第六話 動かない体

 一条家には時代齟齬なしきたりが幾つも存在する。代々討魔師であるという家柄ゆえ、辛うじて必要性を認められる物も無くはない。が、大半は過去の時代の遺物である。もはや化石と言って差し支えない。この家には文明開化も高度成長期もバブル景気も訪れなかったのかもしれない。

 認められる例を挙げるとすれば、討魔に直接関わってくる部分である。古くから続く家柄とて、怨霊を討てるのは女性だけだ。怨霊に対抗するための力と武器を、男性や部外者では使役できないらしい。過去に剣道の達人が討魔用の刀を持って怨霊に挑んだらしいが、敵に傷一つ付けられずに終わったという。そんな経緯もあるので、この家が女性に厳しいのも、幼少期から鍛錬させられのも、不満ではあるが理解はできる。婚姻も婿入りと決められているのも、女の子を産まなければならないのも、討魔師を絶やさない為には必要なのだと頷ける。

 が、その他は最悪にも程がある。今の元号を疑わずにはいられないような内容が、ごく当たり前に存在している。この世のあらゆる理不尽を凝縮したような、忌々しいしきたりが。


「幾ら何でもこれは容認できんぞ詩月!」

 帰宅と同時に祖母が飛び出してきたと思えば、桶に入った水をこちらに浴びせてきた。咄嗟に躱したものの避けきれずに半身が濡れる。突然のことで理解が追いつかないでいるうちに、今度は塩を撒かれた。顔を庇いきれずに目に入った粒が、私の眼球を容赦なく突き刺す。直後に聞こえた呻き声が自分のものであると、理解するのに数秒を要した。

 今日は帰宅が遅れた訳ではないし、御役目もまだだ。祖母が激怒する理由がまるで分からない。浴びせられた水の凍るような冷たさと、左目を襲う激痛。私に理解できるのは、五感で得られたこれらの情報だけだ。増してや水と塩を浴びせるなんて、正気の沙汰ではない。ここの所はよそよそしかったのになぜ急に。

 いつもは祖母側に付く母が、今日は祖母を止めに入った。それだけこの人の行動が常軌を逸しているということ。もしかしたら認知症か統合失調症にでもなったのかもしれない。早く介護施設にでも入ってくれないかな。

 回らない頭でそんなことを考えながら、耳に神経を集中させる。祖母と母の言い合う不快な音が、私の鼓膜を激しく揺さぶる。


 両耳からなだれ込む騒音の中に、私のとてもよく知る大好きな苗字が幾度も登場した。そして、その家を貶す言葉は祖母の口から倍以上紡がれた。


 瞬く間に脳が機能を停止した。あらゆる感情が一斉に止み、一瞬の凪が訪れた。


 直後、生まれて初めての衝動が私を呑み込んだ。


 薄暗い玄関で、刀身だけが青白い光を纏っている。


 ◇ ◆ ◇


 学校の最寄り駅は、昼間はそれなりに利用客が多い反面夜になるとめっきり利用者が減る。近隣校の生徒が下校して部活も終わった後は、ホームにいる人はまばらだ。

 家を飛び出し、何も考えられずに足を進めていたら、いつしかここにいた。電車を乗り継いで来た筈なのだが記憶は曖昧で、我に返った時にはホームの端のベンチでぼんやりと空を眺めていた。

 服は未だに湿っている。目を刺す激痛は消えたものの、異物感はまだ残っている。迫り来る寒気が疲弊した心身にのしかかり、息苦しさとなって私を蝕んだ。

 手の中の太刀は秋風に吹かれて氷のように冷たくなっている。竹刀袋越しでも分かる温度とは対照的に、私の腸は煮えくり返っている。冷静になればなる程、沈静化していた怒りは勢いを取り戻す。

「なんなのよあのババア……凛子達を好き勝手言いやがって……絶対に許さない……一生怨んでやるっ……!」

 腹の底から湧いた憎悪は、人の少ないホームに冷ややかに響き渡った。


『嫁入り前の娘が身内以外の男と二人きりになるなど、一条家の一員として恥知らずにも程がある!』

 およそ一時間前のこと。母と言い争っている時、祖母はそう喚いていた。それを聞いて自分が女子校に入れられた理由を思い出したのだが、これ自体は大したことでもない。現代社会にまるで適合していないしきたりを重視するのは、祖母にはよくある事だ。

 が、問題は私が帰宅した直後であるという点。


 ――なんで、私が司と一緒にいたことを知ってるの? 司に会ったのも、凛子が忘れ物を取りに戻ったのも、全部偶然なのに? 帰ってきたばかりで、誰にも話してないのに?


