第四話 分からない現状

「陽菜実さんが怒鳴ってた?」

 凛子の素っ頓狂な声が、人気の無い屋上に響いた。

 お弁当の唐揚げを摘みながら、私は頷く。

「姿は見てないけど、間違いなくお姉ちゃんの声だった。……あんな声、一度も聞いたことない」

「そうよね、私も想像できないし……」

 おにぎりを齧りながら、凛子も首を傾げて唸った。

 うちの学校は中高一貫であり、校舎も同じ敷地内に併設されている。一年の頃から行動を共にしている凛子は姉とも何度か顔を合わせており、その度に姉のオーラに何とも言えない顔をしていた。「あんたのお姉さんを前にすると調子狂うのよね」と零していたのも割と最近のことだ。

「『日本おっとり選手権』があったらぶっちぎりで優勝しそうなあの人が、ねぇ……」

 神妙な面持ちで、自分の手元を見詰める凛子。過去に見た姉の姿を思い返しているのだろう。昨晩の私とそっくりな行動に、重い気分が少しだけマシになった。


 昨晩太刀を片手に立ち上がった直後、何かが爆ぜるような音が家を震わせた。祖母のそれとは比較にならない程の反響音が鼓膜を震わせ、反射的に肩が跳ねた。

 あまりの衝撃に思考回路も何もかもが停止して、その音の正体に気付くのは数分経ってからだった。


 普段は温厚な姉が、怒号を放っていた。


 相手は誰なのか、一体何を怒鳴っているのか、私にはよく分からなかった。轟きを纏って耳に届くそれは明瞭さからは掛け離れていて、同じ屋根の下とはいえほとんど聞き取れなかった。辛うじて判別ついた部分も「ふざけないで」「なんであんなこと言ったの」と、言ってしまえば在り来りな文句で内容を知るには至れなかった。部屋を出て耳を澄まそうかとも考えたけれど、時折混じる机を叩く音にそんな気も霧散してしまった。


 怖かった。

 怒号が、殴打音が、何より姉の豹変ぶりが。


 一番近くで見てきた筈の私でも知らない、記憶と真逆の姉の声が、今まで見たどんなものよりも怖くて仕方がなかった。討魔師としての能力だけでなく、姉そのものがどこか遠くへ行ってしまった気がして、部屋の隅で一人震えた。

 少しでも姉と距離を詰めたくて握った太刀も、気が付けば傍らに置いて足を抱えていた。自主鍛錬する気は完全に失せてしまっていた。


「……詩月って、確か朝は陽菜実さんと一緒に登校してたわよね」

 不意に凛子の声が耳に届き、現実に引き戻された。視界には自室の壁の代わりに弁当箱が映っており、卵焼きの歪んだ渦巻きがこちらを見詰め返している。

 どこか親近感を覚えるそれを箸で摘み、口に放って頷いた。

「うん、今朝もお姉ちゃんと一緒に来た」

 最も、私からは話し掛ける気にならなかったけれど。

 姉が朝に弱いということもあって普段から話を弾ませる方ではないが、今朝は一段と無言の時間が長かった。姉が一度、お弁当を作った私に献立を聞いただけ。他は一切の無言だった。

「その時、昨日のこと何か言ってなかったの? それか、あんたの方から聞いたりとかは」

 一足先に昼食を終えたらしい凛子は、遠慮がちにこちらを見た。疑問の形を取ってはいるものの、既に答えは察しているのだろう。吊り目がちの瞳の奥で、戸惑いの色が滲んでいる。

 小さく息を吐いた後、首を左右に振って見せた。

「お姉ちゃんは何も言ってなかったし、口数が少ない以外はいつも通りだった。……私からは、とても聞けないよ」

 聞いたら最後、姉が手の届かない場所まで行ってしまう。もう二度と触れられなくなってしまう。非現実的な筈なのに、そう思えてならない。

 今朝姉があまり喋らなかったのは、私の心情を感じ取っていたのだと考えられなくもない。姉は昔から、私の気分が沈んでいる時は無理に話し掛けては来ない。話せるタイミングを見計らって、他愛のない話題を振ってくれる。そんな人だ。口数が少なかったことも、実はあまり気にしなくて良いのかもしれない。

