに……。どうして、自身の不注意、なんて……」
「……それは、そうした方が良いと思ったから」
「なんで!」
紫織が瞬きをする一瞬の間に、彼女は胸元を強く掴まれていた。
咄嗟のことに驚くことしかできない紫織を、陽菜実は充血したで睨みつける。真っ赤に染まった双眸は、本来陽菜実が受けるべきだった痛みの色であるように感じられる。動かせずに垂れ下がる片腕も相まって、酷く痛々しい印象を受けた。
「なんでそんなことしたんですか! 莉乃さんは何も悪くないのに! あの人は最期まで立派な討魔師だったのに! それなのに、どうして貶すようなこと……っ」
紫織を射抜いていた眼光が弱まる。すぐ目の前で表情が歪む。血の色をした双眸から、大粒の雫が幾つも零れ落ちる。それでも目線は紫織から外さず、じっと彼女を見据えている。
紫織の瞳には憂いの色が滲んでいた。怒鳴りつけてきた陽菜実に怒るでもなく、その手を振り払うでもなく、ただただ後輩を見つめ返していた。
「……分かってるわよ、私だって」
力の無い声が、背負いきれない哀しみを乗せて陽菜実の鼓膜を撫でる。その声が震えていることに気付き、陽菜実は何も言えなくなった。
「でも、真実を話せば一条さんが叱責されてしまう。場合によっては生涯ご両親に怨まれるかもしれない。……そんなこと、三橋さんが望むとは思えない」
貴方のこともご家族のことも、心から愛している人だったから。
俯きながら言葉を紡ぐ紫織の、切れ長の目尻がいつしか光っていた。視界がぼやけきっている陽菜実にも、その煌めきははっきりと見えた。
陽菜実は紫織から手を離した。そして、崩れ込むように泣いた。彼女の背を擦る紫織にも、歳上の余裕は一切見受けられない。
重い役目を背負うにはあまりにも幼過ぎる少女達。泣きじゃくる彼女達の傍らで、個包装の菓子が床に転がっていた。
◇ ◆ ◇
握る槍が震える。全身から血の気が引く。凍りつくような寒さの先で、大切な後輩の姿をした敵がこちらを睨んでいる。
腹を締め付けられるような感覚に襲われ、紫織の視界は霞んだ。しかし逃げることは許されない。彼女の実力を鑑みれば、負けることも許されない。敵を討ち、消滅させることだけが、紫織に与えられた唯一の選択肢。
二年以上御役目をこなしてきた紫織とて、このような事態は初めてだっだ。彼女が討魔師になった時には人手が足りず、別の地域の討魔師が助っ人に来ていた。莉乃の就任と同時に元の管轄に戻って行ったので結果的に別れることになったものの、あくまで平穏な終わり方である。仲間の討魔師が御役目で落命したという事例は、彼女ですら聞いたことも無かった。
――討たなければ。あいつは三橋さんの姿を真似ただけの紛い物。躊躇う必要なんて無い。
幾度も深く呼吸をし、護符の拘束を受けている敵に槍を向ける。穂先は未だに定まらない。陽菜実の視線を背に感じながら、一歩、また一歩と距離を詰める。
――私がしくじる訳にはいかない。そんなことをしたら一条さんが始末をさせられる。それだけは、絶対に避けなければ。
全神経を槍に集中させる。月光を反射し輝く穂先は、どこか冷ややかな色をしている。現実のように、あるいは紫織が求める心持ちのように。林を覆う暗黒を斬り裂くような、冷静で冷酷な色。
白く光る切先を胸に、紫織は覚悟を決めた。
「はあああああっ!」
上がった咆哮は、彼女の弱さを完璧に包み隠した。
拘束された敵に向かって、一直線に突き進む。今や穂先は震えていない。この二年間してきたように、生者に仇なす敵を刈り取ることだけに意識を向けている。まだまだベテランとは言えない年数だが、それでもこの地域のこの世代で最も長く魔を討ってきただけの事はあった。
叫び声が辺りに轟く。柄を握る手は血管が浮き出ている。血走った瞳は悲哀に染めあげられている。