 頭の中で疑問符が駆け巡った。混乱の渦となり掛けたそれであったが、直後に聞こえた言葉に思考が停止した。


『しかも相手は羽純の息子ときた! あんなろくでもない家と関わるなんて、ご先祖様も草葉の陰で泣いてるだろうよ!』


 どうして祖母は司の苗字まで知っているのだろうか。羽純家と面識でもあるのだろうか。

 というか。


 ――ろくでもない家って、何?


 そこからは酷かった。いかに羽純が堕落した家柄か、家の人間が屑であるか、関わることでどんな弊害が出るか、延々と捲し立てた。その姿は害悪そのものだった。祖母を、一刻も早く黙らせたかった。


 だから、祖母の喉元目掛けて一切の躊躇無く抜刀した。


 多分、過去最高の速度だったと思う。御役目の際にもあんな素早く動けたことは無い。怒りだけで突き動かされた体は、自分でも驚く程に身軽だった。

 僅かに残った理性で斬らないでやったことを感謝して欲しい。あの時私は確かに殺意を抱いた。怨霊にさえ抱いたことの無い衝動を、怨霊の何倍も浅ましくおぞましい老害に向けたのだ。一線を超えなかった自分を手放しに褒め讃えたい。

 その後は奴と同じ空間にいるのも嫌になり、何も言わずに刃を収めて家を出た。いつの間にか姉も帰ってきていたけれど、一刻も早くあの場を去りたくて無視した。姉は何も言わなかった。


 陽もすっかり落ちていて、空は漆黒に染まっている。イラストや写真では藍色に写っている物が大半だけれど、実際の夜空なんてこんなものだ。今日は月すらも出ていない。鮮やかさが微塵もない冷ややかな色は、今の私にぴったりかもしれない。

 今頃家はどうなっているだろうか。祖母は激怒しているのか、はたまた腰を抜かしているか。この際どちらでもいい。もうあの家に戻るつもりは無いのだから。

 ひょっとしたら今こうしていることも、何らかの手段で監視しているのかもしれない。もはや千里眼の能力があると言われても驚かない自信がある。だが、年寄りの行動範囲なんてたかが知れてる。少なくとも今夜中は連れ戻しには来ないだろう。

 ベンチの背もたれに寄り掛かり、大きく息を吐いた。白い息が夜に溶けていく。この世の嫌な物全てを、こんな風に全て溶かしてしまえたら良いのに。叶うはずもない理想を脳裏に浮かべ、虚しくなって項垂れた。

「……とりあえず、今後どうするか考えないと」

 重い頭を抱えながら、自分を鼓舞する為に口に出した。気分はまるで上がらないけれど、四肢を動かす気力だけは辛うじて湧いてくる。寒さと怠さで質量を増した腕をぎこちなく動かし、スマホと財布を取り出した。

 手持ちのお金は四千円ちょっと。当然クレジットカードの類は持っていない。母が長年のお年玉を積み立ててくれている筈だが、キャッシュカードは自宅だ。交通系電子マネーもあることはあるが、これは移動用に残しておきたい。よって、財布の中の千円札四枚が私の全財産だ。

 続いてスマホで地図検索をするも、この周辺に寝泊まりできそうな場所は見当たらない。ネットカフェでもあれば一晩は過ごせると思ったのだが、私の思い通りにはなってくれなさそうだ。

 いや、それ以前に。

「中学生じゃ深夜帯は無理か……」

 ごく当たり前のことに今更気付き、頭が痛くなった。

 高校生ならまだやりようはあるかも知れないが、義務教育期間中はとても無理だ。今からネットカフェを利用しようものなら最後、確実に補導される。増してや私は制服姿だ。塾帰りと言い訳するにしても、その手の商業施設に足を踏み入れた時点で多分アウト。

