あの子は姉の夢中

飾里けい

第1話

 楓がまた「あの子」の話をしている。今月に入ってもう三回目だ。

 なんでも今度は二人で水族館に遊びに行ったらしい。ちなみにその前は映画館、さらにその前には遊園地に行った話をされた。

 葵は楓の話を聞くのが好きだったが、「あの子」の話だけは別だった。他の話と違い、それは心が躍るような魅力的な物語ではなく、姉のありきたりな惚気話だからだ。はっきり言ってつまらない。どうでもいいことを詳細に語られても煩わしいだけだ。

 何より、「あの子」について話している時の楓のこの上なく気持ち良さそうな表情が葵には気に入らなかった。

 それでも、葵は最後まで辛抱強く楓の言葉を受け止め続ける。その後に待っているご褒美のために。

 そして、三十分ほど話し続けた後、ようやく葵の健気な努力が報われる。

 楓の細くしなやかな指が葵の頬に触れる。指先から伝わる熱が何もかも曖昧にして溶かしていく。この行為の意味も、名前も、自分が誰なのかも全部。

「葵、今日も私に付き合ってね」

 楓が耳元で囁く。それが合図になる。

 葵は全てを差し出して楓を受け入れる。ゆっくりと毒が回るように、名前のない幸福は彼女の中を満たしていった。 


 目の端で光が走る。そちらに目を向けると同時、雷鳴が冬の空に響いた。

 窓の外を眺めていると意識が少しずつ現実に引き戻されていく。

 篠原葵は放課後の図書室にいた。受験期の図書室には当然多くの受験生がおり、外の寒さなど寄せ付けないような熱の入れようで勉学に励んでいる。一方、葵の目の前にあるノートは一時間前と同じ純潔を保っている。

 葵はまだ二年生だが、いつもならもう少し真剣に勉強していた。することが特に無いから。なのに、今日はろくに集中できず、手を止めて昔のことを思い出してしまった。理由は分かっている。これから苦手な人物と会う予定があるのだ。憂鬱この上ない。

 手元の携帯で時刻を見ると約束の時間まで二十分になっていた。待ち合わせ場所はこの高校の最寄り駅の前だから余裕で間に合うだろう。けれど、万が一にも相手の方が先に着いていて自分を待っている状況は避けたい。今日の会話の主導権はこちらが握りたい。どれだけ些細な事でも相手に弱みを見せたくなかった。

 机の上の私物を鞄にしまい、席を立った。

 図書室を出ようとしたとき、図書局員の女子に話しかけられた。確か同じクラスだったと思うが、名前は覚えていない。

「今日だよね、芥澤賞の発表! お姉さん受賞できるといいね!」

「ああ……そうだね、本当に」

「うん! 私も応援してるよ!」

 今更何を応援するのだろうと思いながらも一応礼を言ってからその場を離れた。

 図書室の入口前の棚には芥澤賞の候補作が並べられている。その中には秋傘茜の著書もあったが、葵の目には留まらなかった。


 葵の姉である篠原楓が秋傘茜のペンネームで小説家としてデビューしたのは今から三年ほど前、楓が高校一年生の秋だった。二歳下の葵はまだ中学生だった。

 楓は高校時代、文芸部に所属していた。そこで書いていた小説がある新人賞で優秀賞を取ったのだ。

 その新人賞では最年少記録だったので、楓は、秋傘茜は一気に注目の的になった。読書家の間では勿論、校内でも有名人となり、多くの人が茜の本を手に取った。評判は上々だった。瞬く間に茜は人気作家となり、高校在学中に三冊の単行本を出した。素晴らしい才能だと世間は褒め称えた。

 でも、葵はもっと前から楓の才能を知っている。

 二人がまだ幼い頃から楓は葵にいろんな話をしてくれた。時にはその美しい声で語られ、時には端正な字で紡がられる物語はただ、葵のためのものだった。次のお話を早くとせがむ自分に対して向ける楓の困ったような笑顔が葵は大好きだった。

 だから、葵が初めてその話を聞いた時も、楓の新しい物語なのだと思っていた。

「好きな人ができたの。……私、夢の中で会った女の子を好きになっちゃったの」

葵が中学生になったばかりのある春の夜、楓の部屋に呼ばれた葵は突然そう告白された。

「今日のお話はお姉ちゃんが主人公なの?」

「ううん、違う。本当の話。嘘みたいだけどね」

 楓がこれまで自分を主人公にして物語を作ったことは無かった。葵が主人公の物語ならたくさんあったけれど。だから妙だとは思ったものの、本当だという方がもっと妙な話だ。

 しかし、黒々とした大きな瞳は真っ直ぐに葵を見つめている。嘘ではないらしい。それが分かると、葵の胸は騒ついた。

「それは、好きな人が夢に出てきたとか?」

「それも違う。私は現実で『あの子』に会ったことなんてない、と思う」

「思うって……なんか曖昧な感じ」

「実は顔をはっきり覚えてなくて……」

「顔も覚えてないのに好きなの?」

「馬鹿みたいだよね。でも、『あの子』が離れないの。夢から醒めても、ずっと『あの子』のことばっかり考えてる」

「それは確かに恋、なのかな?」

「恋だよー。今までこんなこと一度も無かったのに。なんでだろう、おかしくなっちゃったのかなぁ」

 確かに楓の様子は朝からおかしかった。葵や家族がおはようと言っても反応が薄かったし、一緒に登校する時もどこかぼーっとしていた。下校する時もいつもならその日にあったことを話してくれるのに、黙って歩いていた。夕食の時に母から「好きな人でもできた?」と聞かれて「そんなんじゃないよ」と答えていたのも嘘だったらしい。

