第五話 失うかもしれぬ恐怖

「浅野先生、今日も休みだったわね」

 放課後の喧騒に背を向けて歩む靴音が、冷えきった廊下に反響する。足元から発せられるその音は、どこか硬い印象を纏って私の鼓膜を震わせる。今の気分が音になっているようで、何だか変な感覚だ。

 冷淡な音に混じって届いた凛子の言葉に、肯定の意を込めて首を振る。

「今日で五日目。……まあ、あんなことがあったからね」

 『あんなこと』の部分で凛子が俯いたのが分かった。あの場に居合わせてしまったのだから、彼女なりに思うところがあるのだろう。私自身、気持ちの整理がついていない。

 浅野玲香先生は、私達のクラス担任である。さばさばした性格と面倒見の良さが魅力の、いわゆる姉御肌。男勝りな口調の所為で初対面の人には疎まれがちだが、一度彼女の世話になれば魅了されない人はいないだろう。生徒一人一人に歩み寄ってくれる良い先生で、生徒の中には彼女のファンも多くいる。私と凛子も例外ではない。


 そして、彼女とは五日前の夕暮れ時に駅のホームで遭遇したのだった。


 震えながら太刀を構えて怨霊を迎え打とうとしたあの時、あの場所にいたのは浅野先生だった。屋外なのに靴を脱いでいて、鞄も傍らに転がっていた。何より浮かべていたその表情から、彼女の意図を読み取るのは容易だった。

 そこから後は無我夢中だった。太刀を放り出して先生を羽交い締めにし、あまりに暴れるので凛子を呼び寄せ二人で押さえ込んでいた。その後、駆けつけた駅員に引き渡した。押さえ込んでいる間に先生と何か話した筈だが、気が動転していたこともあり何も思い出せない。

 一つ確かなのは、凛子の勘と私の覚悟が少しでも遅ければ、あの駅には本当に怨霊が出現していたであろうことだ。

「……仕事のストレス、だってね。人から頼られることが多いから、色々抱え込んでたみたい」

 重い感情を吐き出すように、凛子は小さく呟く。知っている内容とはいえ改めて聞くと胸がざわめく。

 あの日現場に立ち会った私達は、翌日学年主任に呼び出されて詳細を聞かされた。浅野先生の自殺未遂の動機と学校側で決めた対応についてだったが、場の空気が尋常でなく重かった。あの、ひりつくような肌の感触は四日経った今も鮮明に残っている。

 浅野先生欠席の表向きの理由は体調不良ということになっている。理由が理由である以上、仕方の無い対応だ。私達も念入りに口止めされたし、誰かに話すつもりもない。けれど、担任教師の欠席理由を誰も疑わないことが、言い表せない程に辛い。

「……誰も、浅野先生が苦しんでることに気付かなかったんだよね。今回だけじゃなくて、今までもずっと」

 自然と、ここ数日の教室の様子が脳裏に蘇る。担任が長期間欠席すると伝えられた時は驚いている生徒もちらほらいたものの、その日の放課後には何事も無かったかのように代理の教師を受け入れていた。まるでその人が元々クラス担任であるかのように。あるいは、浅野先生なんていなかったかのように。違和感そのものが、あの教室から抜け落ちていた。

 変化に柔軟であることは大切だと思う。でも、変化したことを忘れるのは違う気がする。

 ひょっとしたら、進路希望調査について助言をくれている時にも悩んでいたのかもしれない。私を気遣ってくれている裏で、首が締まるような思いでいたのかもしれない。散々お世話になって、それなりに言葉も交わした筈なのに、私は何も気付けなかった。ハリボテだった快活な笑顔に、違和感の一つも抱けなかった。

 先生がいつから死を望んでいたのか、私には分からない。分からないことが、やるせない。

「……でも、私達にできる限りのことはちゃんとできたわよね? 最後の一線だけは越えさせずに済んだんだもの。これで、良かったのよね……?」

 消え入るような声が、私のすぐ側で発せられた。自問と確認を織り交ぜた哀色の言葉に、返答する術をどうしても見い出せない。何か返さなければと思うのだけれど、なけなしの言葉は全て喉に張り付いてしまった。