 いざとなったら討魔師であることを盾にして、怨霊退治の為だと言い訳すれば……。

「……って、それじゃ秒速で家がバレるな」

 自宅に強制送還だけはごめんだ。親友の家庭を貶す家なんて意地でも帰るものか。少なくとも、祖母がいる限りは。

「はぁ、どうしよう……」

 外泊も駄目。帰宅も駄目。身分のせいで行動範囲も限られる。誰かの家に泊めてもらおうにも、そこから自宅に連絡される可能性が高い。今はまだ時間的に余裕はあるけれど、あと三時間もすれば補導が現実味を帯びる時間帯だ。それまでに、今日の寝床だけでも確保しないと。

 さっきよりも増してきた寒気で体が震える。せめて暖を取りたい。一度改札を出てコンビニに入るか。

 やけに重い体に鞭を打って立ち上がる。鞄と太刀を肩に提げたところで、ポケットの中のスマホが着信音を奏でた。

 チャットの通知音ではなく、電話が掛かって来た時のそれ。基本的に連絡は全てチャットで済ませているから、わざわざ通話をしたがる相手が思い浮かばない。まさか自宅からではないだろうな。

 眉をひそめながら画面を見る。しかし、そこに映し出されていたのは予想外の名前だった。

「凛子? いつもはチャットなのに、なんで電話で?」

 浮かび上がった疑問が、思わず声に出た。よく分からないまま、しかし放置する訳にもいかないので通話を取る。

「もしもし凛子? どうかした――」

『詩月あんた今どこにいる!? もしかして学校の最寄りに行こうとしてない!?』

 電話口の向こうから、珍しく取り乱した様子の声が私の耳を貫いた。

「行こうとしてるというか、今まさに最寄りにいるけど」

『嘘でしょ!? なんでこんな時間にいるのよ!』

「ちょっと色々あって……。凛子こそどうしたの? 司と買い物してるんじゃなかったの?」

『買い物はもう終わったわ! それより詩月、今すぐそこを離れなさい! 改札内にいるなら速攻で出て! コンビニでもどこでもいいから、とにかく駅から離れて!』

「え、ちょ、急にどうしたのよ」

 あまりに唐突な事態に理解が追いつかない。物怖じしない性格の凛子が取り乱していることも、不可解な命令をされることも、普段の彼女では考えられない。

 唯一、心当たりがあるとすれば……。

「ねぇ凛子、一旦落ち着いて。話がよく分からな――」

『いいから早く! あと……も……に……ホームに……が……』

「え、今何て?」

 急に電波が悪くなったのか、凛子の声が断片的にしか聞こえなくなった。ノイズが混じり、何を言っているのかまるで分からない。

 私の声も向こうには届いていないらしく、私の欲しい答えは返ってこない。親友の焦った声とノイズだけが私の鼓膜を震わせる。

『あ……た……りょ……は……無理……逃げ……』

 ぷつん。

 電波の乱れが最高潮に達したらしく、そこで通話は切れてしまった。掛け直そうと画面を見るも圏外と表示されてしまっている。凛子が何を伝えたかったのかは分からず終いだ。連絡手段に通話を選んだことといい、緊急の何かがあったのは間違いない。多分、勘で何かを察知したんだ。

 あの凛子が焦っていたということは、この場所で尋常でない何かが起こるのだろう。彼女の勘は百発百中。訳が分からない状況だけど、今は彼女の言葉に従うしかない。

 凍えるような寒さの中、私は一歩踏み出した。いつの間にか人が完全にいなくなっていて、私一人分の靴音が響く。……筈だった。


 私の耳に届いた音は二人分だった。

 一つは自分の物。もう一つは――背後から。


「――っ!?」

 声にならない悲鳴が漏れた。心臓が激しく脈打ち、全身から脂汗が滲む。とてつもない恐怖に襲われながらも咄嗟に前方に跳躍し、直前まで自分がいた位置を振り返った。

 が、直後には全て霧散した。

「なんだ、浅野先生か。びっくりした」

 視線の先にいたのは、尊敬する担任教師だった。得体の知れない物かと思った数秒前の自分に呆れ返る。凛子との通話で気が動転していたこともあるのだろうが、日々人ならざる者を相手にしておいてこれはない。とどめを刺せないとはいえ、一応は戦えるのだ。流石に情けない。