「でも、なんでその話を私にするの?」

「一人で考えてたら苦しくて、誰かに聞いてもらいたかったの。変な話だけど、葵ならちゃんと聞いてくれそうだし」

「いや、流石に困惑してるけどね。それで、どんな夢だったの」

「………………それは秘密」

「本当になんで私を呼んだの?」

 楓は頬を染めて恥ずかしそうに目を逸らした。どうやら内容は詳細に覚えていたらしい。好きな人とちょっと良いことがあった時の模範のような反応に葵はイライラした。

「ううぅ、変なお姉ちゃんでごめんね」

「別に……って、なにも涙目にならなくても」

「でも、葵と話してたら落ち着いてきた。付き合ってくれてありがとう。きっと、ぐっすり寝て新しい夢を見たら忘れられると思うから安心して」

 楓の言葉は事実だった。次の日には楓はすっかり元に戻っていた。「夢で会った女の子に一日だけ恋をするなんて、なんか素敵だよね」とからから笑っていた。素敵だとは特に思わなかったが、いつもの姉が戻ってきたことに安堵したので葵も合わせて笑った。それをモデルにして新しい物語を作って欲しいと葵が言うと楓は快諾した。

 葵が楓にお願いをしたのは「あの子」の物語が読みたかったからではない。「あの子」を物語の中だけに閉じ込めてしまうためだった。 

 しかし、葵のお願いは未だ叶えられていない。

 楓が再び「あの子」の夢を見たのはそれから一週間後のことだった。


 約束の時間より十五分も前に葵は待ち合わせ場所に着いたが、既に宮本椿が待っていた。

 高そうな白いコートは駅前の人混みの中で淡い光を放っているように見える。それほどにあの待ち人は綺麗なのだ。服がいいのか、それとも着ている本人がいいのかは判断が難しい。今から彼女の横に行くのかと思うと気遅れした。

「久しぶりだね、葵ちゃん」

「はい、ご無沙汰しています。お待たせしてすいません」

「全然いいよ、気にしないで。こっちが早く来すぎただけだから」

 本当だよと葵は内心で毒突く。大学生はそんなに暇なのだろうか。それとも、やはり椿も葵より優位に立っていたいのだろうか。どちらでもいい。問いに意味などない。どちらでも葵は腹が立つから。

 宮本椿は楓の交際相手だ。二人は高校一年生の時に文芸部で出会い、すぐに意気投合した。そして、その年の秋に行われた学校祭を機に付き合いだした。何度か家にも来ていたので葵も面識はあるが、話したことはほとんどない。

 椿が突然葵に連絡してきたのは昨夜のことだ。久しぶりに会って、二人で芥澤賞発表まで待ち会をして、楓のことでも話そうと提案してきた。待ち会はその名の通り作家が賞の発表を編集者たちと共に待つ会のことである。なぜ、作家の妹と彼女が二人でやるのか。そもそも、楓と一緒にいればいいではないかと葵は尋ねたが、椿は「来てくれたら分かるよ」とだけ言ってさっさと電話を切ってしまった。

 葵は椿に対して複雑な感情を抱いている。できれば会いたくないし、話したくもない。先輩後輩ではあっても親しくもないのだからドタキャンしても良かったかもしれない。それでも、姉の彼女を無視できないのはなぜだろう。

 二人は歩いてすぐ近くの喫茶店に移動した。駅前には他にファミレスもあり、そちらの方がコスパも良く学校の生徒には人気だ。しかし、その分騒がしく、落ち着いて話すことはできない。一方、この店は内装もお洒落で雰囲気も落ち着いている。客層も高校生よりは高めで上品なので、ゆっくりと話すにはちょうどいい。

 その筈なのだが、今は客の数が葵の予想よりも多く、あまり長居できそうになかった。

 席につくと椿は早速コーヒーとチーズケーキを注文した。葵はコーヒーだけを頼んだ。椿には「ここのケーキ美味しいんだよ」と言われたが、そんなことは知っている。以前にも一度だけ楓と来たことがあるからだ。


 初めて楓が「あの子」の夢を見た日から二週間ほど経った頃、葵は再び相談を受けた。

「あれから三回も『あの子』の夢を見てるの。しかも、どんどん夢を見る間隔が短くなってる」

 毎日ちゃんと寝ているはずなのに、楓は寝不足のようになっていた。明らかに頭が働いていなかったし、動きも不安定だった。

「それでね、このままじゃいけないと思うから……葵にお願いがあって」

「うん、なに?」

「葵に『あの子』の代わりになってほしいの」

「……え?」

 言っている意味が分からない。

「ずっと『あの子』のことばかり考えて、悶々として仕方ないから……。だから、『あの子』としたいこと全部、葵にしてもいいかな?」

「ちょっと待ってよお姉ちゃん、それって私に『あの子』のふりをして欲しいってこと?お姉ちゃんは私のことを『あの子』だと思って、その、恋人みたいに」

「うん……そう、したい」

 あり得ないというのが葵の正直な感想だった。葵は確かに楓の妹としてここにいるのに顔も名前も分からない、そもそも実在しない少女になれと言うのか?そして実の姉と恋人ごっこするのか?そんなの、何もかも狂っている。もしも他人に同じお願いをしたら確実に引かれるだろう。実の妹でもかなり引いていた。

「あ、でも、いつもじゃなくて良くて。たまにでいいから。私がどうしても我慢できなくなった時だけ……私に付き合って欲しい」

「……………………」

 この時、きっぱりと断れば良かったのだと葵は今でも後悔している。楓の願いを拒絶し、夢を否定し、そんなものに囚われないでと告げる。それだけで二人は普通の姉妹でいられた。疑いようのない正しい行動だ。なのに。

「……いいよ。たまにならね。もしもお姉ちゃんが欲望持て余して他の人に迷惑かけたら私も困るし」

 葵はこの荒唐無稽なお話を受け入れてしまった。夢の中の女の子に恋をする。我慢できないから妹で発散する。頭のおかしい姉と世界で一番都合のいい妹の擬似カップルの誕生だ。