自らの鼓膜すらも劈くような声と共に、紫織は敵の胸を槍で貫いた。
大切な仲間の姿をした敵は、呻き声と共に消滅した。そこにいたのが嘘であったかのように、跡形も無く。
一撃で敵を討つことは、拘束されているとはいえ容易に成せることではない。その事を誇るべき筈なのに、二人の討魔師の目に光は無い。共にその場に崩れ落ち、瞳には何も映っていなかった。
◇ ◆ ◇
莉乃の死は親戚中に伝達され、多くがその短過ぎる生涯を悼んだ。
だが、彼女の末路を知らされなかった者達も少なからず存在する。羽純家や透乃家といった、一条の血と繋がりが薄れた家が最たる例だ。一条家側は親類であることを認知しているものの、相手方の大半は把握していないというのが主な要因である。莉乃の死を告げたところで、そもそも彼女の存在自体を知らないであろうことを鑑みれば当然の対応だ。
しかし、一条の本家でありながら、この出来事を知らされなかった者がいる。それは――。
「……結局、詩月さんは知らないままなのね」
紫織の言葉に、陽菜実は黙って頷いた。
四十九日法要も終わり、各々が日常に戻りつつある頃。空を舞っていた枯葉は今や一枚も見られない。空っぽになった広いだけの空が、褪せた色を隠すように雲を幾つも浮かべている。閑散とした墓地では、彼女達と活けられた切り花だけが色を帯びた存在だった。
「討魔師になることを今の時点で嫌がっているのに、これ以上不安を煽ることはできなくて……。おばあちゃんにも頼み込んで、伏せて貰ってます」
「賢明よ。この家系に生まれた以上、御役目に就くことは避けられない。下手に印象を悪くする必要はないわ」
紫織の肯定が、陽菜実の中で渦巻いていた罪悪感を多少なりとも軽減させる。眼前の墓石の下で眠る先輩に手を合わせ、自らの判断の許しを乞う。
「三橋さんも分かってくれるわよ。御役目の大変さは、彼女も身に染みている筈だから」
紫織の静かな声が、吹き付ける寒風を和らげた。
莉乃がいなくなってからも、当然ながら御役目は無くならない。人間がこの世に存在する限り、例え天変地異が起ころうとも怨霊は発生し続ける。そして、討魔の家系に生まれた者は、否応無しに無く刃を振るい続ける。
しかし、全く変化が無い訳でもない。一人で一体の敵を相手するのが限界だった陽菜実は、二体までならなんとか同時に戦えるようになった。剣技は荒く、依然として生理的嫌悪は消えないが、十分な成長だと紫織は言う。「この調子なら、そのうち私も抜かれてしまうわね」と微笑んでいたのは、陽菜実の記憶に新しい。
そして、戦闘面とは別に大きく変化した部分がもう一つ。
「お疲れ様、一条さん」
ある晩の怨霊退治終了後、気が抜けて座り込む陽菜実を紫織は覗き込んだ。
「お、お疲れ様です」
先輩の手前立ち上がろうとする陽菜実。しかし、紫織はそれを手で制した。
「疲れているでしょう? そのままで構わないわよ。それに、今まで上下関係に厳しくしたことがあった?」
少し意地悪な笑みを浮かべる先輩に、陽菜実はぐっと言葉を詰まらせる。まさか、纏う雰囲気による条件反射とは言えない。しかし紫織はそれを見透かし、さらに口角を上げた。
「ふふっ、そんな顔しないで。はい、これあげるわ」
差し出したのは、例のごとくチョコレート菓子。それも、陽菜実が最近気に入っている期間限定の味だった。
「わ、ありがとうございます! この味が好きってよく分かりましたね」
「昨日貴方とぶつかった時にね。糖分を摂れば、少しは疲労も回復するんじゃないかしら」
「きっとします。えへへ、嬉しいです」
満面の笑みを浮かべ、礼を言う陽菜実。彼女を見て満足気に頷くと、紫織は槍を背負って歩き出す。陽菜実もそれに続き、二人は帰路に着いた。
莉乃がいなくなってからの、有り触れた光景。二人だけという寂しさはどうしても消えないが、紫織の優しさが陽菜実には心地好い。心地好いのだがが、拭えぬ不安があった。