 ところで、と私は先生を見る。

「先生はどうしてここに? 学校の帰りですか? あ、私はちょっと色々あって……」

 最終下校時刻をとっくに過ぎているというのに、学校の最寄り駅にいることが許せないのだろうか。先生はこちらを見もせずに俯いている。表情は伺えないものの、彼女の性格を考えれば激怒寸前と言ったところか。浅野先生は悩んでいる生徒には寄り添ってくれるが、校則違反をする生徒には容赦がない。仮にやむを得ない事情があったとしても、叱られることは叱られる。

 いつにも増してぼうっとする頭で、言い訳をどうにか考える。だが、こういう時に限って何も思い付かない。普段はどうでもいいことを延々と考えてしまうというのに、役に立たないものだ。

 いっそ、家でのことを全て相談してしまうのもアリな気がする。進路のことでも親身になって助言をくれた人だ。それ以外でも沢山相談に乗ってもらったこともあるし、きっと聞いてくれる筈――。


 ――あれ?


 ふと、何かが引っ掛かった。服の裾が木の枝に絡み付くような、些細な違和感が私を襲う。凛子のような勘の良さこそ持っていないものの、このまま放置すれば取り返しのつかない事態に陥るような気がする。ニットに大穴が空いて着られなくなるように、現状を致命的なまでに一変させてしまう事態に。

 そうだ、凛子。さっき電話で話してから数分経ってしまっているけど、早くこの場を離れないと。なにか良くないことが起こるはずだし、せっかく忠告してもらったのに無駄にしてしまったら申し訳ない。浅野先生も連れて、一度改札を出よう。違和感の正体はその後考えればいい。

「浅野先生、一度改札を出ましょう。凛子――羽純さんから、この場所にいるのは危険だってさっき連絡があって。先生もご存知の通り、あの子の勘は必ず当たるので、早く逃げないとまずいです」

 しかし、先生は依然として顔を上げない。それどころか、一切の反応を示さない。いつもの彼女なら、「それなら急がないといけないな」くらいは言ってくれるのに。「だが一条、その後しっかり事情聴取するからな?」と悪い笑みを浮かべるところまで想像できるのに。

 どうしてしまったのだろう。体調でも悪いのだろうか。

 移動を促そうとして、私は先生の肩に手を伸ばした。しかし触れる直前に、肩から提げていた竹刀袋がずり落ちて中身が放り出された。からん、と小気味の良い音が響いた。

「あ、すいません!」

 普段は絶対にやらない失態に、却って気が動転してしまった。慌ててしゃがみ、転げ落ちた太刀に手を触れる。

 直後、脳内の霞が晴れるような感覚が、私の中を駆け抜けた。そして、ある記憶がぷかりと顔を出す。

 それは、五日前まさにこの場所で起こった事件の記憶。それほど時間が経っておらず、その衝撃も絶対に忘れす筈の無かった出来事。そして、それがもたらしたあの人の末路。


 ――浅野先生は、実家に帰った筈。


 ――どうして、ここにいるの?


 背筋が、凍り付いた。

 数日前に自殺未遂を起こした人間が、一人での外出を許される訳が無い。抜け出させること自体ありえない。私が身内だったら、一時も離れずにそばに居る。落ち着くまで監視する。そうでもしないと危ないなんてものじゃない。

 でも、ここにいるのは私と先生だけ。先生の家族らしき人はいない。絶対におかしい。

 何より、さっきは全く気にならなかったけど。


 私がいるのはホームの端なのに、私に気付かれずにどうやって背後まで来れたの?


 この人は、人のようなものは、一体どこから来た……?


「あ、あさの、せん、せい……?」

 どうしようもなく体が震える。

 名前を読んではみたけれど、顔を上げる勇気はない。何かの間違いであって欲しいと、今すぐ返事をして欲しいと、祈るような気持ちで柄を握り締める。

 しかし、私の耳に欲しい言葉は届かない。さりとて何も聞こえない訳ではなく、この半年で嫌という程耳にした音が私を揺さぶる。


 呻き声。


 頭が真っ白になった。

 視界がぐらついた。

 気配を感じて顔を上げれば、尊敬していた担任教師の顔がすぐ目の前にあった。

 その瞳は、途方も無い怨みに染め上げられている。

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