ホワイトアウト

ださい里衣

第1話

神は穢れを嫌う。

穢れとは、信仰に反するもの。

信仰とは、神自らが定めた秩序に‘’寸分違わず‘’従うこと、それ以上であってもそれ以下でも許されない。

「なぜ…どうして…。」

白い息を荒く吐きながら私は雪の中を走り続けていた。

温かい涙が止めどなく頬を流れては虚空へと消えていく。

こんなはずではなかった、逆らう気など毛頭なかった。私は神を心から信仰していた、それはこうなった今でも変わらない…なのになぜ…?

「はぁ…はぁ…ああっ!」

ただでさえ雪で足元が明瞭でないのに加え、大量の涙で視界がぼやけ大きな木の根に気付かず、そのまま足を取られ顔から真っ白な地面に勢いよく倒れた。

「はぁはぁ…、ちがう…私は!」

慌てて立ち上がろうと膝を立てた時、月明かりに銀色に輝く雪が一部僅かに金色の光を帯びたのが分かった。

「‼」

反射的に後ろを振り返った時には、既に神々しく黄金に輝く槍が膨らんだ腹を貫いた。

再び雪の上に倒れ込んだ私の腹を貫いた槍は、腹の中の小さな命が消えたと分かると、たちまち輝きは失われ、次第に槍の形すら失い、大きな杭へと変貌した。

自分の腹から流れ出す熱い血が銀色の雪に染み込み、溶かしていく。

「ああああ……‼どうしてっ、どうして…!」

守ることが出来なかった。

大切なものを私は失った。

体の痛みよりも大きな絶望と喪失感で涙が止まらない。

奪われた、なぜ?

私はなぜ奪われなければいけなかった?

なぜ、?

「~~~‼」

冷たい空気で喉がやられ声にならない声で叫んだ。

「あ、あったあった。こんなのでも神様から貰ったものだからね、ちゃんと回収しないと…あれ?もしかして生きてる?」

「⁉」

唐突に木々の中からやって来た人物が呑気な声を出しながらひょこっと倒れている私の顔を覗き込む。

黒い髪にクリクリとした黒い瞳の、歳は11か12くらいの幼い少年だった。

「ま、取り敢えずこれは返してねぇ~。」

そう言うと少年はなんの躊躇いも無く私の腹から、突き刺さる大きな杭を一気に引き抜いた。

「ああああっ‼」

痛みと衝撃に私が反射的に声をあげると、少年はくすくすと笑い、再びその大きな杭を私に向けて振り上げる。

その光景を目の当たりにしてようやく気が付いた。

私の罪が。

私は一瞬でも、神の在り方を疑ってしまった。神が求められた‘’命を捨てよ‘’という言葉を拒み、逃げ出した。これまでの私の一連の行動全てが信仰に背くものだったのだ。

であれば、私はこの少年に殺されることで最終的には神の信仰を貫いたことになるのだろうか、私はこれで許されるのだろうか。

「…………私は、これで…ゆ、許されるの、で…しょうか?」

「は?」

今まで顔に笑顔が張り付いたように表情を変えなかった少年がそのくりくりと大きな瞳を一瞬さらに大きく見開いた。

「か…みは、わたしを…お許しに…なるでしょうか…?」

涙ながらに枯れた声を振り絞って少年に問いかける私を、少年はしばらくキョトンとした顔でただ見つめた。

「…………。」

次第に厚い雲が再び月を遮り雪が降り始めた。

ただしんしんと降り積もる雪の中、私の小さい呼吸音だけが空気を震わせているように思えた。腹部の燃えるような熱さと激しい痛みもだんだんと薄れ、杭で抉られた腹に冷たい雪と空気が入り込んでくる。手足の感覚も無く、次第に激しい眠気で瞼が重く、そのせいか視界もハッキリしなくなってきた。

