第八話 忘れられない記憶

 幼い子供は、何かに強い憧れを抱いて育っていくものだ。正義のヒーローに憧れた子供はかっこよさと強さを求めるし、美しいお姫様に憧れ子供は白馬の王子様を夢想する。その後に形成される性格は、これらが基盤となっていることが多い。

 彼女の場合は、其れが討魔師だった。幼い子供を戦闘の場には連れて行けない為鍛錬しか見たことが無かったが、それでも十分に心を掴まれた。人々の為に刃を振るう姿が、討魔師の使命が、彼女の喜びであり夢だった。

 そんな彼女――一条陽菜実は三年前、溢れんばかりの希望を胸に討魔の御役目に着いた。何も知らず、無垢なままで。


 ◇ ◆ ◇


「陽菜実ちゃん、そっちお願い!」

 先輩討魔師の声が、夜闇を纏った雑木林に響いた。同時に草を踏む音が辺りに鳴る。弱い者から倒すべきと判断した怨霊が、最も経歴の浅い陽菜実を狙い、接近していく。

「え、そんな、お願いって」

 ほとんど新品の薙刀を構えてはいるが、突然舞い込んだ討伐依頼に彼女は身を強ばらせた。先輩達の援護として敵を斬り付けることはあるが、自らがとどめを刺したことは無い。急所は知っているし鍛錬も積み重ねてきたが、人間と似通った容姿の敵に刃を振るうのは容易ではないのだ。創作物のようにすり抜けもせず、斬った感触も手に残る為、御役目に就いてしばらくは自らの手で討てないのが普通である。

 しかし、敵は思考する猶予を与えずに近づいてくる。このまま攻撃しないでいれば、いずれ二人の先輩のどちらかが助けてくれるだろうが……。

 ――私は討魔師。私は討魔師。私は討魔師!

「やああああああ!」

 恐怖を誤魔化すように、あるいは自らを騙すように、陽菜実は薙刀を大きく振った。月光を照り返す刀身は、白い閃光となって急所を斬り裂く。人間と酷似した敵なだけあり急所も人間のそれと一致している。今回は、腹部。

 柔らかくて繊細な箇所を斬られた敵は、前のめりになったと思うと地面に叩き付けられた。身の毛もよだつような呻き声を上げながら、藻掻くように四肢を動かしている。血は出ないとはいえ、その姿はどこまでも人間的。陽菜実を襲う震えは最高潮に達し、罪悪感となって心身を飲み込む。

 あれこれ考える前に、気付けば膝を着いていた。今しがた斬った敵に哀れむような眼差しを向け、徐に手を伸ばす。だが、触れる前に敵は全ての動作を止めた。煙が風に吹かれて消えていくように、人間そっくりの敵の体は瞬く前に霧散する。

 外見も動作も感触も、どうしようもない程に生前そっくり。それなのに、散り際だけは異質そのもの。人間から生まれたものでありながら、人間とは相容れぬ存在であるのだと、陽菜実の心に深く刻み込む。

 怨霊が跡形もなく消え去った場所を、そっと、撫でるように触れた。

「止めなさい一条さん。敵に情を持つものではないわ」

 先輩討魔師の片割れが、陽菜実の肩に触れる。

「そいつはあくまで怨念の集合体。人間だったものですらないの。姿形が似通っているからと言って、その都度辛く思っていたらキリがないわ」

「でも、紫織さん……」

「そんな心構えじゃ、長くは持たないわよ」

 言うとポケットから何やら取り出し、陽菜実に握らせた。

「できるだけ早く慣れなさい。一日に何体も討たなきゃならないこともあるのだし、弱音を吐いてる暇は無いわ」

 紫織は槍を収納袋に収めつつ、自らの手元に目線を落として言う。降り注ぐ白い光が良く似合う、冷淡で透き通る声。陽菜実の背筋は自然と伸びる。

 空気がひりつく。そう命じられた訳でもないのに、陽菜実は動くのが躊躇われる。剥き出しの薙刀を抱え、直前に渡された物を確認すらしないまま、戸惑いと恐怖に身を震わす。

 が、その空気はたちまち打ち破られた。

「陽菜実ちゃんお疲れ様。初討伐おめでとう!」

 底抜けに明るい声と共に、もう一人の先輩討魔師が背後から抱き着いた。先の戦闘時に陽菜実に怨霊の始末を頼んだ人物でもある。和らいだ空気に陽菜実も我に返り、矢筒を背負った彼女を振り向く。

