第5話 交渉成立

「――今度こそ別れてやる!! 本気の本気なんだから!!!」


 酒場に響く声。この後聞こえてくる声は決まっている。


「待てよ!! 別に今のは、転びそうだったから助けただけで!」

「鼻の下伸ばしてたじゃん!! ぜったーい! 胸が大きい……役・得……とか思ってたでしょ!!」

「ギクッ……そ、そそそれは、生理現象です」

「最低!!」


 少しは詫びろよ。

 しかし、予想通り、その足音は自分に近づいてくる。

 逃げようにも、おもしろがってこちらを見ているレイルが逃がしてくれるとは思えない。いや、呪いが逃がしてくれるとも思えない。

 手が震える。どうやって、被害を最小限に抑えるか。


 その時、視界いっぱいに広がる天井。


 次の瞬間、後頭部と背中に衝撃と痛み。


「――ッ」


 痛みに頭を抱える余裕すらなく、わき腹を蹴られ、落ちてきたやけに重い物は大きな音を立てて隣に倒れこんだ。

 呼吸すらままならない状況だというのに、隣に倒れこんだそれは、すぐにフジの襟を掴み上げる。


「テメェ……!! どうしてくれるんだ!」


 それはこっちのセリフだ。

 追ってくる彼氏から逃げるために、近くに座っている人間を、障害物にすべく、道に転がすなど、どんな筋力バカならできるんだ。


「お前が邪魔しなきゃ!!」


 泣きっ面に蜂とは、まさにこのことだろうか。

 俺は、恋路を邪魔した人間として、酒場でこの正直者の剣士にボコボコにされた。



「……」


 気が付けば、先程とは違う天井。

 そして、いつものように、体中に痛みが――


「ない?」


 不思議なことに、痛みはなかった。


「あぁ、起きたか」

「ヘクターさん!」


 あの後、昨晩のことを気にしてか、ヘクターも酒場にやってきて、あの状況を見たという。


「あんなことに毎晩なってるのか?」

「えぇ、まぁ」

「……そうか。もし、その呪いが解けるかもって言ったら、どうする?」

「え!?」


 それはもちろん解いてほしい。


「もちろん、ただじゃないが」

「金なら、どうにか、集めます……」

「いや、金はいらない。ただ面倒を見てほしい」

「へ……? 面倒? ペット?」

「いや、ノゾミの」

「ノゾミ……ノゾミ?」


 知らない名前だ。

 だが、ヘクターに今日一緒にいただろ? と言われて、すぐに思い浮かんだ。


「娘さん!?」

「あんな娘御免だ」

「あ、はい。すみません」


 反射的に頭を下げてしまった。


「まぁ、とにかく、ノゾミはその辺のモンスターよりもずっと手がかかる。それに、普通の生活には戻れない」

「どういうことっすか? 普段の生活に戻れないって」

「それを言ったら、お前さんは死ぬか世話係かの二択になるぞ。今なら、町で平和に暮らすこともできる」


 ヘクターはフジを気遣うものの、毎日17時に死にかける。下手すると、本当に死ぬ平和など、平和と言えるはずない。


「いいですよ」


 この生活が続くくらいなら。可能性に賭けたい。

 すると、ヘクターはかわいそうなものを見る目で、フジを見てから、ひとつため息をつき、あっけからんと笑った。


「実はオジサン、魔王軍なんだよね。ここにいる他の連中も」

「…………え」

「だから、条件飲んだら、お前さんも魔王軍で、世間の敵ってことになるな」

「……あの、質問なんすけど、ギルドにみんな入ってましたよね?」


 魔王軍っていうのは、ギルドの冒険者やら勇者やらと戦っているんじゃないのだろうか。


「魔王軍ってのは、魔族の寄せ集めをまとめてるようなものだしな。人間は他の人間と同じように生活するしかないのさ。財政もギルドの方がいいし」


 結構世知がない話だった。


「でも、魔王軍ってバレたら、死ぬかもしれないし、拷問されるかもしれない」


 そう考えれば、危険な行為であることには違いない。


「ま、お前さんも、これを聞いたからには、断ったら死ぬんだけどな」


 さらりと笑って言う言葉は恐ろしいが、きっと悪い人ではない。

 悪い人間なら、町の外で蹲っている人間に声をかけたり、酒場でケガをしているのを家に連れ帰って、ケガを治すこともないだろう。


「……あの、ヘクターさんたちは、どうして魔王軍に入ってるんですか?」


 普通なら、魔王軍ではなくギルドではないだろうか。よくいう正義の味方に、誰だってなりたいではないだろうか。

 そりゃ、不良みたいな悪が好きな人だっているだろう。

 しかし、ヘクターやレイル、キザナからは、不良のような感じはしない。


「さて、どうしてだろうな」


 ヘクターは笑って、答えなかった。


***


「ノゾミ。この子の呪い解いてやってくれ」

「やだ」


 即答だった。


「やだよ。めんどくさい」


 先手を取るように、再度繰り返すノゾミ。

 なんでも、彼女は呪いに関しては、魔王軍において右に出るものはいないという。


「そういうなよ。なんだかんだで、ケガを治したのもお前じゃないか」

「それはそれ。これはこれ。あの時はそういうテンションだったから。今は気分じゃない。テンションも上がらない」


 これが拗ねるように顔を背ければ可愛げがあるが、確固たる頑固おやじのようにまっすぐと見つめ返してくるのだから、困り者だ。

 しかも、理由が完全なる気分。

 まるで子供のよう……

 子供……?


「ホットケーキ」

「葛切り」

「葛粉なんて見たことねぇよ!」

「あれば作れるの?」

「え……あー……たぶん」

「マジか」


 感心したようにフジを見つめるノゾミ。

 子供ならおやつで簡単に釣れるだろうと思ったが、思った以上の食いつきだった。

 だが、葛切りは予想外だ。なんとなく、ここはヨーロッパに近い感じがしていたが、ヨーロッパに葛があるかはわからない。


「キザナーこの辺って、葛ある? 葛粉でもいい」

「は? 葛? たまに行商が売ってますけど」

「葛粉な!? 粉! 本物持ってこられても困る!!」

「ちゃんと粉だから安心しな。でもまぁ、葛なんて何に使う気だ?」

「お菓子」


 ノゾミの言葉に頷けば、むしろ驚かれたのはこっちだった。

 どうやら、キザナやヘクターからすると、馴染みがない食べ物らしい。


「とにかく、解呪すればいいんだよね」


 そう言って、立ち上がると、腕を前に突き出す。

 すると、目の前に突然現れた古びた青銅の鏡。


「心を楽に。感覚を閉じて。そう。いい子」


 先ほどまでの子供じみた雰囲気はどこにいったのか、ひどく優しい声に意識が遠のく。

 水中のような、倒れている途中のような感覚に飲まれる中、視界は光すら飲み込む黒へ染まっていった。

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