「本当っ⁉︎ ありがとう葵! 大好きよ!」

 ぱあっと表情を明るくした楓が葵を押し倒しながら抱きついてきた。重い。これほどまでに楓の重さを感じたのは葵にとって初めてだった。

 どうして楓を突き放すことができなかったのかは当時の葵自身にも分からなかった。楓に言った言葉は嘘で、他人への迷惑などはどうでも良かった。ただ、なんとなく受け入れてしまったとしか言えない。

 でも、今なら別の答えを見つけられる。あれは惚れた弱みと呼ばれるものだろう。

 それから、楓と葵の関係は姉妹から恋人に変わっていった。

 最初は三日に一回、夜にハグをする程度だった。それが二日に一回になり、毎日になり、朝と夜の一日二回になるまで一ヶ月とかからなかった。

 この頃になると楓は毎日「あの子」の夢を見るようになっていた。楓はその日見た夢の内容を葵に話す。最初は困惑しながら恥ずかしそうに話していたのに、次第に嬉しそうに楽しそうに話すようになった。さながら、本当に「あの子」と付き合っているかのように。そして、それは葵を「あの子」にするための儀式でもあった。

 葵が「あの子」でいる時間は日に日に長くなっていく。恋人でいる時の楓は葵の名前を呼ばなかった。「あの子」の名前も分からないから、名前のない恋人になる。自分がただ姉を慰めるための道具になっていることには気付いていたが、それでも不思議と嫌ではなかった。

 やがて、楓はより具体的な行動を求めるようになった。葵を外に連れ出して恋人ごっこに興じる様は狂気そのものだったが、周囲からは仲の良い姉妹にしか見えないから余計に質が悪い。指を絡めて手を繋いで歩き、夢をなぞる楓と様々な場所に行った。その中の一つがこの喫茶店だった。

  あの時、楓と葵もコーヒーとチーズケーキを食べた。楓が満面の笑みを浮かべていた場所に今は楓の元カノが座っている。


「いやー本当に久しぶりだね。卒業式以来?」

「はい。そもそも、あまり交流ないですけどね」

「確かにね。楓の家に行っても葵ちゃんとはほとんど話さなかったし」

 楓と付き合いだしてからは週に一回ほど椿は家に遊びに来ていた。この頃から、葵はよく勉強するようになった。中学の時は図書室の閉館時間が早かったから、部屋に篭って一人で時間を潰し、出来るだけ楓と椿を避けていた。

「これからはたまにでも会おうか」

「遠慮しておきます。お互い、暇じゃないでしょう?」

「私は暇だよ、大学生だし。あと、独り身だし」

「はい?」

 今、姉の彼女はなんと言ったのか。

「あっ、今のは冗談で笑うところなんだけど。そこそこ忙しいし」

 どこからが冗談だったのだろう。大学生が暇だというところだけなのか、たまに会おうという誘いそのものか。それとも、最後の部分だろうか?

 葵には昨日の話を聞いてからずっと考えていたことがある。椿が葵を呼び出した理由だ。楓が待ち会に椿を呼ばないこと自体は考えられる。あくまで小説家、秋傘茜の関係者だけで結果を待ちたいということはあるだろう。しかし、それは椿が葵と一緒に待ちたい理由にはならない。椿は「来てくれたら分かる」と言った以上、なにか明確な理由があるはずだ。

「椿さん、今のどこまで冗談ですか?独り身っていうのは本当じゃないんですか。」

 葵は椿の目を見て、にこやかに笑いかけた。対する椿は動揺せず、ふっと微笑んでコーヒーに口をつけた。大人の余裕を見せつけられているみたいで腹が立つ。

「ああ、分かっちゃった? 私の口から発表したかったんだけど」

 実にわざとらしい言い回しだった。

「なんとなくそうじゃないかと」

 葵の予想は的中した。どうして別れたのか、別れたことを伝える意図が何かは分からない。しかし、葵と椿の接点など楓しかないのだから、楓の大事な日に楓抜きで仲の悪い葵と会って伝えることなどこれぐらいしか思いつかない。

 椿は窓の外を眺めながらしばらくコーヒーを飲んでいた。今日はこの冬一番の寒気が街を包んでいるらしい。今降っている雨も、夜遅くには雪に変わるだろう。

 飲み終えたコーヒーを置き、楓は真剣な顔で葵に問いかけた。

「葵ちゃんはさ、私のこと嫌いだよね」

「さぁ、どうでしょう」

 はぐらかして、葵は残り僅かのコーヒーに口をつけた。椿の指摘は正しい。椿は葵から楓を奪った。好きな訳がない。

 高校に入学してから、楓は葵を避けるようになった。最早習慣となっていた毎晩の夢物語も恋人ごっこも無くなった。

 葵は楓が遠慮でもしているのかと思い、自ら「今日はどんな夢を見たの? どんなことをすればいい?」と聞くこともあった。しかし、楓は葵に「あの子」を求めない。葵であること、ただの妹であることを求める。

「『あの子』のことはいいの。気にしないで」

 なぜいいのか理由を聞いても楓は答えなかった。

 こうなると困るのは葵の方だった。ずっと、楓の要求に答えてきた。一年近くも葵は「あの子」だった。今更、気にしないでなんて言われても困る。だって、葵はもう楓に恋をしていた。

 抱き合った。指を絡めて手を繋いだ。何度も二人で出かけた。姉妹としてではなく恋人として。葵が見たことのない楓の笑顔を「あの子」としてたくさん見てきた。それに、キスだってした。初めてだった。あの夏祭りの喧騒も花火の音も全部閉じ込めた熱気を未だに葵の唇は帯びている。

 もうただの姉妹になんて戻れるはずがない。

 一度狂ってしまった関係を今更元に戻すことはできず、楓と葵はろくに話すこともなくなった。楓は家に帰るとすぐに自室に篭り、葵を受け入れることはなかった。

 半年後、楓は葵を部屋に呼んだ。また自分を求めてくれるのではないかという葵の期待は裏切られた。

「彼女ができたの」

 あの日以来、楓と葵は目を合わせていない。

 許せないのは身勝手な姉だ。葵の気持ちを知ろうともせず、勝手に利用するだけ利用して、最後は責任も取らずに捨てたのだから。一方、椿は別に悪いことは何もしていない。普通に恋をして告白して正当に交際していただけだ。でも、好きな人を奪われて、嫉妬しない人などいるだろうか?