――なんだか、莉乃さんに似てきた気がする。
隣を歩く紫織を盗み見ながら、陽菜実は胸の内が燻るような感覚に襲われていた。
始まりがいつだったかは分からない。莉乃の死後であることは確実だが、それ以上のことはどれだけ記憶を遡っても思い出せなかった。先輩を死なせてしまったことと、自分が誰からも罰せられないこと。それらが絡まってまともに頭が回っていなかった頃には、既にこうなっていたのかもしれない。
いつも冷静で、一歩離れた位置にいた紫織。莉乃にもかつてそう評されたように、『クール』という言葉が誰よりも似合う人物だった。そのフォローを莉乃がしていたのだから、少なくとも彼女の生前はその認識で間違いは無かった筈だ。
それなのに、今はどうだろうか。静かな口調こそ健在だが、陽菜実に積極的に歩み寄ってくる。不器用である代わりに渡していた菓子は、いつしか労いの言葉の付属品として差し出すようになった。浮かべる表情も豊かになり、笑っていることが増えた。なにより、仕草や発言が莉乃を彷彿とさせるようになった。
きっかけが何であれ、明るくなったのは喜ぶべきことなのだろう。社交性はあった方が良いに決まっている。冷静沈着で口数が少なかった頃よりも、紫織も成長しているのでは無いか。そう思うのに、陽菜実はどこか安心できずにいた。
紫織の明るさに触れる度、違和感とも恐怖感ともつかぬ妙な感覚に陥る。心地好い筈なのに、心のどこかで安心するなと声が聞こえる。正体不明の第六感に、陽菜実は怯えすらも覚えつつあった。
――大丈夫、ただの気の所為。
晴れ晴れとした表情の紫織を横目で見ながら、陽菜実は自分に言い聞かせる。
――莉乃さんの事で神経質になってるだけ。悪いことはもう起きたんだから、後は良い方向に向かうに決まってる。
「一条さん、どうかした?」
陽菜実の視線に気がついたらしく、紫織は首を傾げた。硝子玉のような双眸に後輩を映し、不思議そうな顔をする。
陽菜実は慌てて首を振って見せた。
「なんでもありません」
笑ってそう答えれば、紫織はそれ以上言及してこなかった。
硝子玉の瞳は、再び冬の空を映し始めた。
◇ ◆ ◇
その日は土砂降りの雨だった。
学校は春休みで予定も無く、妹の詩月は両親と共に中学の説明会。鍛錬の時間にはまだ早く暇を持て余した陽菜実は、何の気なしに二ノ宮家を訪れていた。
この家の夫婦は共働きである。春休みとはいえ平日であるこの日、家にいるのは紫織だけ。仲睦まじく遊ぶ間柄ではないけれど、妹が姉の部屋に暇を潰しに来るように、陽菜実が先輩の元を訪れるのに理由はいらなかった。事前にチャットは入れたから、追い返されることも無いだろうと思っていた。
呼び鈴を押し、応答を待つ。大きな家であるとはいえ、どれだけ待っても反応がない。人が歩く気配すらも感じられない。故障だろうかと首を傾げるも、微かにだが電子音が聞こえる。壊れてはいないらしい。ならばと再度押すも同じ。まるで物音がしない。
「あれ、留守かな?」
チャットを確認しても既読は付いていない。きっと、用事か何かで出掛けているのだろう。無駄足になってしまったと落胆し、土砂降りの中をこのまま引き返すことに抵抗感を覚えながらも、彼女は道を引き返す。途中、何気無く二ノ宮家を振り返った。
特に意識した訳では無いが、目線の先には紫織の部屋の窓。カーテンは閉められているが、過去に何度か入ったことがあるので間違いない。
その窓に、人影が映っていた。
「なんだ、紫織さんいるじゃない。気付かなかったのかな?」
気付いてくれれば良かったのに、と僅かに頬を膨らませる。けれど、紫織に会えるという喜びが優に勝っていた。
陽菜実は再度引き返し、呼び鈴を押す。しかし、依然として反応がない。痺れを切らした彼女は、できる限り声を張って挨拶して門をくぐった。
