Dear K
増田朋美
Dear K
Dear K
その日は立春ということもあって、穏やかな晴れた日であり、お出かけ日和というのにふさわしい日であった。多くの人が、家を留守にして出かけてしまう人が多い中、杉ちゃんはどうしているのかというと、相変わらず製鉄所へ行って、水穂さんにご飯をたべさせようと、やっきになっているのだった。
相変わらず水穂さんは、ご飯をたべる気がしないと言って、何も食べない状態が続いているのであるが、愚痴ひとつ言わないで、食べろ食べろと言い続けることが出来るのは、杉ちゃんだけであった。杉ちゃんが、一生懸命、食べろと言い聞かせていると、インターフォンのない玄関がガラッと開いて、二人の男性が入ってきたことがわかる。誰かと思ったら、出前用のラーメンカバンを持ったぱくちゃんと、にこやかにわらったジョチさんだった。
「おい、ラーメンの出前を頼んだ覚えはないけど?」
杉ちゃんが驚いてそういうと、
「ええ、僕が頼みました。いつも、食事をさせるのに一苦労しているというのは、利用者から聞きましたので、それなら、一寸変わったものを食べてみたらということになりましてね。もちろん、料金はちゃんと払ってありますから、気にしないでくださいね。」
ジョチさんは、何も表情を変えずに言った。その間にぱくちゃんは、カバンを開けて、どんぶりを三つ取り出した。
「水穂さんが食べられないのはちゃんと知ってるからね。肉魚一切抜きで作ってあるよ。」
ぱくちゃんは、どんぶりを水穂さんの前に置いた。中身は、トマト味の赤いソースで煮込んであるコメと野菜の雑炊のようなおかゆだった。
「おう、うまそうじゃないかあ。じゃあ、せっかくぱくちゃんが持ってきてくれたんだから、しっかり食べようね。ほらどうぞ。」
杉ちゃんは、ぱくちゃんに渡されたおさじでおかゆをかき回し、それを、水穂さんの口元へもっていった。さすがに、水穂さんも誰かに作ってもらうことになったら、食べないわけにはいかないと思ってくれたようで、やっと中身を口にしてくれた。
「あら、良かったね。やっぱり、ぱくちゃんみたいな、料理人に作ってもらうと、味が違うよね。ぱくちゃんありがとうね。なかなか食べてくれないから、困っていたところだよ。」
杉ちゃんがそういうと、
「いやいや、ただのウイグルの間で流行っている料理を作っているだけだよ。杉ちゃんと理事長さんには、これを持ってきたから食べて。」
と、ぱくちゃんは、杉ちゃんとジョチさんにどんぶりを渡した。中に入っているのは、黄色いさぬきうどんのような太い麺に、野菜入りの赤いトマトスープをぶっかけた、ラグマンという料理である。ぱくちゃんの話によると、これが漢語でなまってラーメンというようになり、様々なアレンジを経て、日本に伝わったというのだ。だからぱくちゃんは、ラーメンを発明したのは、自分たち民族だと自信を持っていた。杉ちゃんたちも、いただきまあすと言ってラグマンを口にした。確かに、一から十まで手作りだから、インスタントラーメンに比べると、ずいぶんうまいものだった。ラーメンは栄養バランスが良くないとされるが、これであれば、栄養をちゃんとつけられるほど、野菜が大量に入っている。
「実はぱくさんから、何か相談があるそうです。一寸、協力してやってくれますか。なんでも変な拾いものをしてしまったそうです。」
食べ終わったあと、ジョチさんがそういうことを言いだした。
「はあ何だ?何か困ったことでもあったかい?」
杉ちゃんがそういうと、
「実はこれなんだけど。」
ぱくちゃんは、一枚のピンク色の封筒を取り出した。あて先は、特に明記されておらず、DearKのみ書かれていただけだった。
「昨日うちの店に来た女性が、落としていったんだ。あまりに急いでいるようだったから、忘れていったんだと思うんだけど、今日になっても、落とし主が現れないので、何だろうと思って、思わず封を開けてしまったんだけど、とんでもないものが入っていて。」