 でも、昨日の今日でいつもと様子が変わらないというのも少し怖い。内容は定かでないとはいえ、八時間前に怒りを爆発させておきながら一切引き摺らないなんて普通は無理だ。少なくとも私にはできそうもない。寝たら憤りが収まることもあるけど、何事も無かったように振る舞うのは難易度が桁違いだ。増してや普段は一切怒りを見せない姉である。稀に弾けさせた怒りが、睡眠を挟んだのとはいえ数時間で収まるとは考え難い。

 姉はどうしてしまったのだろうか。今まで何を考えていたのだろうか。昨晩の意味ありげな言葉には、一体どんな意図が含まれていたのだろうか。

 午前中からどれだけ考えても答えは見えない。失敗した卵焼きの断面のように、歪で穴だらけで渦巻いている。

 凛子の目を見ていた筈なのに、気付けばまた地面が視界に映っていた。秋の陽射しをわざとらしい程に照り返す、人工芝の鮮やかな緑。暖かそうな見た目に反して冷たく尖った絨毯は、太腿のスカートに覆われていない部分を容赦なく突き刺す。

 痛い。冷たい。痛い。

 ふと、隣で息を飲む気配がした。

「……ねぇ、一つ良い?」

 神妙で神経質な声色だった。自然と背筋が伸びて、声の主に顔を向けていた。

「なに?」

「いや、知識がある訳でもないのに、憶測で物を言うべきではないんだろうけど……」

 凛子の目は泳いでいる。物怖じしない彼女にしては珍しい様子に、本能が警笛を鳴らす。

「……いいよ、言って」

 唾を飲み込んで促せば、凛子は再度迷いを見せた後、口を開いた。


「陽菜実さんの様子がおかしくなったのって――」


 ◇ ◆ ◇


 歓喜、至福、悲哀、激怒、煩悶。

 学生、会社員、子供、老人、親子連れ。

 多種多様な人々に抱えられた無数の感情達が、絶え間なく行き交い雑踏に紛れる。ここに来ると群衆の一部になったような気になり、入り乱れた思考も自然と収まる。だから、駅のホームは結構好きだ。

 七限までの授業を終え、委員会の仕事を片付けた下校途中。学校の最寄り駅のベンチに腰を下ろし、ホームを行き交う電車と乗降客を呆然と眺めていた。

 特に深い意味も意図も無い。頭の中を空にしたくて、秋風と喧騒に身を委ねている。ただそれだけだ。

 だから、わざわざ凛子が私に付き合う必要もないのだけれど、律儀に傍にいてくれる。彼女も暇では無いはずなのに、帰っていいと言っても首を横に振るばかり。今度おつまみのバラエティーパックでも奢らないといけないな。

「……だって、あんたが考え込んでるのは私の所為でもあるじゃない」

 何度目かのやり取りの後、彼女はチーズ鱈を齧りながら呟くようにそう言った。

「昼休みに余計なこと言わなければ、無駄に考え込ませずに済んだんだから。あんたが鬱陶しくなければ、最後まで付き合うわよ」

 ここで鬱陶しいと偽り帰らせることは簡単だった。だが、それでは彼女の厚意を踏みにじることになる気がして躊躇われた。

 強引にでも帰らせるべきか、彼女の厚意を受け取るべきか。どちらが正しいのか判別つかぬまま、時間だけが過ぎていく。

「……別に、凛子の所為じゃないのに」

 今の私に言える精一杯の言葉はこれだけだった。もう何回言ったかも分からない。

 こういう時にも何か気の利いた事を言えたらいいのに。それこそ、姉みたいに。

 結局のところ、姉だけでなく凛子にも甘えてしまっているのだと思う。自分では何もできない癖に、傍で優しくしてくれる人に寄りかかって、罪悪感を口実にして。どうして私はこうなんだろう。どうして姉や凛子のようになれないのだろう。

 せっかく空になりつつあった頭が、再び感情で溢れかえる。直前までの混乱も相まって、頭部がずしりと重くなる。

 その時、ぺしっと私の頭を叩かれた。

「はい、糖分補給」

 いつの間に取り出していたのか、凛子の手には個包装されたクッキーがあった。頭に当たったのもこれらしい。押し付けられる形で受け取ったそれは、私が一番好きなメーカーの物だった。