瞼の重さに耐えきれず、私がゆっくりと瞳を閉じようとした時、唐突に少年が噴き出した。

「ぷっ、あっはははは!凄い、君はこんなことになってもアレを信じているの?」

心底楽しそうに頬を紅潮させながら少年は手に持っていた杭を地面に突き刺し、私の顔を覗き込んできた。

「許しもなにも、君はもうとっくにアレの加護の範疇にないんだよ?そのいつまでたっても止まらない血を見ても分からないの?」

少年の言葉に私の重くて仕方なかった瞼が無意識に持ちあがる。

「そ…んな…。」

「君は既に神から見放された存在なんだ、だから神は君の死に何も見出さない、君のその信仰心は届かない。」

少年は言葉にならない私の震える声を楽しそうに聞きながら、満面の笑みで私を見下ろす。

「あ……あぁああぁあ…。」

私は信じていた、私が神を信じている限り、神も私を信じてくれていると。神とはそれまでに寛大で寛容な存在だと、信じていた。

「わたしは…、なんのために…。」

半ば降り積もる雪に埋まり掛けていた両手を、月も見えない空に伸ばした。きっとこれが答えなのだろう、この少年の言う通り神は既に私を見ていない。


いや、違う。


神が私を見ていたことなど、今までに一度でもあっただろうか。

全知全能を謳われ、神殿に坐する神。

その姿は誰よりも美しく、穢れなど知らぬ清廉で完璧な存在。

あの涼し気で凛とした、何もかもを見通すと言われている瞳は、本当にそうだったのだろうか。ただひれ伏す私達を無感情に見つめていただけではないのだろうか。

そもそも秩序とは何の為に存在しただろう、いや、‘’誰の為に”?

「神は、君たちの心なんて最初からいらないんだよ。神が本当に全知全能なら、秩序なんてなくても、君達の信仰は伝わるはずだ、神の作り出したあの秩序は、君達の中から"秩序を破る者を炙り出す”為のものなんだから。君達は最初から神の信頼など得られていないし、神も最初から君達を信じていない。それがあの神殿の紛れもない真実だよ。」

少年は言いながら私の伸ばした手を両手で握り、微笑んだ。

そうかもしれない…、心の中で誰かが呟いた。

あの神殿は、全てが美しかった。

美しい神にふさわしい様に作られた美しい神殿には、出入りする人々も美しく、より神への信仰が深い者達だった。見目麗しく、信仰心の強い清らかな人々が神からの寵愛を受けるのは当たり前のように思えた。

しかし、その"美しい"という基準さえ、神の定めたものだ。

「ま、さか…。」

困惑で揺れる私の瞳を見た少年は楽しそうに目を細めると、ゆっくりと私の傍にしゃがみ込み、私の耳もとで静かに囁いた。

「君達は選別されていたんだ、あの秩序は異端者を炙り出すことの他には‘’神の為‘’にしか機能しない。神自らが望む“楽園”を作りだし、維持する為のもの。神が君達に加護を与えるのは、慈悲や慈愛からではなく君達がいなければ“楽園”を維持出来ないからだ。信仰心がより強いものを傍に置いておくことで、人々はそれを"寵愛”と称してそれを目指す。神に疑問を抱かせず、効率よく“盲信者”を作り出す良いシステムだよね♪」

残酷な言葉を紡ぎ出す少年の声は底抜けに明るく、陽気なものだった。

私は今、どんな顔をしているのだろうか、立ち上がった少年は私の顔を再び覗き込むなり、満足気に再び微笑むと「じゃっ☆」と言って真っ暗な森の中に消えて行ってしまった。

てっきりこのまま殺されてしまうと思っていた私は安堵すればいいのか、落胆すればいいのか分からず、降り続く雪の中ただ呼吸を繰り返していた。あの少年に殺されなくても、この体ではどの道私は助からないのは分かっていたし、助かったところでどう生きていけばいいのか分からない。

今までの私の生活は全て神が中心であり、神が望むままに生きてきた。"神が望むなら”とそもそも自分の生き方など考えたこともなかった。神の為に、神が望む様に生きることが私には当たり前で、それが信仰の在り方だと思っていた。

しかし、子供を身籠って初めて私の中で神が“子供の次”になった。

神はそれを許さなかった。

決して、神を侮辱するつもりも、信仰を怠る気もなかった。

私はただ、授かった子供と共に生きてみたかった。神は私のこの気持ちを理解してくれると、赦してくれると信じていた。

信じた結果がこれだ、こうなってみて初めて私は神とはなにかと考えていた。あの神殿に神と呼ばれ坐するあの存在が、実は何者なのか。考えたところで私に分かる訳もないが、もしあれとは別に本当にそれが存在するなら、ただ一つで良い、愚かなこの私の願いを叶えて欲しい。