家の中の構造は大体把握している。莉乃と訪れた時のことを思い出して少ししんみりしながらも、迷うこと無く廊下を進む。
程なくして紫織の自室に到着した。ドアを叩きつつ、声を掛ける。
「こんにちは紫織さん、陽菜実です。あんまり返事がないから入って来ちゃいました。ケーキ持って来たんですけど、一緒に食べませんか?」
しかし、返事はない。
「……紫織さん?」
流石に、ここまで来ると不審だった。
陽菜実の背中に冷たい物が流れる。胃がきゅっと締まるような、言葉にしがたい感覚が襲う。心臓が荒ぶる。
己を落ち着かせるように、唾を飲んだ。そして、ゆっくりとドアを開けた。
結論から言うと、二ノ宮紫織は部屋にいた。
しかし、陽菜実が会いたかった相手は、既にいなくなっていた。
◇ ◆ ◇
『こんなことをしてしまって、本当にごめんなさい。信じて貰えないかもしれないけれど、私もこうするつもりは無かったの。後輩に全て投げて逃げるなんて真似、絶対にしたくなかった。
でも、どうしても駄目だった。私には無理だった。三橋さんが亡くなったあの日から、討魔師として生きる恐怖に耐えられなくなってしまった。
いつか私も、あんな風に怨霊に殺されるんじゃないか。人の為に頑張り続けても、最後は報われずに死んでいくんじゃないか。一度そう思ったら止められなかった。悪い想像がどんどん膨れ上がって、槍を握るのも辛くて仕方が無かった。
それでも、一条さんがいるから頑張ろうと思った。三橋さんがいなくなって辛いのは彼女も同じ。私ばかりが悲嘆に暮れてはいられないと思って、できるだけ明るく振舞った。自分を奮い立たせようと、三橋さんの言動を真似てみたりもした。そうしたらあの子が傍にいてくれる気がして、少しは強く心を持てた。
けれど、それももう限界みたい。一度生まれてしまった恐怖は、膨らむばかりで消えてくれない。これを書いてる今も尚、敵に殺される恐怖と討魔師を辞められない絶望が、延々と頭を渦巻いている。一条さんは立ち直ろうとしているのに、私はどうしてこんななのかしら。ほんと、情けなくて嫌になる。
一条さん、こんなお別れの仕方になってしまってごめんなさい。貴方は私のことを強い先輩だと思ってくれていたみたいだけれど、実際は全然そんなことないの。私が御役目に就いてから、ずっと怨霊が怖くて仕方が無かった。貴方に慣れなさいなんて言っておきながら、私自身が全く討魔に慣れていなかった。敵の姿と貫く時の感触が、何年経っても気持ち悪かった。怨霊退治なんてしたくなかった。ずっと逃げ出したかったの。でも後輩達の手前、強がってただけだったの。期待を裏切ってしまったわよね。こんな私と一緒に戦ってくれてありがとう。貴方一人に辛い想いをさせてしまって、本当にごめんね。
三橋さん、貴方の顔に泥を塗るような真似をしてしまってごめんなさい。最期まで戦い続けた貴方と違って、私は逃げる道を選んでしまった。こんな私が先輩で申し訳無いわ。貴方は本当に立派だった。誰よりも討魔師らしくて、実は凄く憧れていたの。今までありがとう。そっちに行ったら、もっと沢山謝らせて。
師範、こんな私に沢山の稽古を付けてくださりありがとうございました。御役目を全うできず、ごめんなさい。
お父さん、お母さん。大好きです。どうか、体に気をつけて、長生きしてね。親不孝な娘でごめん。また会う時があったら、沢山話そうね。
できることなら、普通の家に生まれて皆と出会いたかった。過去の記憶を見る能力なんて欲しくなかった。怨霊の正体を知りたくなかった。殺したくなかった。普通に生きたかった。
今まで本当にごめんなさい。ありがとう。さようなら。
二ノ宮紫織』
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