「否定はしないんだね」

 椿は少し残念そうに呟いた。

「そんなことより、どうして姉と別れたことをわざわざ私を呼び出してまで伝えようと思ったんですか? あなた達がどうしようと私には元々一切関係のないことなのですが」

「そんなことないよ。私と楓が別れた理由には葵ちゃんが関係しているもの。いいえ、葵ちゃんの存在自体が理由」

「私のせいで別れたって言うんですか?」

「そう。あなたのせい。ああ、でも勘違いしないでね。責めてる訳じゃないから」

 椿は悪戯っぽく笑っている。その笑顔が本物なのか、なにかを誤魔化すための仮面なのか葵には判別することができない。

「ただ、葵ちゃんが知らないことを伝えたくて呼んだの。今日はそれにぴったりの日だから」

 自分が知らない楓のこと。それは葵の気持ちをこの場所に縛り付けるのに十分な情報だった。

 そして、椿は自分と楓のことを葵に語り始めた。


 *****


 宮本椿にとって篠原楓は初恋だった。

 椿は目を引くような華やかな美人であり、男女問わず告白されたことは少なくなかった。しかし、椿が誰かを好きになるのは初めてだった。

 最初に部室で見たときから椿は楓に惹かれていたが、それがなぜなのかは本人にもよく分からなかった。だからこそ、椿は楓のことを知ろうとした。

 休み時間には会いに行き、放課後も時間を共にした。部活が無い日でも話題の本があるから一緒に買いに行こうとか宿題を手伝ってほしいとか適当に理由をつけて離れなかった。まだ会ってから大して時間も経っていないのにこんなに付き纏っては煙たがられるのではないかとも思ったが、初恋の高揚感は全ての問題を棚上げしてしまう。

 楓の方は最初こそ困惑していたものの、徐々に椿のことを受け入れていった。二人が一緒にいることは当たり前になり、多くのものを共有した。

 そして、楓のことを知れば知るほど椿の中で彼女への想いは膨らんでいった。楓と同じ空気を吸い込むことで膨らんだ風船は胸を圧迫し、半年ほどで弾ける。

「楓、私はあなたのことが好きよ」

 学校祭の後、後夜祭を抜け出して椿は楓に告白した。自分から告白するのは初めてだったから怖かったけれど、一歩踏み込みたい勇気が勝った。

 告白を受けた楓は特に驚く様子も見せなかった。椿の想いに気づいていたのだろう。

「うん、私も椿のことが好きだよ。……付き合おうか、私たち」

 夕陽に照られされた楓の笑顔は美しかった。柔らかな笑みも、少し恥じらうように逸らされた目線も、頬にさす赤も、秋風に揺れる艶やかな髪も、全てが理想的だった。

 もしもこの時、それが出来すぎた絵画であることに気づけていたらよかったのに。

 それから二年間は学生らしい平凡な恋人としての関係が続いた。付き合い始めた直後に新人賞を受賞して秋傘茜がデビューし、楓は非凡な存在となったが、二人の関係に大きな影響を与えることはなかった。周囲が秋傘茜を特別扱いするほど、楓は椿からの純粋な好意を求めた。自分だけが彼女の本当の居場所になってあげられるのだと思うと優越感に悶えた。夢のような幸福な日々だった。

 卒業しても変わらず、自分と楓は一緒にいるのだと椿は信じていた。

 ──いいや、今でも椿は信じられないでいる。楓が椿といる時に本当に見ていたものを。


 *****


「私はね、楓の描いた物語の代役だったの」

 二人が出会ってからの話を一通り終えると、椿は葵にそう告げた。先程までは楽しそうに馴れ初めを話していたが、今はどこか切なげな表情をしている。

「代役って誰のですか?」

「分からないの?」

 椿が葵をじっと見据える。その目を見て、葵は深く納得した。そっか、この人も被害者だったのか。

「……『あの子』ですか?」

「うん、その通り」

「楓は最初から『あの子』の代わりとして私を見ていた。『あの子』としたいことを私で再現していただけ」

 葵はその苦しみを知っている。順序の違いはあるにせよ、好きな人に消費された傷跡は同じ形をしている。

「春に二人で卒業旅行に行った時にね、楓に言われたの。今までごめんなさいって。私は貴方の望むものをもう返せないって」

 なんて勝手な言い草だろう。どうせ夢を見せるなら最後まで責任を持って欲しいのに。楓は自分だけ醒めて、「あの子」になれなかった代役を切り捨てる。突然舞台を下ろされた役者のことなど気にかけず、次の代役を探しては合っていないガラスの靴を履かせる。後にはお姫様になれなかった少女だけが残される。

「宮本先輩は許せたんですか、あの人を」

「……今でも分からないよ。すごく傷ついたし、悲しかったけど。一緒にいて楽しかったのは事実だし、好きな気持ちってそう簡単に消えてくれないから」

 椿は目を伏せてふっと微笑えんだ。その様子を見て、葵は改めて椿のことが嫌いだと思った。自分はそんな風に綺麗な思い出として処理することはできない。あの頃のことを思い出すと顔が歪む。椿の横顔が眩しい。自分から「あの子」の役を奪った泥棒猫であり、同じ穴の狢でもある目の前の女が自分よりも美しくあることが許せない。

