第三話 斬り捨てたい家柄 (後半)

「……お姉ちゃん」

 目線だけを声のした方に向けると、気遣わしげな表情で立ち尽くす姉の姿があった。部屋着の袖から覗く右腕には包帯が巻かれており、その包帯には祝詞がびっしりと書き込まれている。怨霊の霊力に触れ、その身を蝕まれた証拠。私の情けなさの具現化であり、姉の強さの証でもある。

 胸を締め付けられるような感覚に襲われ、息が詰まった。

「もう部屋を出て大丈夫なの? 一晩は安静にしてろって……」

 乱れつつある呼吸をどうにか押し殺しながら、言葉を紡ぎ出す。姉は柔らかく笑みを浮かべると、包帯が巻かれていない方の手をひらひらと振って見せた。

「大丈夫だよ。大した怪我でもないし、痛みも無いし。それに、こうして下手を打つのも初めてじゃないしね」

 昔は散々やらかしたよ、と事も無げに言う彼女は、私の目にはどこか弱々しく映った。むしろ当然だ。怨霊の霊力に蝕まれた人間は酷い倦怠感に襲われ、負傷箇所は最悪の場合機能を失う。日頃から鍛錬を詰んでいる討魔師が今回のように専門の処置を受けても、しばらくはまともに動かせないそうだ。隠しているつもりなのだろうが、右腕に力がほとんど入ってないことは一目で分かる。


 数時間前の戦闘中、竦んで動けなくなった私を姉が身を呈して庇ってくれた。今日こそ敵を討ち取ろうと刀を振った矢先のことだった。

 怨霊が、言葉を発したのだ。よく聞くような呻き声ではなく、明瞭な日本語を。振り被った太刀ごと硬直し、頭の中が真っ白になった。

 護符の拘束を破った敵が私への憑依を試み、間一髪で助け出された直後に姉は右腕を蝕まれた。憑依は人間で言うところの「食事」であるのに対し、霊力での侵蝕は純粋な「攻撃」だ。物理攻撃をしてこない彼等の、呪いに並ぶ厄介な攻撃手段。

 例え憑依されたとしても討伐はさして難しくない。才がないとて鍛錬は詰んでいる以上、私にもそれなりに耐性はあるはずだ。私があのまま憑依されていれば、姉は負傷せずに済んだのに。あるいは、敵が拘束を破るよりも先に私が討ち取れていれば。想定外の事態が起こったとはいえ、竦まずにいられたなら。

 後悔も罪悪感も自己嫌悪も収まることを知らない。口だけの祖母はともかく、我が身を顧みずに助けてくれた姉を前にしてつっけんどんとしていられる程図太くない。何より、自分で自分を許せない。

 できることなら姉に罵倒して欲しかった。祖母ではなく姉本人に、私の失敗を怒鳴り散らして貰いたかった。それなら私も素直に聞き入れられるし、この御役目をこれ以上嫌いにならずに済む気がする。

 なのに、姉は私の思考の真逆を行く。黙りこくった私を覗き込むように、遠慮がちな目で私を見る。

「……詩月こそ大丈夫? おばあちゃんになんて言われたの? あんなに怒鳴るなんて、いくらなんでも……」

 黒に染まった視界の中央でこちらを見詰める二つの瞳は、そこだけが光を纏って輝いている。優しい筈の煌めきが、胸に刺さってじわじわと痛みを増す。

 祖母の怒号も罵倒も取るに足らない。不快感苛立ちその他を覚えるものの、少しも苦しいとは感じない。

 でも、これは駄目だ。不出来な私に惜しみない優しさを与えてくれる姉の存在が、無数の感情を揺さぶって混ぜて決壊させる。


 ――だから、今は会いたくなかったのに。お姉ちゃんには、特に。


「お姉ちゃん、私……」

 濁流のように乱れる感情の中で、一つの言葉が顔を出した。今度こそは声にしなければと息を吐いた。しかし声帯は震えず言葉が詰まるばかりで、ぱくぱくと口を動かすことしかできない。

 そんな最中、視界が塞がれ全身が温かいものに包まれた。

「詩月は何も悪くないよ。今回は運が悪かっただけ。だから、そんな顔しないで」

 柔らかい声と規則正しい呼吸音が、私の聴覚を埋め尽くす。出掛かっていた言葉も温もりに溶け、背に回された手に掻き消される。

 姉を見ていると、劣等感や焦燥感、罪悪感で苦しくなる。なぜこの家のしきたりを嫌わないのかと苛立ちもする。討魔師として技術面も精神面も優秀なことが憎らしく思うことも多々ある。自己犠牲の精神を気味悪く思ったのも一度や二度ではない。


 それでも、やっぱり、私は姉のことが好きだし尊敬している。


 ◇ ◆ ◇


 私の部屋に移動し、問われるままに祖母とのやり取りの詳細を話した。祖母は何度も同じ話をするということもあり、思い出すのも一言一句違わずに話すのも容易だった。腹立たしいことに、祖母の発言は私の脳に染み付いてしまっている。