「ありがとうございます、莉乃さん。これでおばあちゃんに怒られずに済みます」

「師範って、陽菜実ちゃんには特に厳しいもんね。御役目に就いて一週間なんて、戦闘の見学だけでも許されると思うけど」

 莉乃は抱き着いたまま、陽菜実の頭を撫でる。長女である陽菜実には慣れない感覚に、こそばゆいような心地になる。「見学だけというのは流石に」と首を横に振ろうとしたところで、コアラのようになっている先輩はもう一人に顔を向けた。

「厳しいといえば、紫織さんまた何か言いませんでした? 怨霊を討てたこと、素直に褒めてあげたらいいのに」

 槍の収納を終えた紫織は、莉乃をちらりと見遣ると小さく溜め息を吐いた。

「三橋さんは甘過ぎるのよ。討魔師である以上、躊躇わずに討てるようにならないと」

 膝に付いた埃を払い、立ち上がる。莉乃に「矢は全部回収したわね?」と問うた後、二人に背を向けて歩き始める。

「精々鍛えることね。技術面だけでなく精神面も。でないと、討魔師なんて続かないわよ」

 月光に照らされて白く浮かび上がる夜道に、紫織は一人消えて行った。莉乃は頭を抱えて唸る。

「ごめんね陽菜実ちゃん。あの人、本当は凄く優しいんだけど言葉遣いが……」

「いえ……」

 厳しいが、紫織の言っていたことは全て真っ当だ。祖母のように理不尽な訳でも、罵倒された訳でもない。討魔の家で生きていく上で大切なことを諭されたに過ぎない。少々冷たい口調ではあったが、それはいつもの事だ。討魔師になり、紫織に出会って一週間。陽菜実も既に慣れつつある。

 ふと、自分が何かを握り締めたままであることに気がついた。先程紫織に渡された物である。

 自分は一体何を握らされたのだろうか。陽菜実は今更、自分の手を開いてみる。そして、息を飲んだ。

「これって……」

「あ、チョコレートだ。好きなの?」

 陽菜実は頷いた。中にウェハースの入ったチョコレート菓子は、彼女の昔からの好物である。しかし、なぜ紫織はこれを渡してきたのか。これは何を意味しているのか。全く分からず、陽菜実は首を傾げる。

 それを見て莉乃は笑みを零した。

「紫織さんなりの激励だね。私もよく貰うよ。なぜか好きなお菓子を把握されててさ」

「莉乃さんは何がお好きなんですか?」

「酢昆布」

 陽菜実の好みとも、莉乃の印象とも掛け離れていた。少々意外に思いながら自分の手の中の菓子を眺める。これが自分の好物であることと、莉乃のそれとはまるで違うこと。紫織に渡されたこの菓子が、陽菜実の為に用意された物であることは明白。

「紫織さんって言葉は厳しいけど、ちゃんと気遣ってくれてるんだよね。クールな雰囲気なのに、私達の為にお菓子買ってると思うとなんか可愛くない?」

 本人に聞かれたら間違いなく怒られるであろうことを口にし、莉乃はころころと笑う。直前までの緊張は完全に消え失せ、陽菜実も花が綻ぶような笑みを浮かべて頷いた。

「少し意外ですね」

「だよね! 私も初めて貰った時びっくりしたもん。意図がまるで読めなくて、本人に直接聞いちゃった」

「え、直接? 紫織さんはどんな反応だったんですか?」

 すると、弓を片手に目を細める彼女は、幼い子供が悪戯をする時のような表情になって声を潜める。

「『少しは察しなさいよ』って拗ねた顔してた」

 ちょっと照れてたよ、と告げる莉乃は心底楽しげである。反対に陽菜実は、頭の中が渦巻き始めてそれどころではない。

 ――あの紫織さんが、照れるの?

「陽菜実ちゃんってば、猫が宇宙に放り出されたみたいな顔してるね」

 後輩の驚嘆ぶりに、莉乃は気分良さげに顔を覗き込む。

「紫織さんの意外なエピソードはもっとあるんだけど、聞きたい?」

「聞きたいです!」

 陽菜実は一も二もなく食いついた。「よしきた」と莉乃は手を叩いた。

「それなら帰りながら色々話してあげるよ! ここに紫織さん本人もいたら、もっと面白かったのにな」

「でも、それだと紫織さんが話させてくれないんじゃないですか?」

「確かにそうかも。うーん、中々上手くいかないね」

 各々が身の丈程の武器を背負いながら、静寂に包まれた夜道を歩く。月灯りが二人の行く先を照らし、談笑の声が闇を払う。怨霊退治という楽ではない御役目に従事しているとは微塵も思わせぬ、穏やかな時間が流れている。