「でもね、一つだけはっきりしてることがあるの」

 だから、精一杯の嫌味でも言って、その笑顔を引き剥がしてやろうと思っていたのに。

「私は葵ちゃんが憎い。あなただけは許せない」

 葵が言葉を発するよりも早く、椿の笑顔は冷えきったものに変わった。

「あなた、今、私のことを同じ立場だと思ってたんでしょう? 違う。私と葵ちゃんは全然違う。私の方が葵ちゃんよりも真っ直ぐに楓のことを愛していた。好意だってはっきり言葉にした。楓の隣にいるべきなのは絶対に私のはずだった。なのに、どうしてなの? どうして私じゃダメだったの?」

「っ……! 知りませんよ、私だってダメだったんですから」

「だから、それが違うの」

「……えっ?」

「あなたは楓に選ばれている」

 椿の言っている意味が分からない。

「そもそも選択の余地なんて最初から楓には無かったのよ。 あなたのことしか見てないんだから?」

「なにを言ってるんですか?」

 そんな訳ない。だって、楓は「あの子」の代わりとして葵を使っただけのはずだ。

「本当に何も知らないんだ?」

 小さくため息を漏らすと、椿は横に置いていた鞄から一冊の本を取り出し、葵の前に差し出した。葵はその表紙に見覚えがあった。秋傘茜の最新作だ。

「これ、あなたにあげる。私はもう一冊持ってるから」

「何のつもりですか、いりませんよ」

「もう持ってるから? でも、どうせ読んでないんでしょう?」

 図星だった。去年の秋頃に本が出版されてすぐに楓から実家に三冊送られてきたが、葵は本を開いたことさえない。

「これを読めば私が何を言いたいのかきっと分かるはず。だから、今ここで読んで」

 読めと言われてすぐに単行本一冊読めるほど葵は速読に秀でているわけではないし、そもそも楓の書いた本はもう読まないと決めていたのだが、楓は本気のようだ。

 仕方なく、葵を本を開いた。二時間ほど黙って読み進めた。その間に椿と葵は追加でコーヒーを二杯ずつ頼んだ。二人とも今夜は眠れそうにない。

 やがて、葵が本を読み終えて顔を上げると、こちらをじっと見つめていた椿と目が合った。

「これって……」

「ね、分かったでしょ。本当に馬鹿よね楓って」

「嘘、だってこんなの、私聞いてない……!」

「当たり前でしょ、言えなかったから楓は書いたのよ」

 その時、二人のスマートフォンが同時になった。WEBニュースの速報通知だった。

「……楓、ダメだったんだ」

 秋傘茜は芥澤賞を逃した。

「お姉ちゃん……」

 その事実に思っていたよりもショックを受けている自分に葵は驚いた。自分には関係ないと思っていたのに。

 最後にお姉ちゃんと楓を呼んだのはいつだっただろうか。

「じゃあ、結果も出たし、私は帰るね」

 コートを羽織って椿が席を立ち、店を出て行こうとする。

「ちょっと待ってください!」

「なに? 心配しなくても歳上だからここのお金は私が払ってあげるよ」

「そんなことじゃなくてっ!なんで、なんで今日私をここに呼んだんですか?」

 椿が葵のことをそれほどまでに嫌っているのなら顔も見たくないだろう。なのに、椿はわざわざ葵を呼び出し、本まで渡した。

「なんだ、そんなの決まってるじゃない」

 楓はまた悪戯っぽく笑いながら答えた。

「私が秋傘茜のファンだからよ」


 椿が帰ったあと、葵は再び本を開き、気になった箇所に目を通した。

 茜の新作は親の再婚により義兄妹となった少年少女の恋愛を描いた作品だ。高校時代に出した三冊はいずれもミステリーだったから恋愛小説に挑戦するのは初めてだ。

 最初はなぜ椿が読むことを強要してきたのか分からなかった。文章力が高い、描写が優れている、登場人物が生き生きとしている等の小説として優れた点はあったが、葵にはそんなことはどうでもよかった。

 しかし、物語が進むにつれてあることに気付いた。

 周囲に隠れて付き合い出した二人の描写に既視感があった。それは楓と葵の思い出そのものだった。

 当時話題になっていた映画を見に行ったが二人の趣味には合わなかったこと。水族館のお土産でペンギンのキーホルダーを買おうとしたが残り一つしかなく、妹にそれを譲ったこと。高所恐怖症の妹を地上に残して一人だけ観覧車に乗り、戻ってきたら妹が不機嫌になっていたこと。

 どれも、実際にあったことだ。それも、夢のデートを再現しようとして失敗した部分ばかり取り上げられている。面白い映画、お揃いのキーホルダー、観覧車での逢瀬。どれも楓は夢にまで見たはずなのに採用されたのは冴えない現実だ。

 作中にはこのカフェでのデートの描写もあった。実はこれもやはり夢の再現に失敗していた。夢の中で楓と「あの子」が食べていたのは季節限定のいちごタルトで、葵たちが訪れた時にはもう無かったからチーズケーキを頼んだのだ。小説の中の兄妹も同様にチーズケーキを頼んでこっちだって美味しいねと笑い合っていた。

 そして、極め付けは主人公たちが海に行く場面だった。

 葵と楓も一度だけ二人で海に行ったことがある。けれど、それは「あの子」との夢の再現ではなかった。

 海はあの頃にたった一度だけ、楓が他でもない葵本人を誘って、連れて行ってくれた場所なのだ。あれは、姉妹の思い出だ。

 葵はようやく理解した。この小説に出てくる兄妹は自分たち姉妹なのだ。ヒロインは「あの子」じゃない。篠原葵だ。

 葵は本を閉じ、店を出て急いで駅へ向かった。時刻はもう八時だが、実家とは逆方面へ向かう電車に乗った。楓が一人暮らししているアパートに行くためだ。

 電車の中から母親にメッセージでそのことを伝えるとすぐに返信が来た。「分かった」と一言だけで他には何もないのに、妙な重みを感じた。


 楓の部屋に着く頃には九時を回っており、雪が降り始めていた。バス停から走っているときには肺が凍るかと思ったが、少しでも早く会いたくて寒空の下を全力で駆けてしまった。