奪われた我が子を取り戻したい。


あの子は、確かにこの胎に生きていたのだ、私に信仰以外のものを与えてくれたのだ。顔も声も知るのも叶わなかったが、確かに私はあの子をこの胎で育んでいた。

誰に理解されなくてもいい、この愛おしさはあの子には伝わっていたはずだ。

誰か、誰でもいい、この憐れで愚かな私をどこかで見つめている存在があるとするなら、私にどうか我が子と生きる時間を…。

「だ…れか…。」

『…すまなかった。』

艶やかで低く、しかし穏やかで澄んだ心地いい声が頭に流れ込んできた。

「⁉」

その声にふと我に返ると、雪で埋もれていた筈の体が蓮の花が浮かんだ湖のような場所で温水に浸かっていた。

「あっ!」

慌てて自分の腹を見ると、杭で抉られた筈の腹は子を宿す前の状態に綺麗に戻っていた。

「わ、私の…!あの子は⁉」

穏やかな湖の温かな水をバシャバシャと搔き分け、辺りを見渡すが目に映るのは水面に浮かんだ見事な蓮の花だけだった。

『…ここだ。』

ふと先程の声がして、その方へ振り返ると白い布に巻かれたなにかを抱えた男が水面に浮かぶようにして立っていた。

新月の夜の闇を切り取ったかのような艶やか長い黒髪に、黒曜石の様な一見真っ黒に見えて水面に反射した光でちらちらと暗緑色に輝く瞳。鼻筋からその首筋まで洗練された線を描く輪郭。黒い着物に身を包み、赤い羽織を羽織ったその男はまるで私の知る神を象ったような姿をしていた。

髪や瞳の色、声音は違えど、その形は明らかに私の記憶の中のそれそのものだった。

「あ……あなたは…。」

『お前の子はここだ、最後に抱いてやれ。』

水の中で呆けている私に、男は片手を伸ばしてきた。

「…………まだ、死んでない…私の子は、まだ…。」

『聞け。』

現実を受け入れられない私は愕然と水に浸かりながらブツブツと繰り返していると、男が圧のある声で遮った。

『お前の子は死んだ、もう戻らない、理解しろ。』

男の言葉に声も無くただボロボロと涙を流す私に、男は背を向けてどこかへ歩き始めた。

「まっ、まって!連れて行かないでぇ‼お願い、待って‼」

必死に叫ぶ私に男は振り返ると『自分で歩いて来い、そうでなければ見送りは不可能だ。』と淡々と言い、再び歩き出してしまった。

「ああ…!待って、お願い‼」

私は懸命に叫びながらバシャバシャと水を搔き分けながら追いかけるが到底追いつかない。水面を歩くことなど以前はなんでもなかった、しかしそれは神の加護があってのこと。今の私にその加護はない。

どうすれば…、どうすればいい?

どうすればあの子にたどり着ける?

もうこれっきりかもしれない、なら愛おしい我が子の顔をこの目に、この心に焼き付けておきたい。

ああ、奇跡が…いや、もう私に奇跡を施してくれる神はいない。私は本当に自分ではなにも出来ない、どうしようもなく無力で無価値な存在だ。生きる全ての能力を今まで神にどれだけ依存してきたのかと思い知らされる。

たとえあの神が偽りの存在だったとしても、私が今まで生きてこれたのはあの神あってのものだったのだ。

『それは違う、いい加減にしろ。お前は忘れているだけだ、全て思い出せ、今すぐに。どうやって体を癒していたのか、どうやって歩いていたのか、それが全てアレの加護のおかげだと?馬鹿なことを言うな。それは全てお前の思い違いだ、お前たちは全てお前たち自身の力で生きている。その動機がたとえアレへの信仰の為だろうが、それとこれとは関係ない。』

唐突に頭の上から声がして、ハッと見上げると随分遠くまで歩いてしまっていた筈の男が片腕に白い布を抱えて立っていた。

「私達は、祈りを…。」

『それなら自分に祈ればいい、アレがお前の祈りを聞き入れないのなら、お前はお前自身に祈り、自分自身で力を発揮しろ。元々お前の力だ、アレは関係ない、時間がない。早くやれ。』