 相槌を打っていた姉は、私が全て話終えると重苦しい息を吐いた。

「……そっか」

 いつになく重い表情に、何かまずいことを言ってしまったかと腹に冷たいものを感じる。

 いや、まずいと言えば全てがまずいのだ。事の元凶は私が敵に隙を見せたことだし、姉にしてみれば祖母の言い分が正しいと感じる部分もきっとあるだろう。それに、私が最後に言い捨てたことも最悪だ。祖母や母が何を思おうが知ったことではないが、姉のことまで傷付けてしまったに違いない。ここだけでも言わないでおけばよかったと後悔するも、時既に遅し。言ってしまったことは消せないし、そうでなくても私の内心は見透かされてしまっていただろう。

 静寂が流れる。階下からは祖母と母の話し声が聞こえるが、何を言っているのかは分からない。大方私のことを話し合っているのだろう。明日は説教コースその二かな、なんて現実逃避じみたことを考える。話の内容はどうでもいいけど、大嫌いな祖母の声がするというだけで気分が悪くて仕方が無い。節足動物が脳内で蠢くような、えも言えぬ不快感が私を飲み込む。

 気まずさすら感じる静寂と、その中で唯一耳に届く祖母の声。どちらも今の私には猛毒で、耐え切れなくて耳を塞いだ。

 そんな私を見て姉は何を思ったのだろうか。隣に腰を下ろしていた彼女は徐に立ち上がり、私の頭に軽く手を置いた。

 顔を上げると、姉は目を合わせてにこりと笑む。

「おばあちゃんに言われたことは気にしないで。一番近くで見てる私は詩月のことを恥知らずだなんて思わないし、むしろ凄く一生懸命だなって思ってるから。それに、あのおばあちゃんに啖呵切ってくれて少しすっきりしちゃった」

 ありがとうね、と頬を緩める姿からは、祖母が見せるような怒りも呆れもまるで感じられなかった。十数分前に廊下で会った時と同じ、温もりと灯りを纏った表情。

 私が御役目でどんな失敗をしても、姉は必ずこの表情を向けてくれる。私を包み込んでくれる。その都度罪悪感と劣等感の狭間で安堵し甘えてしまうけれど、そもそもなぜ姉はこんなにも優しくしてくれるのか。私は何も返せていないのに、どうして私を罵倒しないのか。祖母よりも誰よりも、姉が一番怒って当然なのに。

「……ねぇ、お姉ちゃんはどうして……」

 どうしてそんなに優しいの。そう聞こうとして、辞めた。きっとまともな答えは返ってこないし、答えが欲しい訳でもない。ただ、もどかしいのだ。私が重ね続ける失敗を、姉に罰して貰えないことが。ようは、私が楽になってしまいたいだけなのだ。

 怨霊退治もこの家のしきたりも嫌いだけれど、罰して貰えないのならせめて姉の役に立てるようになれればいいのに。これ以上姉の足を引っ張って、負の感情に苛まれて、それでも結局甘えて終わるなんて連鎖は断ち切りたいのに。願うことだけは一人前の癖して何もできない。そんな自分が、情けなくて嫌いだ。

 私の内心をどこまで読み取ったのかは分からない。姉は私の背に腕を回すと、再度抱擁した。


「――詩月はそのままでいいの。今の詩月のまま、人間らしく生きてくれれば私も凄く嬉しいの。無理に変わろうとしなくて良いんだからね」


 詩月は、詩月のままでいて。


 お願い、これ以上私を変えさせないで。


「……あの、お姉ちゃん?」

 姉の温もりを肌で感じているうちに、いつの間にか頭がぼんやりしていた。夢の中を揺蕩うような心地で姉の言葉に耳を傾け、ふと違和感を覚える。言葉にするのは難しいけれど、強いて言うなら。


 ――今私を抱き締めている人が、全然知らない人であるような感覚。


 呆然と温もりに身を委ねていると、ふわりと体から重みが消えた。私から身を離した姉は、再びにこりと微笑んだ後部屋を出て行った。去り際に「おやすみ」とだけ残して、いつも通りの表情で。

「……なんだったんだろう」

 姉が階段を降りていく音を聞き終えてから、ぽつりとそう零していた。

 直前まで話していた相手は間違いなく姉である。私が一番よく知っていて、また私のことを一番よく知っているであろう存在である。数秒前に感じた不思議な感覚も、ただの錯覚であることは間違いない。

 だが、一度覚えた違和感は私の中にしっかりと根を下ろしている。よく知っている筈の姉に見出した、全く知らない一面が。

 今思えば、祖母に啖呵を切ったことを「すっきりした」って言ってたのも、『いい子』な姉らしくないというか……。

「……考えても仕方ないか」

 頭の中で渦巻く物を追い出すつもりで、息を大きく吐き出した。今回も言えなかった「ごめん」の一言が姿を現したけれど、意識の端に追いやった。

 放棄した思考と言葉の代わりに、私は太刀を握り締める。そして、息を吸う。

 この家も怨霊退治も大嫌いだけれど、これ以上姉に迷惑を掛けたくない。祖母の思う壺な気がして癪だけれど、せめて隙を作らないで済むくらいには強くならないと。

 鞘から僅かに覗く刀身には、私の顔が反射している。刃の向こうの自分を睨んで、意志を込めて立ち上がった。


 直後、聞いたことの無い轟音が私の耳を貫いた。

 それは階下から発せられたようだった。

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