「えっ、葵? 急にどうしたの?」

 突然の訪問に楓は驚きながらも、拒絶することなく葵を部屋に上げた。

 葵がこの部屋に来るのは家族で引っ越しの手伝いをした時以来だったが、物は何一つ増えていなかった。一通りの家具は揃っているが、他には何もない。

「ねぇ、お姉ちゃん。この本、どういうつもりで書いたの?」

息が整うのも待たず、葵は鞄から一冊の本を取り出し、楓に突き付けた。

 突然問い詰められた楓がビクッと震える。露骨に狼狽し、葵から目線を逸らす。

「私の本の話なんて後でいいからこれで体拭きなよ。髪濡れてるよ。ほら早くしないと風邪引いちゃうから」

「これって、私のことをモデルにしてるよね?」

 楓は誤魔化しながらタオルを渡そうとしてきたが、葵は無視してさらに踏み込んだ。

「……私の本読んでくれたんだ。意外だな、嬉しいよ」

 そう言う割に楓の表情は暗い。

 楓はしばらく黙って考え込んでいたが、葵に諦める気がないことを悟ったのか重い口を開いた。

「うん、そうだよ。その本の話のモデルは私と葵」

「どうして? どうして今更、こんなものを書いたの? なにがしたかったの?」

「ただ単に書きたくなっただけだよ。ほら、昔はよく葵を主人公にした話を書いてたでしょ? だから、また久しぶりに書きたくなったの」

 しかし、まだ全てを言葉にする勇気がないのだろう。楓は大切なことを誤魔化そうとする。でも、それでは何も変わらない。

「そんな適当な答えで納得できるわけないよ! ねぇ、お姉ちゃん。私って何? お姉ちゃんは私に何を求めてきたの? 私は、お姉ちゃんのなんなの……?」

 あの小説のモデルが楓と「あの子」なら葵は納得することができた。楓が自分の理想に縋り、それを形にしたのだと。けれど、違った。ずっと見ないようにしていた筈の葵本人に楓は光を当てた。そんなことされたら、期待してしまう。もしかしてを求めてしまう。

「葵……」

「お願い、教えてよ。ちゃんと受け止めるから」

「……分かった」

 楓は俯いたまま、絞り出すような声で言った。

「ちゃんと話すよ。今までごめんね、葵」

 楓の目から涙が流れる。それでも、楓は子供みたいにニットの裾を両手で握ったまま、それを拭おうともしなかった。ポタポタと床に滴が落ちるのに合わせて、楓は彼女の秘密を漏らした。


 *****

 

 いつからかなんてもう覚えていない。或いは初めから篠原楓は葵を妹以上の存在として愛していたのかもしれない。

 幼い頃から楓にとって葵はこの世で最も愛しい存在だった。小さな自分よりもさらに小さな存在。何をやるにしても自分の後ろを付いてきて真似をする姿を見ていると、なんでもしてあげたくなった。

 やがて、小学校に入ると葵は楓の真似をして本を読むようになった。だが、楓が読んでいる本は葵にはまだ難しく、一緒に楽しむことはできなかった。

 そこで、楓は自分が葵のために物語を作ってあげることにした。とはいえ、実際には葵のためではなく楓本人のためであった。楓は時折、葵を主人公にした物語を想像していた。それを葵と一緒に楽しめたらどれだけ素晴らしいだろうか。小説家秋傘茜の原点はそんなささやかな夢だった。

 いろんなお話を考えた。冒険もした。謎解きもした。素敵な人にも出会わせてあげた。ちょっと本が好きなだけの子どもが考えた物語はきっと大したオリジナリーもなくお世辞にも出来がいいものではなかっただろうけれど、葵は楽しんでくれたみたいだった。続きをねだられる度に楓は満たされた。ずっとこうしていたい。二人でずっと二人だけの物語の中にいたい。それだけでよかったのに。

 しかし、楓はその先を求めてしまった。

 きっかけはほんの些細なことだった。葵が小学校の卒業式直前に初めて女の子に告白されたのだ。

 本人は否定するが葵は他の女の子よりも可愛かったし、それは姉である楓も同じだった。だから、二人とも告白されたことはそれなりにあったし、特別なことでもなかった。いつも「そういうことはよく分からない」と断るだけ。

 だが、今回は違った。自分と同じ女の子が葵を独占しようとした事実は楓を焦らせた。葵は外では他人とほとんど話さない。だから、誰かに奪われる心配などないはずだ。でも、もしも、万が一、葵が他の誰かを好きになってしまったら。

 楓はこの時初めて自分が葵に対して単なる姉妹として以上の想いを抱いていたことを自覚した。葵に告白した顔も知らない女子が頭の中で自分に置き換わる。伝えたい。他の誰かに盗られる前に。誰にも邪魔されないように。

 楓は恋に落ちていた。穴は深く、這い上がることはできそうにない。ならば、葵もここに落とすしかない。しかし、問題がある。楓と葵は血の繋がった実の姉妹なのだ。中学生にもなれば姉妹で愛し合うなど許されないことぐらい理解できた。

 もしも、二人揃って落ちるとこまで落ちたとして、両親はどう思うだろうか。葵は笑ってくれるだろうか?楓は笑っていられるだろうか?