 薙刀を背負ったその姿は、晴れやかで幸福そのものである。


 筈はなかった。


 闇と静寂が一体化した室内で、陽菜実は膝を抱えていた。ドアもカーテンも閉め切られた自室は、外界との一切の繋がりを遮断している。家族の大半は一階におり、時折談笑する声が聞こえるが小さなものだ。駄目押しと言わんばかりに頭から布団を被ってしまえば、彼女を煩わせる外部からの刺激は何も無かった。

 今の彼女を苛むのは、内側から湧き起こる、五感に染み付いた記憶だ。

 裂けた胴。断末魔。肉の重み。骨の硬さ。地に落ちる音。壊れた機械のような動作。虚ろな瞳。虚空の奥に滲む憎悪。己を斬った敵に正面から向けられた、糾弾するような憎しみの色。帰宅してから一時間は経過しているが、依然としてこれらの感覚が薄れない。むしろ、冷静さを取り戻したことで余計に強まっている。生々しい感触とグロテスクな映像が幾度も蘇り、荒れ狂い、脳髄を突き刺す。照明を点けず、扉を閉め切り、布団を被っているというのに、眼前には二時間前の映像が鮮明に浮かぶ。

 ――私は良いことをしたの。街の人達を守って、怨霊の持ち主を安心させてあげたの。これは成仏のお手伝い。何も怖がる必要はない。この感触も景色も全部勲章。討魔師として一歩を踏み出した証拠。誇っていい。喜んでいい。私は――。

「……無理だよ、こんなの」

 どうしようもない本音が口から溢れた。溜め息に乗せられた哀しみが部屋に溶けていく。一度抑えが効かなくなった感情は勢いを増し、次から次へと声帯を震わせる。

「私はこんなことしたくないのに……皆を守れるのは嬉しいけど、こんな不快なんて聞いてない……怨霊に実態があるなんて言われてない……」

 酷く弱々しい声は、いつしか湿り気を帯びて布団を濡らす。誰にも届かない、届いてはいけない想いだけが静寂を震わせる。

 陽菜実は幼い頃、祖母の演武を見て討魔師に憧れを抱いた。人の死により生まれる怨霊と、それを討ち取り人々を守る討魔師。どんな手堅い職業よりも実績が目に見え、人を守ったという実感が得られる。そう聞かされる毎に憧憬は増していき、辛く厳しい鍛錬にも耐えられた。

 しかし、魔を討つ感触も敵の消滅も、実際に討魔師になるまで教えられていたそれとはだいぶ掛け離れていた。

『怨霊なんて急所を斬ればすぐに消滅する。煙のように消えていくから中々壮観なものよ。なに、手応え? そんな物ありはせん』

 昔祖母から聞かされた、怨霊退治の詳細。あれは熟練者だからこその感想だったのだろうと、今の陽菜実なら分かる。分かりはするが、初心者に向けたそれではなかったことと、それを一切疑うことなくいた自分が腹立たしい。

 御役目初日、恐怖と生理的嫌悪を抑え込んで振り被った薙刀は、陽菜実の手にえも言えぬ感触を与えた。それでもとどめは刺さなかったからどうにか耐えられたものの、今回ばかりは無理そうだ。

 ――こんなの、人を殺してるのと何が違うんだろう。

 陽菜実の初討伐を喜んだ祖母のことは、どうしても同じ人間とは思えない。日常的に敵を討っている紫織と莉乃のことも、実の姉のように思ってはいるが別世界の人達のようだ。自らに課せられた宿命がこれほど過酷であると、一ヶ月前の陽菜実は想像だにしなかった。怨霊の実態は疾うに把握しているが、知識と知覚が結び付かないのが現状だ。