淡々と喋る男からは全く急いでいる風は感じられないが、その力強い言葉に背中を押され、私は両手を胸に当てて祈り始めた。

自分に祈ると言うのは、要は自分に出来ると言い聞かせるということで合っているのだろうか…。

『祈りに形式も仕来りも無い。』

男はまるで私の抱いている疑問に答えるかのように、私を上から見下ろしながら短く言った。

私はその言葉に頷きつつ、以前の自分の姿を頭に思い浮かべた。

神殿に続く美しい水の道。

そこは神への信仰心がない者には通れず、信仰心の無い者は足を踏み入れようとした瞬間、水に呑み込まれ、心の穢れが洗い流されるまで水の中から這い上がってくることが出来ないと言われている。しかし、私は一度も水に引き込まれていく人の姿を見たことがない。この男の言うことが本当なら、そもそも私達‟月の人間”が元々持っている力なのかもしれない。

目を閉じて思い出す、足の裏に触れる柔らかい水をゆっくりと蹴る感覚と、水面に足を踏み入れた時に広がる波紋の一つ一つを。

あの時は全てを信じていた、神の加護により自分に出来ないことなどないと思う程に。今はそれくらい‟自分自身”を信じなくてはならない。

自分の為ではない、ただ我が子の為に。

私は湯あみの時に湯から上がるのをイメージし、男の足元にゆっくりと両手を添え、波紋が広がる水面を見ながら徐々に体重を掛けていく。先程とは打って変わって、水が手をすり抜けていくことはない。

(……出来る?)

私が心で小さく安堵していると、すかさず男の声が『早くしろ。』と耳に突き刺さる。男の急かす言葉に一瞬肩をビクつかせた私だったが、意を決して腕に体重を乗せ、そのまま体を引き上げた。水から出た瞬間、濡れた長襦袢が肌に張り付く。

意識を集中させたまま、ゆっくりと足を片方ずつ上げ、確実に立てるか感触を確かめる。頼りない細い足を震わせながら強張った面持ちでようやく立ち上がれた私に、男は何も言わず踵を返すと、さっさと歩き始めてしまった。

「あっ!」

それを見て私は慌てて男の背中を追う。

音も無く、水面に波紋を広げることもなく静かに歩む男の後をぴちゃぴちゃと水を蹴りながら慌ただしく走る。

そして男は、背中に近づく私の気配に気づいたのか、一度私を振り返ると私の目を鋭く射抜く様な視線を向けた。

『自分を疑うな、今までお前が出来ていたことは、紛れもなくお前の力だ。出来ないのは力が無くなったのではなく、お前が自ら‟出来なくしている”だけだ。』

その美しい黒い瞳がまるで脳裏に焼き付けられるような感覚だった。

恐ろしいほど美しく、それでいて力強いその瞳は、私には何かその言葉以上のものを訴え掛けているように思えた。

『…強くなくては困る。』

男が私から視線を外し、また前を向くその瞬間、何かボソッと言葉を漏らしたが私には聞き取れなかった。



湖には至る所に蓮の花が浮かび、永遠の様に果てしなく続く水平線はあの楽園のものそのものだった。

清々しい青空には暖かく湖を照らす月が登り、まばゆく水面を輝かせている。

「月っ⁉」

私はそこで初めて自分の目の前に月が登っていたことに気が付いた。

「ああ…!」

いけない、逃げなくては。そう頭では分かっていてもガタガタと震えだした足はもう動かない。

前を歩いている男の姿はあっという間に光に掻き消え、こちらを見降ろす大きな月が私を捉える。さっきまで暖かな光を灯していた月は、次第に青白く冷たい光に変わり、次の瞬間その激しい光の筋が矢のように私の体中に突き刺さった。

「ああああああ‼」

貫かれた体からどくどくと赤い血が零れ、足元の水に沈んでいく。

痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!!!!!!!!!

無意識に傷を押さえ、手のひらに付いた自分の血を視認して更に痛みが増す。

痛みと恐怖でガタガタと体中が震え、ずぶずぶと足から水に引き込まれていく。

「ああ…‼嫌だぁ‼ああああああああ‼」

バシャバシャと水の中で足をバタつかせながら必死に足掻くが、次第に私を捉えようと意思を持っているかのような水はドロドロと濁り、物凄い力で私の体に纏わり付く。

『おい…、おい…。』

叫びながら藻掻く中で、遠くから微かにあの男の声が聞こえた気がした。

「はっ、はぁ…どこ?どこなの⁉」

泥水の中で必死にその声を探し、振り返った時、次の瞬間思いっきり頬を叩かれた。

バシンッという衝撃で私は我に返り、ハッと目の前を見ると美しい男の顔がそこにはあった。

『いい加減にしろ。』

男はそれだけ言うと、水面に膝を付いて座り込む私を置いて、また先へと進みだした。

月は依然として暖かい光をもって湖を照らしている。

体に傷は一つもなく、私を支える水は透き通って美しい。

(……幻?)