「わざわざいいのに……。二枚入りだし、凛子も一枚どう?」

「私が甘い物好きじゃないって知ってるでしょ? 弟に箱ごと押し付けられて困ってるのよ。遠慮しないで食べなさい」

 有無を言わさぬ口調だった。

 弟に押し付けられたというのは恐らく嘘だ。五限と六限の間の休み時間に彼女が購買に行っていたことを知っている。きっと、私の為にわざわざ買ってきてくれたのだろう。申し訳ないと思いつつも、厚意を無駄にはしたくないのと純粋に嬉しいので頂くことにする。

 普段の性格は全然違うけど、こういう所は姉とよく似ている。調子が狂うと凛子は言っていたが、案外相性が良いのかもしれない。

 さくさくと軽やかな食感に導かれるように、自然と姉の姿が脳裏に浮かぶ。穏やかな笑みを浮かべる姿に一瞬心が安らぐも、包帯を巻かれた右腕が映り込んで気分は重くなった。追撃と言わんばかりに蘇る、昨晩の姉の怒鳴り声。ベンチの冷たさが、今頃になって身に染みる。


『陽菜実さんの様子がおかしくなったのって、怨霊に侵蝕された所為だったりしないかしら。腕だけじゃなくて、精神にまで悪影響を及ぼされてたりとか……』


 思考の端から引き摺り出されるようにして、数時間前の凛子の言葉も鮮明に蘇った。考えもしなかった懸念に、私の内側で何かが締め付けられた。

 呼吸が苦しくなって、汗が滲んで、肌に触れる空気がやけに冷たくなった。

 確かに怨霊は人間の精神にも影響を与えることがある。しかしそれは長時間相手に憑依して生気を吸い取った場合であり、今回のような侵蝕では発生しない筈た。それも短時間で。少なくとも、私はそうやって教わってきた。

 だが、私に教えを施したのは誰だったか。姉や両親から討魔について教わることもあったが、主な教育役を担っていたのは――。


 『日々の鍛錬は、怨霊の呪いや憑依への抵抗力を高める意味もあるじゃない? だから、生身で戦っても他の人達よりは危険が少なくて済むの』

『何それ、初耳なんだけど』

『そう? おばあちゃんから聞かなかった?』

『聞いてない』

『そっかぁ。じゃあ今知れたってことで!』


 ――祖母だ。

 意図は不明だしそれ自体あるかも怪しいけど、討魔に関して姉だけが知っている情報というものは幾つかあるらしい。祖母が姉を気に入っているのは明白だが、流石に教育に差を付けるのはどうかと思う。その不満を姉にぶつけたら「知らない方がいいこともあったりするからね」とよく分からない返答があったが、それはともかく。

 怨霊がもたらす被害は、私が認知しているもの以外にもあってもおかしくないということだ。それこそ、凛子が立てた仮説のようなものも。そしてもしこれが正しかったとすれば、姉のことは私が変えてしまったということになる。


 ――お願い、私をこれ以上変えさせないで。


 昨晩の姉の言葉は、そういう意味だったのだろうか。いつかこうなると分かっていて、あえて私に教えないでおいたのだろうか。

「でも、それならそれ相応の処置をしそうだけど……。私自身が侵蝕されないとも限らない訳だし、自衛のためにも教えておいてくれそうな気が……」

 頭の中で考えるには限界が来て、無意識のうちに言葉に出していた。自分の声を自分で聞いてはっとする。隣を見ると、凛子がクッキーをもう一袋差し出していた。

「考え事するにはエネルギーがいるでしょ? ほら、食べた食べた」

「……ごめん、ありがとう」

「気にしなくて良いわよ。消費してくれた方が私としても助かるから」

 再度お礼を言って受け取ると、凛子はふっと笑みを浮かべて頷いた。

 頭を空にする為にここに座っている筈なのに、思考は勝手に展開される。目的は達成できなさそうだ、と口の中の甘みを味わう。

 優しくほどける素朴な味と、視界に映る雑然とした景色。変わらない美味しさとは対照的に、空は徐々に宵に染まる。地平線付近はまだ赤みが残っているものの、大部分はもう暗い。

 そろそろ帰らないと夕飯に間に合わなくなる。その後は昨日の説教の続きを食らう羽目になるのだろうが、帰宅時間についても追加で怒鳴られては耐えられない。帰りたくないけど、帰るしかない。