 浅野先生は現在実家に戻って療養している。もう私達が心配する必要も無い。彼女はきっと大丈夫。

 そう思うのに、渦巻く懸念は消えてはくれない。巡り続ける不安は形を変えて、私を頭から飲み下す。


 ――こうして何も気付けないでいるうちに、大切な物を失ってしまうのかもしれない。変化に慣れて違和感を忘れて、失ったことにすら気付けないのかもしれない。


 ――お姉ちゃんを、知らないうちになくしてしまうかもしれない。


 無言になった私達の間で、コツコツという靴音だけが生み出される唯一の音である。

 無知で無邪気な騒音は、いつしか聞こえなくなっていた。


 ◇ ◆ ◇


 意味ありげな発言と、聞いたことの無い怒号。明らかに様子がおかしかった姉だけれど、あれ以降不可解な言動は何一つ見受けられなかった。

 朝起きればいつものように寝ぼけ眼で立っていて、手作りのお弁当を渡せば嬉しそうに微笑む。登校時には他愛のない会話をして、帰宅後は鍛錬に打ち込む。私と二人で怨霊退治をした後は、大慌てで課題を片付け就寝する。長年見てきた通りの、温厚で能天気な姉がいた。

 私が覚えた違和感は思い過ごしだったのかもしれない。あの晩聞いた怒号は夢か幻聴だったのかもしれない。浅野先生のことが無ければ、きっとそう結論付けていただろう。

 このままにしておくのは怖い。姉が何を抱えているのか、知らなければいけない気がする。でも、知るのが怖い。どうやって調べたらいいのかも分からない。直接聞いたところで曖昧な笑みで誤魔化されて終わりだろうし、何よりそんな勇気も無い。自分が情けなくなる。

 そういえば、気になったことがもう一つ。私が罵倒され、姉の怒鳴り声が響いたあの晩以降、祖母は私に対してよそよそしくなった。件の事件に遭遇した関係で翌日の帰宅が遅れたことも理由すら聞かれず、怨霊退治で敵にとどめを刺せなくても小言程度で済まされるようになった。あの晩危惧してきた説教第二弾も無いままである。

 この二つが無関係とは思えないけれど、どういった関係性があるのかも想像つかない。それ以前に、ずっと家にいるはずの祖母が私達の御役目の様子を知っていること自体がおかしいのだけれど、これに関しては考えても埒が明かない。知りたくもないし、そういうものだと受け入れざるをえない。

 祖母の説教を食らわずに済むのは凄く有難いし、向こうから避けてくれるのも気が楽で助かっている。唐突過ぎる変貌ぶりが少々不気味ではあるものの、このままであって欲しいと思う私がいる。姉はともかく、祖母の内面に深入りするつもりはない。学校で当たり前にしているように、馬が合わない祖母とも関わらずにいられたらそれが一番だ。


 姉の怒号を聞き、浅野先生と駅で遭遇してからというもの、私は夜な夜な自主鍛錬をしている。

 彼女の自殺未遂は、怨霊の呪いの影響ではなかった。あの時の彼女から、一切の霊気を感じられなかったから間違いない。凛子も言っていたように、今回の私にできることはあの羽交い締めだけだった。言ってしまえば、討魔師としての能力は全くの無意味。鍛錬を積んだところで先生を救える訳では無い。

 それでも、不甲斐なさと失う恐怖が私を突き動かした。

 私が強ければ、庇わせなければ、姉が豹変することはなかったのかもしれない。あるいは理由を知れたのかもしれない。このままでは、浅野先生みたいに姉まで離れていってしまうかもしれない。ひょっとしたら、今度こそ大切な物を失ってしまうかもしれない。

 泡沫のように沸き起こる不安を振り払うように、私は太刀を握る。核心に踏み込む勇気の無さを誤魔化すように、重い太刀を振り続けている。


 ◇ ◆ ◇


 下校途中の通学路は、陽が落ちてきているということもあってどこか寂しげに見える。部活に所属している生徒が大半だからか、私達が学校を出るタイミングでは道行く人影は多くない。まばらに映る生徒の姿が、漂う哀愁を掻き立てているのかもしれない。