きっと前を行く男なら何か知っているだろうが、あの様子だと教えてはくれないだろう。私は足元を確かめる様にして再び立ち上がり、男の後を追いかけた。今の私を導いてくれるのはこの男しかいないのだと、本能で理解していた。


それからどのくらい歩き続けたのか、黙々と歩みを進めてきた私達の前方に大きな滝が見えてきた。その滝は上から下へと水を降ろしておらず、下から上へと水が登っている。滝の周辺には今まで歩いてきた水にも浮かんでいた蓮の花が一面に咲乱れ、月の光を浴びてまばゆく暖かい桃色に輝いていた。

『ついたぞ。』

男は短くそう言うと、白い布を私の腕に引き渡してきた。

「え、あの…。」

『これが最後だ。』

「さいご…。」

男の言葉に私は白い布に包まれた我が子を抱きしめた。

初めて抱く我が子は、想像したよりも小さく、力を入れすぎると潰してしまいそうな程だった。

胎の中にいる時は一体どこまで大きくなるのかと少し戸惑いもしたが、実際に抱きしめてみると、こんなにも小さくて、こんなにも儚い命だったなんて。

私は我が子の顔を見ようと恐る恐る白い布をめくり、私は大きく目を見開いた。

「ああ…、ごめんなさい…ごめんなさい…。」

私は縋るように再び我が子を抱きしめた。

私の愛おしい我が子には両目が無かった。

「ごめんなさい…ごめんなさい…。」

溢れる涙がポタポタと足元の蓮の花に零れる。

あまりにも未完成なその姿が、あまりにも速く訪れた死を物語っている。

「ああ…どうして…どうしてあなたが…。」

小さな顔の輪郭を確かめる様に撫で、その柔らかい頬に自分の頬を寄せる。

見れば見るほど、触れれば触れるほど、この子が愛おしくて手放したくないと思った。どんな姿であっても、この子が私の子だというのは変わらない。あの男は最後だと言ったが、最後にする必要がどこにあるのか。こんなに愛おしい存在となぜ別れなければならないのか。この子と生きることは叶わなかった、今この子を手放してしまったら、私にはこの子の母だという証が、繋がりが何一つとして残らない。

この体だけでいい、愛おしい我が子‟だった”この体と共に朽ちるまで共にいたい、私にはもうこの子しかいないのだから。

「いっしょに…、おかあさんは、ずっとあなたと一緒よ…。」

こちらの声などもう聞こえるはずもないのに、腕の中の我が子は、私の声に反応して微かに微笑んだ様に見えた。

「嬉しいの?おかあさんも嬉しいわ。おかあさん、あなたにずっと会いたかったの。我が子がこんなに可愛い子で本当に嬉しいわ、ずっと…おかあさんが守ってあげるからね…。」

『本当にそう思うのなら、その子をしっかり見送ってやれ。それがお前の‟母親としての”役目だ。』

我が子を抱きしめる私の背後から男の声が背中に突き刺さる。

嫌だ、

この男は私とこの子を引き離そうとする、私の幸せを、私の望みを奪おうとする。大体、‟母親としてなにが正しいのか”など、この男に分かるはずがない。

私はこの体で、この命を育んできた。

私はこの心で、この命を慈しんできた。

それを奪われた悲しみ、奪われる苦しみ、痛みが、この男に分かるはずがない。

私のこの想いは、‟母親だからこそ”抱くものなのではないか。

「い、やです!私は、この子を手放したくありません!」

子供を強く抱きしめ、男を睨み付けると、男は形の良い眉を歪めて深いため息を付いた。

『お前の気持ちではない…、母親としてお前は‟その子の為に”そうしなくてはいけないんだ…。お前が母親としてどうしたいかではなく、その子の為に母親としてどうしなくてはいけないかだ…。』

