第2話 バレンタイン
いつも通りのお家デート。一緒にいるけどそれぞれ別の本を読む。くっついて暖かい背中だけがそこに二人で居る意味を持っていた。
「バレンタインてさ、予定ある?」
今日の朝からずっと聞きたかったことをようやく口にした。目は一行も読めていない本の文字を見たままで、背中は莉子にくっつけたまま。喋った時に伝わる振動がくすぐったかったのか、後ろの背中が少し動く。
話した時の振動が伝わるのなら、このバクバクと煩い心臓の音も聞こえているんじゃないかと思った。すぐに返答はなく、静かな部屋の中で自分の心臓の音だけがする。……さらに煩くなった気がする。
小さくため息が聞こえて、自分の言動の何かしらが莉子の気分を害したことを知る。慌てて何か付け足そうにも何がダメだったのかがわからなくては何もできない。
「その日は朝から晩までバイトが入っている」
冷たくそう返されて、驚いた私は密着させていた背中を引き剥がして振り向いた。
「え、会えないの?」
私にほとんど体重を預けていた莉子はそのままこちらに倒れ込んできたので、慌てて両手で支える。体勢を立て直して振り向いた莉子の眉間には皺。急に体を引いたことでバランスを崩し、転倒しかけたことに対して怒っているのか、それ以前の何かに起こっているのかは判断できなかったが、小さく謝っておく。
それを無視して莉子は言った。
「うん、別に他の日に会えるから良いでしょ?」
良くない。と、すぐ言えたら良かったのだろうか。ラブラブでお互いのわがままを仕方がないなぁとか言って妥協し合えるような、そんなカップルなら言えたのだろうか。……いや、ラブラブなカップルならこんな提案はされないだろう。
「……まぁ、うん」
結局、そう言うしかなかった。バイトが入っているなら今更ごねてもどうにもならない。それにこれ以上、莉子の気分を害して嫌われてしまうのは怖かった。臆病な私はいつだって聞き分けの良い、都合の良い恋人だ。
あまり納得いっていないのが顔に出ていたと思うが、莉子はこれで会話終了とでも言うように私に背を向け、また元のように本を読み始めた。莉子の背中から早く凭れさせろよという圧を感じて、私も元の姿勢に戻り莉子の背中に自分の背中をくっつけた。すぐに体重がかかってきて、その重みで少しだけ満たされる。ほんの少しだけ。
付き合ってそこそこ経って、もう莉子の前の恋人より長い付き合いになって、少しずつ距離も縮まって、ここ最近は何となくだけど心を許してくれている気がしていた。好きになってくれたかもしれないと思っていた。それでもなんだか私たちの関係は恋人という名前で良いのかわからない時が多い。こうして家で遊ぶのなんかは、別に友達でもできるんじゃないかって思ってしまう。
恋人ってなんだろう。バイブルにする気はないが、それでも他人の恋愛観だとか、他人の恋人像だとか、そういったくだらないものが気になってしまって借りた恋愛小説をまた開く。結局まだ三ページしか読めてない上に、その三ページの内容を忘れてしまった。
何をしているんだろうと虚無感に襲われている私に、莉子は「あ、バレンタインとかイベントはめんどくさいからパスね」と、どうでもいいことを思い出したテンションで言った。
え、チョコくれないの?
指先が冷えていく。幻聴ということにしたかった。
「良いよね?」
振り向きもせずにそう続ける莉子が現実逃避を許してくれない。
「……うん」
そう言う以外に選択肢なんてあっただろうか。決して強い口調ではなかったし、嫌だと言おうと思えば言えたかもしれない。ただ莉子があんまりにも軽い口調で言うから、莉子にとってこれは本当に大したことないことなのだろうなと察せられて、なんだか自分がおかしいような気がしてしまった。
日本ではあまり浸透していないマイナーなイベントや文化ならわからなくもない。でもこれ以上ないくらい日常に定着しているバレンタインを無視するカップルなんて居るのだろうか? チョコレート会社の陰謀だとしても、恋人のためにそれに乗っかってやるのが恋人ってものではないのだろうか?
私たち付き合っているんだよね? なんて再確認する勇気はない。何故なら告白の時と違って勝率が低いから。
あれ、そうだっけ? なんて言われた日にはどうすれば良いのか。めんどくさいから別れようとか、最初の告白の時の話と違うとか……良くないことが起こる予感しかしない。そんなことは望んでいない。
好きな人と付き合えていて、好きな人を独り占めできている状況なのに、一ミリも楽しくない。手足の感覚がなくなっていって、あれだけドキドキしていた心臓は……死んだのかな? 鼓動を感じない。
せっかく二人きりなのに莉子は本ばかりを見ていてつまらないと思った。こっちを見てほしい、私を見てほしいと思っていた。でも今はなるべく本に集中して私のことを考えないでほしい。
気が付かないでほしい。私と付き合っていて莉子に良いことが無いことに。
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