 直前に話していた内容のこともあり、校舎を出た後も私達は無言だった。コンクリートを叩く靴音は、廊下でのそれの何倍も響いている。遠くから聞こえる子供の声が、私達の間に流れる空気の静けさを引き立てる。

 気心の知れた間柄なので、無理に喋って間を持たせる必要は全く無い。お互い疲れている時は、無言で過ごすこともある。

 だが、この空気感は嫌いだ。冷たい風が肌を刺し、嫌な汗を滲ませる。自分の一挙一動に訳もなく気を使ってしまい、ぎこちない動きになっているのが自分でも分かる。どうにかこの空気を打破したいけれど、その術が一切浮かばない。硬い靴音だけが霧散していく。

 せめて、何か話すきっかけがあればいいんだけど。辺りを見渡し、話題の種になりそうなものを探す。ふと、こちらに目を向ける一人の男子生徒が視界に映った。

 制服は電車内でよく見掛ける、この近隣の私立中学の物。うちとは対照的に男子校である。

 だが、当然ながらうちの学校とは交流がない。系列校という訳でもない。他に人がいないから私達を見ているのは確実だろうが、一体なぜ……。

 そこまで思考を巡らせて、はたと過去の記憶が蘇った。そのまま隣の親友を突き、男子生徒に指をさす。

「ねぇ凛子、あれって……」

「ん? あれ、司じゃない」

 おーい、と凛子は彼に向かって大きく手を振った。横断歩道の向こうの彼は、呆れたように頭を掻いた。


 横断歩道を渡ると、司と呼ばれた彼は不機嫌さを隠そうともせずに凛子を睨んだ。

「何してたんだよ姉貴、今日の放課後に駅で合流するって言い出したのはそっちだろ? 母さんの誕プレ探すって。どんだけ待たせるつもりだよ」

 しかし凛子は首を傾げる。きょとんという効果音な付きそうな表情で、眉間に皺を寄せる彼を見返す。

「え、それって明日でしょ? 今日はうちの学校あんたのとこより終わるの遅いし」

 今度は彼が呆気に取られる番だった。暫し呆然とした後、鋭い目付きを更に尖らせる。

「昨日の夜寝る前に確認したら『明日』って言ってたじゃねぇか」

「はぁ? あの時日付変わってたじゃない。自分の勘違いを私の所為にしないでくれる?」

「紛らわしいんだよ! よくそれで食い違わないと思ったな!」

「そう思ったなら、あんたこそもっとよく確認しなさいよ!」

 怒涛の応酬が始まったと思えば、一触即発の空気が流れる。睨み合う二人を前に、どう対処したらいいか分からず眺めることしかできない。

 無難に「落ち着いて……」と言いかけたところで、二人はほぼ同時に息を吐いた。

「……じゃあ、買い物はこれから行くってことでいいわね? コンビニでスイーツ奢るから、待たせちゃったのはチャラってことで」

「……ったく。一番高い奴買わせるから覚悟しとけよ。ついでにフライドチキンも付けろ。それで手を打ってやる」

「はいはい。総カロリーが恐ろしいわね」

「成長期だからいいんだよこれくらい」

 双方が面倒くさそうに言葉を交わし、張り詰めていた空気は跡形もなく消える。直前までの緊迫感はなんだったのかと思う程の変わり具合に、思考がなかなか追い付かない。凛子と二人で歩いていた時の重い空気も消えてくれたので、それは有難いけれど。