「は、母親として…この子の為に……?」

『お前の愛は美しい、肯定しよう。しかし、お前の子はもういないのだ、その体にこの子の魂を乗せて送ってやらなければ、お前の愛しい子は死して尚、死の痛みを繰り返すことになる。それがお前の“母親として望むこと”なのか?』

男はそう言うと、両手で持っていた大きな蓮の花を私の前に差し出してきた。

大きく花開く花びらの中心に、小さく丸い光がチカチカと光っていた。

『お前をずっと待っていたんだ。』

「ああ…ああぁぁぁああああああああ‼」

白い布に包まれた我が子の亡骸と、蓮の花を両腕に抱きかかえ泣き崩れる私の肩を男は優しく撫で、小さく何かを呟いていた。

『すまない…。』

声が枯れるまで声を上げて泣いた私は、気が付くと白い布と蓮の花を抱えたまま、男の膝で眠っていた。

ハッと目を覚ました私は、腕の中の我が子を確かめる。

確かに両腕に我が子を抱いているが、心なしか、蓮の花の中の光が最初に見た時よりも小さく、弱々しくなっている。

「ごめんなさい…、おかあさんが弱いから…。」

私がこの子を失って苦しんでいるように、この子もずっと苦しんできたのだと先刻のこの男の言葉と共に痛感した。

今、この子を苦しめているのは紛れもなく私自身だった。

『もう限界だ…送ってやれ。』

男の言葉に、私は大粒の涙を零しながらも頷き、我が子を包んでいる白い布を外し、そっと蓮の花の中へと降ろした。

「ごめんね…、痛かったよね…辛かったよね…。」

チカチカと光る小さな丸い光は蓮のスッと体の中に溶け込んでいくと、その瞬間に子供を乗せた花が輝き、そのまま独りでに滝の方へと流れて行ってしまった。

「ああ…!」

愛おしい我が子を乗せた花は美しく輝きながら、ゆっくりと滝を登っていく。

我が子の為と分かっていても、やはり遠のいて行くのを見送るのが辛くてギュッと目を閉じた。今にも追いかけて、再び抱き上げたい衝動を胸に手を当てて堪える私に、『最後まで見送ってやれ、お前の子も目を背けられるのは辛いだろう。』と男が静かに言った。

「ふぅ…、ああぁぁ…愛してる…ずっと…ずっと…!あなたにこの声が届かなくても…ずっと…!」

ボロボロと再び溢れ出す涙でぼやけた視界で、懸命に我が子を乗せた花を見つめる。

あなたを守れなくてごめんなさい、

産んであげられなくてごめんなさい、

こんな弱いおかあさんでごめんなさい、

私をおかあさんにしてくれてありがとう、

私に‟愛おしい”という感情を教えてくれてありがとう、


さようなら、ずっと愛しています。




天へと続く美しいく穏やかな滝を登っていく花は、目で追える高さの限界までいくとキラキラと虹色に輝きながら次第に見えなくなってしまった。




我が子を見送ってから、どのくらいの時間が経ってしまったのか、水面にへたり込んでいた私は、後ろから聞こえてきた男の声でハッと我に返った。

『行くぞ。』

声に振り返ると、男は出会った時と全く同じ顔でただ私を見降ろしていた。

「どこに…?」

男は座り込んでいた私を後ろから支えながら立ち上がらせ、掠れた私の声に『お前はもうここにはいられない。』と短く答えた。

「いられない…?」

『お前にはまだ、役目が残っている。行け。』

ヨロヨロと力なく立つ私に、男はそう言うと、ポンと背中を押した。

「え……あの…。」

戸惑いながら後ろの男を振り返るが、男は変わらぬ表情でただじっとこちらを見つめているだけだった。

「私は一体…。」

私に、この男はどこへ行けと言っているのか。

楽園を追われた私に戻る場所など無く、唯一の‟母親”という役目もたった今失ってしまった。

「私には、もうなにも…。」

なにも残ってなどいない。

俯く私に、男はゆっくりと歩み寄って来ると、私の顎を片手で掴み、その強い瞳で私を覗き込んできた。

『お前の生はまだ終わっていない。お前が生きている限り、お前の生はお前の役割…いや、お前を必要とする存在があるということだ。忘れるな、お前はお前だけでなく“他の存在の為”にも存在する。勝手に自分は必要ないなどと思うな、どんなにお前を追い詰める者が多く居ようと、お前はお前を必要としている存在の為に生き残れ。』

