第7話 月の中の兎

 好きな人が出来た。

 気持ちに火がつくのに半日とかからなかった。そして左手の薬指に気づいた瞬間、遠くなった。

 手が届かない。そう気づいてすぐに、心の奥の一番真っ暗なところの、過去のキラキラしたものの詰まった丸い箱の中にそっとしまった。

 それでもその人は輝いている。

 まるで夜空に光の窓を穿うがったような、まさに月のように。

 僕は夜空を仰ぐたび嫌でもその陰影が目に入るように、その人が視界をかすめるだけで、この胸は光で満ちた。

 それでも、決して届かない。


 思い出してみれば、子供の頃からそうだった。

 僕がおとなになった頃には、きっと僕は月にゆけるのだと思っていた。

 なんの根拠もなく、漠然と、そんな未來がくると思っていた。

 いつから信じなくなったのだろう。

 世の中がいつも不景気だというようになっていたからだろうか。

 そうでなくとも、年を取るほどに知るのだ。無理なのだ、と。

 アポロ計画は半世紀近く前に終わったきりだ。宇宙飛行士だけが人工衛星に乗り、一握りの金持ちだけが道楽で宇宙の匂いを嗅ぎにゆくばかりだ。


 もう少し僕らが若ければ、せめて空を飛ぶことができれば、僕は月を目指しただろうか。

 きっと、僕は死ぬまで月には行けない。

 そう、あの人は決して僕と触れ合わない。

 そしてきっと、幸せな誰かと子供でも作るのだろう。

 僕たちを置き去りにNASAが火星を目指すように。


 誰かが兎は月を見て跳ねると言った。その模様を仲間と想って跳ねるのだと。

 あるのはただのクレーターだよ、と味気ない現実だけが、むなしい慰めになって、夜陰に沈む僕を包む。


 そう、あの人はただの公転する天体で、僕はそれを突き放しながら生きるだけの地べたの亀だ。

 僕は好きな人ができた。

 僕は兎のようにはねたりできない。すっぽんのように首をすくめて、のっぺりと川辺の岩に潜んで生きる。

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