 相変わらず呆然としている私に、凛子は顔の前で手を合わせて見せた。

「ごめん詩月。駅までこの馬鹿も付いてくるけどいい?」

「おい誰が馬鹿だ」

「うん、全然いいけど……」

 頷くと、凛子はほっとしなような表情を浮かべ、不名誉な呼び名を獲得した彼は凛子を再度睨み付けた。さっきのやり取りといい、仲が良いのか悪いのか分からない。

「というか、今まで何度もチャット送っただろ。見てなかったのかよ」

「見てないわよ、そもそもうちの学校スマホ禁止だし。バレたら没収なのに、校内で出せる訳ないでしょ?」

 未だに若干の苛立ちを孕ませた物言いに、凛子は鞄に手を突っ込みながら応える。スマホを取り出そうとしているのだろう。

 だが、いつもなら一瞬で出てくるそれも、今日はなぜか顔を出さない。しばらくゴソゴソしていた後、凛子は顔を上げた。その表情は、焦燥一色。

「……スマホ、ロッカーに忘れた」

 言い終えるや否や、凛子は来た道を全力で駆け出した。

「ごめん、先に駅向かってて! すぐ追いかけるから!」

 私が返事をする前に、彼女の姿は小さくなっていた。それだけでも十分に、凛子の焦り具合が伺える。スマホを没収されたら反省文やら説教やらで面倒らしいと噂だから、当然の反応ではあるけど。

「はぁ、何やってんだか」

 横から呆れ返った声が聞こえた。私はちらりと隣を盗み見る。

 顔立ちにどことなく凛子の面影を持つ彼は、彼女の弟の羽純司だ。二歳年下の中一にして、身長は私や凛子よりも高い。過去に一度だけ会ったことがあるけれど、当時彼は私服でランドセルを背負っていた。印象が違い過ぎて、一見しただけでは分からなかった。子供の成長は早いな、と大して歳も離れていないのに妙な感慨を覚えてしまう。

 しかしこの状況、一体どうしたものか。辛うじて初対面ではないとはいえ、こういう場合何を話せば……。

 頭の中で数多の言葉がぐるぐると回る。最近の男子の流行は何なのだろうと考え始めたところで、ため息混じりの声が耳に届いた。

「……とりあえず、歩きますか」

 これ幸いと私は首を縦に振った。


「詩月さんっすよね。姉貴が世話になってるみたいで。いつもありがとうございます」

 変声期特有のハスキーな声が、私の頭上から降り注ぐ。凛子と言い合っている時とは打って変わって、丁寧な言葉遣いだった。どことなく粗暴な印象を受けていたので、少し意外だ。

 私は首を横に振る。

「そんな、私の方が凛子にお世話になってばかりだし。お礼を言うのは私の方だよ」

「そんなことねぇっすよ。あんな面倒なのと上手くやれる奴なんて、そうそういないし」

「面倒って……」

 さっきも思ったのだが、この姉弟は互いをどういう認識でいるのだろうか。我が家では絶対に有り得ない。

「司君、自分のお姉さんに向かってそれはどうかと……」

 抑えきれずにそう告げてみるも、「事実だからいいんですよ」とばっさり切り捨てられた。こういうきっぱりした所は凛子と似ている。

「あと、『君』はやめて下さい。調子狂うんで」

 呼び捨てで頼みます、と言われてしまえば頷くしかなかった。

 司は案外コミュニケーション能力が高いらしく、私が思案する間もなく話題を振ってくれる。学校での凛子の様子とか、よく話す内容とか、他愛のないことだ。

 反対に司も家での凛子のことを話してくれるのだが、必ずと言っていいほど愚痴が交ざる。というより、話の大半が愚痴である。「口煩い」と「鬱陶しい」は何回出てきたか分からない。その度に彼は眉をひそめ、吐き捨てるような口調になる。

「――んで姉貴の奴、親でもねぇのに俺の部屋掃除するとか言い出したんすよ。断ったら『どうせ自分じゃやらないんだから』ってごちゃごちゃと――」

「あははっ、凛子らしい」

「それが、これはまだ序の口なんすよ。他にも――」

 司の口からは凛子への不満がとめどなく溢れる。しかし、私が祖母に抱くような、全てを焼き尽くす勢いの嫌悪は見受けられない。不満を口にしているのに嫌ってはいない、むしろある種の信頼すら感じさせられる。