水面から反射する光が男の瞳に差し、暗緑に輝く瞳の奥から目が離せなかった。

強い瞳で、美しい唇から放たれる力強いその言葉に、私の心は震えた。

まだ、私という存在に価値があるのだと思うと、枯れ果てた涙が再び溢れ出した。そして、空っぽになった私の心の小さな器に、底からジワジワと水が湧き上がってくるのを感じた。

「私に……、出来るでしょうか…自分の子供も守れなかった、こんなにも弱い私に…誰かの為になど…。」

男の着物の衿を縋るように掴み、私は再び男の目を見つめた。

私はもう一度確かめたかった。

この揺らぎ安い不安定なこの心で生きていく自信が私にはなかったから。だから誰かに肯定して欲しかった、“大丈夫だ”と“お前なら出来る”と。

もう一度、その力強いその言葉が欲しかった。

私は必死に男の美しい唇が動きだすのを見つめた。

『強くなくては困る、行けばお前にも分かるだろう。』

「あ……。」

自分の瞳が期待外れの男の言葉に大きく揺れたのが分かった。

『そろそろ行け。』

男は短く言うと、縋りつく私を無理矢理引き剥がす様に離れ、ドンと私の肩を強く押した。

態勢を崩して後ろに一歩水面に着いた筈の足から一気に水の中へ投げ出された。

「⁉」

ついさっきまで水面に立てていたはずなのにと困惑しながらも私は水面から顔を出し、必死に男の足に縋りつく。

「待って!私は…、私独りでは…無理です…。」

『…………。』

水に吞まれそうになる私を、男はただ無表情で眺めていたかと思うと、足に縋りつく私の頬に冷たい手を添えて囁いた。

『…今度こそ、守り切れ…。』

「…………。」

そう言って私を見つめる男の顔はあまりにも悲しく、痛々しいものに見えた。

強く輝く黒曜石のような黒い瞳は涙で揺れ、その美しい唇は小刻みに震えている。サラサラと穏やかに吹く風に揺れる艶やかな長い黒髪の輝きの中に一瞬、なにか見えた気がしたが、ハッキリと捉えることは出来なかった。

『……時間だ。』

男の言葉と共に、穏やかだった湖に突如、渦が巻き起こり私の体はどんどんと渦へと巻きこまれていく。

「ああ‼たす…け…。」

渦に呑み込まれていく私に男が悲しく微笑みながら何か呟いているのを最後に見て、私は意識を手放した。


『……すまなかった。』

男のその言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。




目が覚めた時、私は再び雪の上で目が覚めた。

凍える空気と美しくも冷たい雪がしんしんと私の体に降り積もり、吐く息が温かな蒸気となって空へと登っていく。

体が重い。

まるで体全体を物凄い力で押さえつけられているようだと思った。

呼吸を繰り返し上下する胸が、肺が、空気を体に取り込もうと必死に動く度に鈍痛が襲う。

このまま…、ここにただ寝転んでいれば私は死ねるのだろうか。

息をするのが、こんなにも苦しいのは何故だろう。

懸命に鼓動を刻むこの心臓が、こんなにも憎く、煩わしく思えるのは何故だろう。

だけど…、なぜだろうか…。

“今度こそ、守り切れ…――”

あの言葉が心に絡みついて離れない。

図々しく生きようと生命活動を続けるこの身がこんなにも恨めしく、こんなにも苦しいのに、自分で自分を殺してしまえない。

あの言葉のせいで、あの男のせいで。

“お前はお前を必要としている存在の為に生き残れ”

「ああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!」

私は頭を抱え、頭に響き続ける男の声に見悶えた。

まるでその言葉が茨となって私を強く縛り付け、締め上げてくるように、思うように体が動かない。

(……これは呪縛だ。)

あの男の言う通り、私は“生きようと”しなくてはならないらしい。

体を動かすその内実がどうであろうと関係ない、私は“生きること”をあの男に義務付けられたのだ。

(……なんて、なんて酷い…。)

私が生き残り、あの男から与えられたのはこの傷一つない体と、自分では死すら選択できない“定め”と孤独。

「ああ…、わたしは…一体…。」

真っ暗な空から尚も降り続く雪だけが、私に寄り添うように優しく、徐々に私の体温を奪っていく。

「…………。」

体が冷え切り、次第に心地良い睡魔が私を絡めとろうとした時、どこからか唐突に赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