 結局、楓には気持ちを伝える勇気が無かった。それでも、諦めることはできない。一度見つけた感情は日々存在感を増して、楓を押し潰していく。

 そして、あの夢を見たのだ。

 気がつくと浜辺にいた。雲一つない漆黒の夜空に巨大な満月が浮かんでいた。青白い光に照らされて、夜の海は光り輝く。寄せては返す波を少女が蹴り飛ばす。静寂の中でパシャッと音が炸裂する。すると、少女がけらけらと笑い出す。その声に聞き覚えがあった。

 少女の正体は葵だった。だが、当時の楓は気づかなかった。自分の知っている葵よりも少し大人びた雰囲気を持っていたし、顔の辺りがモヤモヤとしていてはっきり見えなかったからだ。

 少女は振り返り、こっちにおいでよと手を振った。不思議とその声に惹かれた楓は少女の元に駆け寄り、抱きついた勢いでそのまま押し倒した。誰かもよく分からない相手に大好きだよと伝えると、少女もそれに応えてくれた。二人の長い髪が海の光に濡れていた。

 早朝に目が覚めた時、楓は激しく動揺した。見てはいけないものを見てしまったという感覚が襲ってきて、思わずトイレに駆け込み吐いてしまった。家族がまだ誰も起きていなくて助かった。部屋に戻り、カーテンを開けると薄暗い空にまだ月が居座っていた。

 その日は一日中おかしかった。頭の中で夢の中の少女の声が響き続けていて、真っ当にものを考えることができなかった。このまま一人で抱えていては良くない気がした。

 結局、楓は葵にこのことを打ち明けることにした。行為の詳細は隠したが、目の前の葵が呆れた顔を見ていると少しだけ気が楽になった。そうだ、笑い飛ばして仕舞えばいい。あんなものは夢で、現実の自分は何もしていない。自分が求めているのは姉妹の時間だ。こうして葵と過ごすなんでもない時間さえ守れればそれでいいのだ。本気でこの時はそう思っていた。

 しかし、また同じ夢を見た。一度や二度ではない。毎日同じ夢を見た。しかも、夢を見るごとに少女の顔は鮮明になり、少し成長した葵の美しい顔がはっきりと見えるようになった。夢の中で葵を汚し、早朝に目が覚め、吐く。よく眠れないから思考も纏まらなくなってくる。

 まさか自分がこんな夢を見るほど葵のことを想っていたなんて知らなかった。楓は強い自己嫌悪に陥ったが、今更見た夢をなかったことにできない。あれは全て幻想だが、既に現実に帳を落としつつある。葵の細い指も美しい鎖骨も長い髪も薄い唇も全てが楓を刺激する。自分を慰めて落ち着けようとしても、一人ではどうすることもできなかった。

 楓はもう耐えられなくなっていた。いっそのこと、現実の葵に想いを伝えて楽になれば良いのだろうか。しかし、それができないからあんな夢を見ているのだ。どうすれば、葵と一緒にいることを許されるだろうか。

 考え続けた結果、楓は一つの結論に至った。そうだ、葵に他人になってもらおう。姉妹だから本気で愛してはいけないのだ。姉妹じゃなければ、遊びなら、許されるはずだ。

 楓は創作した。夢の中の「あの子」は葵じゃない。自分が好きなのは「あの子」で、「あの子」の代役として葵を求めるのだ。姉妹が愛し合うのではなく、楓と「あの子」の夢を葵を使って再現するだけなのだ。

 まるで理屈など通っていない馬鹿げた言い訳だったが、もうすでに疲れていた楓にはそんなこと関係無かった。葵とただの姉妹でいることから脱却できさえすればそれで良かった。

 このことを葵に伝えた時には酷く困惑していたが、最終的には受け入れてくれた。

 変な姉の頼みを渋々受け入れる妹という構図は想像以上に都合が良かった。誰も二人の関係を怪しむことはなかった。周囲から見ればただの仲良し姉妹にしか見えない。

 夢の再現という建前で楓は何度も葵とデートに出かけた。本当はいつも見る夢は同じだから、「あの子」とデートしたことなどない。それでも、葵は疑いもせずに付き合ってくれた。最初は戸惑っていたけれど、次第に葵もこの行為を楽しむようになっていた。

 少しずつ、姉妹の恋人ごっこはエスカレートしていった。夏になって長期休暇が始まると時間も増える。楓は受験生だったが、元々成績は良かったので余裕はあった。二人は姉妹だから一日中家でも外でも一緒にいることができ、姉妹ではない振る舞いを続けた。

 夏祭りではキスまでした。流石に葵は躊躇うかもしれないと楓は思っていたのだが、意外にもあっさりうけいれられてしまった。自分で求めておきながらも、ここまでするなんてただの姉思いの妹というだけでは説明できないのではないかと楓は疑念を抱いた。葵の欲望が透けた見えた気がした。

 だから、あの日はいつもより大胆になってしまった。

 夏休みの中頃に家族四人で母方の実家に帰省した。毎年の習慣であり、母の妹家族もやって来る。母の地元は海に面した町であり、さほど人が多い場所ではない。駅から祖父母の家まで向かう途中にバスから海を見た時、楓は夢の中で葵といた場所はここだったのだと気づいた。胸の奥で欲望が疼き始めていた。祖父母の家でみんなで昼食を食べている時も楓は久しぶりに会った親族たちと適当に話しながらも、頭の中はあの夢と葵のことでいっぱいだった。

 その日の夕方、楓は葵を海に誘った。「あの子」としてではなく、葵本人を誘った。たまには普通の姉妹として遊びに行こうと誘ったが、楓はむしろ姉妹でいることを辞めるために行こうとしていた。あの夢を現実にするのだ、と。

 日暮れが近づく夏の海は赤く染まっていた。都合がいいことに浜辺には楓と葵しかいなかった。二人は波打ち際で水をパシャパシャと蹴ってはしゃいだ。夏の海で二人きりという状況に否が応でもはしゃいでしまった。波にさらわれて、世界から二人以外の全てが遠ざかるようだった。