「司と凛子って仲が良いんだね」

 率直な感想を伝えれば、司は不服そうな顔をした。

「何をどう聞いてたらそんな感想が出てくるんですか」

「どうって言われても……」

 司も凛子も、日頃から思ったことをはっきりと口にしあっているらしい。それが原因で喧嘩することも多いようだが、引き摺ったり抱え込んだりせずにその場で解決する。相手のことを相当よく分かった上で信頼していなければ、とてもこうはいかない。

 相手に踏み込めず、、暗い感情だけを燻らせて、上辺だけつつがなく過ごしているのとは大違いだ。

 返す言葉が見つからずに、急に口を噤んでしまったからだろうか。司は私をじっと見ると、遠慮がちに口を開く。

「……もしかして、お姉さんと仲良くないんですか?」

「ううん、悪くは無い……筈。ただ、ちょっと羨ましくて」

「羨ましいんすか? うちが? 姉貴ならいつでもあげますよ?」

「あ、そうじゃなくて。いや、凛子がうちに来たら楽しそうだけどさ」

 ほとんどあったことも無い相手に言うべきかと悩みつつも、いい誤魔化し方も浮かばない。結局話すしかない。

「……私、司達みたいに何でもはっきり言えないからさ。お姉ちゃんも何も言って来ないし、だから時々何考えてるかも分からないし。言い合ったりはしないんだけど、二人みたいになれたらなって思っちゃって」

 私は姉のことが好きだし、尊敬している。でも、憎まれ口は叩けるのに肝心なことは口に出せない。踏み込めない。姉の心が分からない。物心ついた時から一緒にいるはずなのに、歳を重ねる毎に分からなくなっていく。


 分かり合えていることが、この上なく羨ましい。


 言い終えてから、やはり言うべきじゃなかったかもと後悔した。

 激しく反応に困る内容を、姉の親友とはいえ面識がほぼ無い相手から言われるなんてどんな気持ちだろうか。現に司は難しい表情で唸ってしまっている。余計なことを考えさせてしまったのは火を見るよりも明らかだ。

 今ならまだ辛うじて間に合うだろう。「何でもない」と告げようと口を開いた。

 が、言葉を発するのは相手の方が早かった。


「そんなの気にすることねぇっすよ」


 司の口から飛び出した言葉は、一刀両断という言葉がぴったりな切れ味だった。

「俺と姉貴だって、別にお互いのこと何でも分かってる訳じゃないですし。むしろ分からなくて言い合いになることの方が圧倒的ですもん。詩月さん達の方が絶対仲良いじゃないっすか」

「でも、お互いの中に踏み込んで行けるのはやっぱり羨ましいというか、兄弟ってそういうものなんだろうなって思ったりとか……」

「そんなの人それぞれっすよ。世界中の兄弟が皆同じ関係性だったら、却ってキモくないですか?」

 言われてみればその通りである。何となく言いくるめられたような心持ちになりながら、しかし一方では納得しつつある自分がいる。

 曖昧に返事をすると、司はぱんっと手を叩いた。

「まぁ、どうしてもって言うなら、お姉さんと話してみたらどうすか? いきなり言い合いするのはアレですけど、『何か考え込んでない?』って感じでそれとなく」

「それとなく、か……」

 自分にそんな器用なことができるだろうか。それ以前に、姉の内側に触れる勇気を持てるだろうか。胸の中で渦巻く様々な恐怖に、太刀無しで正面から打ち勝てるのだろうか。

 私の思考を見透かしたのか、司はニヤリと笑って見せた。

「いざとなったら、いつでも姉貴を派遣しますから。何とかなりますよ、一番近くで育った肉親なんすから」

 凛子そっくりの不敵な笑みは、私の心に僅かな光を灯した。

 帰ったら姉と話してみようと、自然にそう思えた。司の言った通り、何とかなるような気がした。


 ◇ ◆ ◇


 あれから約二時間後、私は湿った制服で駅にいた。しっかり払い落とした筈なのに、塩も僅かに残っている。宵闇に冷やされた風が肌を撫でてとても寒い。でもそれ以上に、心が痛い。

 結局姉とは話せなかった。話す余裕もなかった。

 そして、今後も話すことはないと思う。

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