「⁉」

その声に私は飛び起き、声の方角を探す。

どうやらその声はどんどんとこちらに近づいているらしく、泣き声がだんだんと大きく、ハッキリと聞こえてくる。そしてよく耳を澄ませると、泣き声以外に何かが雪の上をズルズルと這うような、引きずっているような音がしているのも分かった。

私は体の雪を払い、ゆっくりと立ち上がり、その泣き声に惹きつけられるように泣き声に向かって歩き出した。

そして私が目にしたのは、真っ暗な雪の中、大きなオオカミが赤ん坊を乗せた籠を引きずり、ヨロヨロとこちらに向かって歩いてくるところだった。

私は反射的に身構えたが、オオカミは私を一目見るなり、力尽きたのかその場にドサリと倒れ込んでしまった。

いつ起き上がるかと、しばらく様子を伺っていたが、オオカミの体が動き出すことはなかったので私が警戒しつつ、ゆっくりと赤ん坊に近付いたその時、倒れ込んでいたオオカミが唸りながら顔を上げ、鋭い爪を私に振り上げた。

「うっ…!」

それを見た私は無意識にオオカミに背を向け、泣き続ける赤ん坊の入った籠に覆いかぶさったが、その鋭い爪が振り下ろされることはなかった。

「…………?」

「お前か…私からその子を奪うのは…。」

まるで地響きのようなその声は、私の身を震わせた。

その恐ろしさに、私は後ろを振り返ることが出来なかった。目を固く閉じ、背後に感じる獣の荒々しく血生臭い呼吸に耐えていた。

しかし次の瞬間聞こえてきたオオカミの声に私は目を見開いた。

「ああ、私の愛しい子…どうか…どうか…。」

あまりにも切なげで温かなオオカミの声に私が驚いて振り返ると、その瞬間オオカミはドスンと再び雪の上に倒れ、呼吸を止めた。

籠の中の玉の様な赤ん坊と、横たわるオオカミの姿を目の当たりにして私は直感した。


“これが私の役目”だと。



「ありがとう…。」

倒れたオオカミの逞しい顔を撫で、頬を流れ落ちる涙を着物で拭い、私は籠の中で泣き続ける赤ん坊を抱き上げると、ギュッと抱きしめた。

柔らかく、とても温かい。

この子が、私に生きる意味を、絶望し失ったと思っていた“母親”という役割を再び与えてくれたのだ。

「大丈夫、泣かないで…怖くないからね…。」

そう言って私は泣きじゃくる赤ん坊を再び胸に押し付けるようにして抱きしめた時だった。

赤ん坊と私の胸が触れ合った部分がふんわりと温かくなったかと思うと、そこから小さな花が生まれ、そのまま私達の体をすり抜けて地面に積もった雪の上に散っていった。

「こ…これは…。」

私はギョッとして抱きしめていた赤ん坊の顔を改めて見ると、ベタベタとした黒い髪は靄が消えていくようにゆっくりと白銀に輝き、大きな瞳は透き通るようなアクアブルーに色を変えた。

「この子は……。」

自分の声が震えているのが、自分でも分かった。

しかし、こんな都合の良いことなどあって良いのだろうか。

この子がなぜこんな所にいるのか経緯は全く分からないが、紛れもなくこの子は“月の人間”だ。楽園を追われたこの私と同じ…、‟月の子供”だ。

信じられない事態に私の瞳が大きく揺れる。

そして再びあの男の言葉が頭に響いた。

“今度こそ、守り切れ”

同じ言葉なのに、あの時とは全く違う意味に聞こえた。

これは呪縛でもなんでもない、この子は私の為に存在し、私はこの子の為に存在しているのだと思えた。

「今度こそ、私はあなたを守り抜く…絶対に…。だから一緒に生きてくれる?」

赤ん坊はその大きく澄んだ瞳で私を見つめ、パッと花が咲いた様に微笑んだ。


この笑顔を守るために、私は強くなろう。

この子の為に、私は私の命を精一杯この子に注ぎ込もう、あの子にしてあげられなかったことを、せめてこの子には…。


赤ん坊の柔らかく、温かなぬくもりが私の孤独だった心まで温めて溶かしていくようだった。













































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ホワイトアウト ださい里衣 @momopp0404

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