 食べ終えたお菓子の袋を仕舞い、立ち上がりつつ隣に目を向ける。

「付き合わせてごめんね、そろそろ帰――」

「待って」

 食い気味に、想像と真逆の言葉が返ってきた。

 凛子は眉をひそめ、じっと自分の手元を見つめている。何かを考え込むように。あるいは、何かを感じ取ろうとしているかのように。

「凛子?」

 どうかした? そう尋ねようとした矢先、彼女はすっと立ち上がった。

「詩月、悪いけど今太刀出せる?」

「へっ? 太刀?」

 突拍子の無さすぎる発言に、思わずオウム返ししてしまう。凛子はこちらを見ないままで頷く。

「討魔用の太刀、常に持ってるって言ってたわよね?」

「え、うん。そりゃあるけど……」

 討魔師という御役目を担う以上、いつどこで怨霊と対峙しても困らぬように武器は持ち歩くことになっている。銃刀法でも例外的な扱いを受けており、仮に使用しているところを見られても問題は無い。学校に持ち込む際は竹刀袋に鞘ごと入れている。

 当然今も私の肩に提げてあるのだが、なぜ急に。首を傾げていると、凛子は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「……勘なんだけど、あと十分もしないうちに嫌な物が出る気がする。多分、怨霊」

「なっ!」

 言葉が出てこなかった。弾かれるように竹刀袋を下ろして太刀を掴む。抜刀しようと柄に手を掛けたところで我に返った。

「……凛子の勘を疑う訳じゃないけど、どうして怨霊って分かるの? もしかして、見た事あったりする?」

 私の知る限りでは、彼女の勘は百発百中だ。だから咄嗟に刀を取ってしまった訳だが、一般家庭で育った凛子が怨霊を見る機会なんてそうそう無い筈だ。一般人が目撃する前に彼等を滅することこそが、私達討魔師の御役目なのだから。

 そんな彼女が『嫌な物』の正体を怨霊と断定できるのが不思議だった。

 私の問いに、凛子は首を横に振る。

「無いわ。私にもよく分からないのよ。間近で見たことも無い筈なのに、なぜか怨霊だって分かるの。おかしなこと言ってる自覚はあるんだけど……」

「……分かった」

 凛子は軽率に嘘を吐くようなタイプじゃない。なら、どれだけあやふやな根拠でも信じる以外の選択肢は無い。彼女の勘が外れていたらむしろラッキーだ。

 討魔師になって初めての、私一人での怨霊退治。まだ陽は出ているから敵の霊力は差程強くない筈。護符は持っていないけど相手の動きは鈍いだろうし、幸い周囲からは人がはけている。大丈夫、十分に戦える。


 ――覚悟を決めろ。相手がどんな容姿でどんな声を発したとしても、絶対に怯むな。ここでしくじったら凛子が危険に晒される。大っ嫌いだけど、斬りたくないけど、できることなら放棄してこの場を去りたいけど。負けるな、私。


 胸いっぱいに息を吸い、内側で疼く全ての感情を吐き出した。震える手で太刀を抜き放ち、刀身に写る自分を睨む。

「凛子、敵がどこに出るか分かる?」

「何となくだけど、あそこが怪しい気がするわ」

 凛子が指さしたのはホームの端だった。ちょうど柱の影になっていて、向こう側の様子が見えない。

 凛子の勘が正しいとすれば、十分以内に敵があの向こうに出現するのだろう。駅付近に住宅街があるから、そのどこかから移動してくるに違いない。ならば、ホームの端に張り込んでおくのが得策だ。

「いつ敵が来ても良いように、私はあそこで待機してる。凛子はできるだけ離れてて。それから、私の方に人が来そうだったら引き止めてほしい」

「了解。他の荷物はこっちで預かるわ。絶対、無事に戻って来なさいよ」

 頼れる親友と目線を交わし合い、私は再度深呼吸をする。そして、一歩、また一歩と歩みを進める。

 無限にも感じられるホームを進み、角を曲がる。凛子が勘で怨霊出現を予言したその場所が、視界いっぱいに映り込む。


 そこにいた人影を認識した時、私の思考は遥か彼方まで消し飛んだ。

 その人は私を視認すると、にこりと力無く微笑んだ。

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