 しばらく遊ぶと少し疲れてしまって、葵は砂浜に座りこんだ。楓も横に並び二人で黙って陽が沈むのを見ていた。次第に周囲は暗くなる。あの夜に現実が近づいていく。

 我慢できず、楓は黙って葵を抱き寄せた。そのまま顔を近づけ、唇を塞ぐ。葵も楓を受け入れた。楓が口を離し、葵の名前を呼ぶと彼女はびくりと震えた。楓は今一度確認した。

「キスしてもいい?」

 葵は返事の代わりに目を閉じた。目は口程にものを言うらしい。閉じていても、葵がこれまで口にしてこなかった想いがその瞼の奥から伝わってきた。もう止められない。楓と葵は吐息を絡ませ、互いの熱を交換しあった。

 この時、本当に世界に二人だけだったなら姉妹は戻れない場所まで進めただろう。しかし、そうはならなかった。

 楓のポケットで携帯が鳴った。母が電話を掛けてきたのだ。もう夕食にするから早く帰って来なさいと言われ、二人は仕方なく家に戻った。家の中に入る直前まで二人は手を繋いでいた。

 事態が変わったのは帰省を終え、祖父母の家から戻ってきた夜のことだ。両親に呼び出された時、楓は嫌な予感がした。そして、その予感は的中した。

 両親は楓に海で葵とキスしていた理由を尋ねてきた。どうやら、母が電話を掛けてくるよりも先に従姉妹が二人を呼びに来ていたらしく、一部始終を見られていたらしかった。困惑した少女は声を掛けられず、家に戻って報告したようだ。

 楓は何も答えられなかったが、それは答えているのと何も変わらなかった。両親は起こらなかった。責めもしなかった。ただ、もう二度としてはいけない。それは許されないことだからと繰り返すだけだった。

 その日以降、楓は葵を遠ざけるようになった。卒業するまでは受験勉強を理由に部屋に篭った。高校に入学するとすぐに部活に入った。文芸部を選んだのは小説が好きだったからだが、思わぬ収穫もあった。宮本椿に惚れられたことだ。

 椿と交際したことは後悔していない。美しい彼女が楓に寄り添ってくれたことは幸せだった。楓も椿のことが大好きだったと言える。

 しかし、葵ほどではなかった。二人だけの卒業旅行で海に行った時に気づいてしまった。椿がどれだけ自分のことを愛してくれても、葵への想いが断ち切れないことに。だから、別れるしかなかった。別れを切り出した時の椿の表情は今でも頭から離れない。

 結局、篠原楓には秋傘茜だけが残り、一人になってしまった。


*****


 楓の話はつまらなかった。何も面白くなかった。ため息が漏れた。二人の口から同時に。

「ごめんね、葵」

 楓は再び葵に謝った。

「勝手に求めて、勝手に捨てて、散々振り回してごめんね」

 謝られてもなんと言っていいのか分からない。確かに楓の行動には呆れる。結局、楓は葵に気持ちを伝える勇気が無かった。実の妹を女として愛する覚悟を持てなかった。それだけの話なのだ。なのに、我慢することもできなかったから突飛な嘘をついて葵を求めた。さらに、今度は葵を忘れるために他の少女を利用した。あまりにも自分勝手でめんどくさい行動だ。

 しかし、葵にも非はある。もっと早くに楓と向き合い、気持ちを伝えればよかった。そうすれば、ここまで拗れることはなかった。

「ねえ、一つ聞いてもいい?」

「うん、なに?」

「どうして、私とのことをモデルにして今回の小説を書いたの?」

「椿と別れてから、葵に気持ちをちゃんと伝えて謝らなくちゃって思ってたの。でも、直接伝える勇気がなかった……。だから、物語にしたの。小説の中になら、素直に全部曝け出せる気がしたから。それがまさか、こんなに多くの人に届くなんて思ってもみなかったけど」

 楓は自嘲気味に笑った。その表情を見ていたらやり切れない気持ちになった。今回、姉の告白に辿り着くことができたのは椿に読まされたからだ。もしも彼女に言われていなければ、葵は意地を張って楓の物語を拒み続けただろう。芥澤賞にノミネートされ多くの人に愛された作品は、唯一最も動かしたかった人の心に触れることさえできなかったことになる。

 しかし、楓はそれでも良かったのかもしれない。結局、自己満足だったのだ。自分の抱えてきたものをどんな形でもいいから下ろしたかった。だから、葵が読んでも読まなくても良かった。

「ねえ、お姉ちゃん。もう、いいでしょ。もう、伝えてもいいよね」

 こんな馬鹿げた物語はもう終わりにしなければいけない。このままでは誰も幸せにならない。これから始まる新たな物語もまた誰かを不幸にするかもしれない。それでも、葵はせめて楓に幸せだと笑ってほしい。

「お姉ちゃん。私はここにいるよ。お姉ちゃんの夢の中じゃなくて、目の前にいる」

「うん」

「だから、私を見て欲しい。私に触れてほしい。お姉ちゃんの言葉で直接、好きだって言って欲しい。名前を呼んでほしい」

「うん……っ」

「お姉ちゃん、好きだよ」

「私も、葵が好き……っ」

 楓は絞り出すように言った。長い、長い時間をかけて汲み上げられた感情がようやく夢の海から現実に流れ出す。

 楓は葵を優しく抱きしめる。久しぶりに姉の温もりに包まれ、葵は自分が満たされていくのを感じていた。

 これは夢じゃない。確かに葵も楓もここにいる。姉妹が共に生きることを誰も許してくれないかもしれない。それがきっと現実だ。でも、現実ならいい。夢で終わるよりもずっと。

 外では雪が降り始めている。幻想的な景色の中、姉妹は二人で現実の自分たちの輪郭を確かめ合った。「あの子」がいた夜が明けるまで、眠ることなく。

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あの子は姉の夢中 飾里けい @umber-1

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