「もう嫌だ辞めたい……」

 とめどなく溢れ続ける嫌悪感は、吐き気となって彼女を襲う。シーツの擦れる音と鼓動と呼吸音が、陽菜実の聴覚を完全に支配する。

 意識が、深淵に呑まれる。

 ――このまま、全て闇に溶けて消えてしまえばいいのに。今日殺した怨霊と同じように、跡形もなく。

 白い頬を、一筋の雫が伝った。

 直後、彼女の部屋は外界との繋がりを、半ば強制的に取り戻した。

「お姉ちゃんいるの……って、何この部屋。真っ暗じゃない!」

 幼さが抜けきっていない声と共に、部屋が明るく照らされた。布団越しでも分かる光の加減に、陽菜実はむくりと起き上がる。

 突如照らされた眩しさに目を細めると、その先に立っていた妹が怪訝そうな表情を浮かべていた。

「どうしたの? 電気も点けないで布団被って。体調でも悪い?」

 そして、陽菜実の傍に歩み寄って額に手を当てる。「熱は無さそうだね」と呟く姿に、途方も無い安心感を覚える。

 心地良い。温かい。この温もりに、もっと触れていたい。

 陽菜実は、頭で考えるよりも先に妹を強く抱き締めていた。

「詩月……」

 妹の名を呼ぶ声が、自分でも驚く程に弱々しく震えている。孤独の闇の中で弱音を吐いていた時よりも、さらに覇気を失った声。辛うじて声帯が震える程度の力無いそれは、妹に縋るように溢れ出す。

 突然の姉の抱擁に、詩月は混乱を露わにする。

「え、ちょっと、お姉ちゃん? ほんとにどうしたの? 洋酒チョコでも食べて酔った?」

 落ち着いてと背中を摩る妹に、陽菜実は尚のことしがみつく。自分を癒してくれる唯一の温もりを取り込むように。冷え切った心の底まで溶かして、二度と凍てつかずに済むように。

「……温かいね、詩月は」

 それは、討魔師として生き、それを当然とする者達の中で、唯一触れることの許された温度だった。紫織の静かな気遣いも、莉乃の溌剌とした優しさも、見えない壁の向こうに存在している。同じ境遇でありながらも異なる価値観を有する二人の前では、到底本心を吐き出せない。怨霊退治の際には頼れて気を許せる二人でも、どこか畏怖にも似た感情が陽菜実を抑圧させる。家柄と名誉に拘る祖母と、祖母に逆らわない母は論外。

 討魔師として生きる未来を嫌い、家柄を拒み、普通でありたいと希う少女。かつては共に討魔師に憧れを抱いたが、早い段階でその本質を見抜いた妹。詩月だけが、陽菜実を討魔の呪縛から解放させてくれる存在である。

「そりゃあ、これだけくっついてたら……。温かいと言うより暑いよね」

 何も知らない幼い妹は、無垢な瞳で姉を見詰め返す。首を傾げるその姿は、御役目に就く為の鍛錬を積んでいるとはいえ、一般人と何ら変わりはない。

 陽菜実は思う。こんな澄んだ瞳を浮かべる妹でさえ、いつかは先輩達のようになるのだろうかと。紫織と莉乃のことは大好きだし尊敬しているが、立つ場所が違い過ぎている。詩月もまた彼女達同様遠い場所に行ってしまうのかと、言葉にしきれぬ恐怖が込み上げる。

 ――もしも詩月が、紫織さん達みたいに平気で怨霊を殺すようになったら。私は、この子の姉でいられるだろうか。

 ――一瞬の安らぎさえ得られなくなったら、私は一体どうやって生きればいいの?

「詩月、お願い」

 お願い、どこにも行かないで。ずっと傍にいて。

 思わず出そうになった言葉を、すんでのところで飲み込む。そして、代わりの言葉を口に出した。

「課題、手伝って」


 ◇ ◆ ◇


 月日は誰にも等しく過ぎ去る。生まれたての赤ん坊は一人で座り、芽吹いていた木々は葉を散らし、怯えていた新人討魔師が敵に飛び込めるようになった頃。三人の少女達の元に、怨霊退治の依頼が舞い込んだ。

「今回は大規模火災の跡地。死者数は十二名。師範も助太刀して下さるようだけれど、他地域からの応援は無し。普段のように安全に戦うのは不可能ね」

 陽菜実の祖母から渡されたメモを片手に、険しい顔を浮かべる紫織。

「今頃は場所を移動してる個体も多いでしょうし、場合によっては三方に別れることになりそうですね……。陽菜実ちゃん、いける?」

 僅かに身震いしながらも、陽菜実を気遣う莉乃。

「……大丈夫です。ここで私が逃げたら、詩月にまで危険が及ぶかもしれないから」

 額に汗を滲ませながらも、どうにか言葉を紡ぐ陽菜実。大事な妹の姿を脳裏に浮かべ、逃避を望む心を押し殺す。

 怨霊の姿が明瞭になり、霊力から場所を察知しやすくなる日没後。三人は各々武器を取り、生者に仇なす敵を討ちに往く。


 月日は誰にも等しく過ぎ去る。新人討魔師が一人でもどうにか敵を討てるようになるのも、先輩討魔師の灯火が尽きるのも、同じ時間がもたらした結末である。

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