と、ぱくちゃんは、はさみで切ってしまった封筒を開けて、中身を出した。何だろうと杉ちゃんが言うと、封筒から、ひとりの女性に抱っこされた、生まれたばかりの赤ちゃんの写真が出てきたので、杉ちゃんもジョチさんもびっくりする。
「これは、どこの病院で撮った写真でしょうか。特に病院名などは明記されていませんが、この風景はなんとなく記憶がありますよ。多分きっと、中島産婦人科ですね。このピンクの建物は多分そうです。」
「ということは、つまり、これは出産の記念写真であることは間違いないと思うんだ。だから、どうしても、持ち主に返したいんだよ。そんな写真をなくすなんて、一寸ショックも大きいんじゃないの?」
ぱくちゃんがいかにも発展途上国の住人らしい、表情豊かな顔つきでそういうことを言った。
「そうだねえ、確かにポストに出したかったが、出せなかったという感じの手紙だな。切手は貼られてないけど、すくなくとも、ちゃんと封はしてあるってことは、送るつもりだったんだろうね。」
と、杉ちゃんがそれに同調する。
「そうだろう。だから僕、どうしても持ち主に返したいの。こんな写真を送るっていうことは、絶対、大事な手紙だったと思うから。」
「落とした女性の容姿とか、特徴的なことはありませんでしたか?顔つきだけではなく、太っていたとか、そういう体つきの特徴でもいいですよ。」
ジョチさんが、そういうぱくちゃんに聞くと、ぱくちゃんは、
「それが、厨房にいたので、僕はちゃんとその人の顔つきを見てないんだよ。顔に大きなほくろがあったとか、そういうところを覚えていれば良かったのかもしれないけれど、なんでもお昼時でちょうどラーメン屋にとっては、一番忙しい時だし。」
と、申し訳なさそうに言った。
「でもこの女性は、すくなくとも、無名の女性ではありませんね。」
いつの間にか、黙っていた水穂さんが、そういうことを言いだした。いきなりの発言だったので、杉ちゃんも、ジョチさんもびっくりしたが、水穂さんの表情は変わらなかった。
「無名の女性ではないっていうと、すくなくとも、名前を知られている女性ということかなあ。」
杉ちゃんが聞くと、
「ええ。僕が、現役で演奏していた時に、一度彼女にお会いしたことが在りました。おそらく、この女性は、中原貴代だと思います。」
と、水穂さんは答えた。誰なんだその人って、と、杉ちゃんだけがわからない顔をしているが、ほかの三人は、あああの人かとすぐにわかったようだ。
「中原貴代、現代の姓は、確か、久保貴代でしたよね。確か、数年くらい前でしょうか、女性のみで結成された音楽バンドの一人でしたね。僕は詳しく知らないですけど、映画の主題歌も担当したくらいヒットして。でもある日突然、姿を消したという。」
ジョチさんがそういうと、
「うん、確かに面影はある。なんとなくテレビで見た感じする。確かに、そういわれてみればそういう気がする。」
ぱくちゃんもそれに同調した。
「一時期、どこにいても彼女たちの音楽が流れている時期がありましたよね。確か、短命バンドで、ほんの数年しか活動しませんでしたけど、いずれも、ポップミュージックでは、知らない人はいないかもしれない。」
「水穂さんよく知ってるな。やっぱり音楽業界にいたから、そういうことはわかるんだな。」
杉ちゃんは、一寸、驚いた顔をした。
「で、その有名人が、なんでぱくちゃんの店に来て、変な手紙を置いていったんだろうか。第一、あて名は誰なんだろう。」
「いや、杉ちゃん、確かに数年前であれば有名人であったけど、今は、そうじゃないからね。僕なんとなくわかるんだけど、僕も日本人になりたくて、日本の有名な観光地を巡って、写真を撮りまくったことが在ったよ。其れと同じ気持ちで彼女も出産記念写真をとったんじゃないか。其れで、その写真を、Kというひとに送るつもりだったんじゃないの?」
ぱくちゃんがそういうと、ジョチさんも、
「はい、確かに辻褄は合いますよ。彼女の現在の名字は、久保ですから、その頭文字はKですしね。」
といった。
「でも彼女は、芸能界を引退して、かなり時間はたっていると思いますけどね。」
水穂さんがそういうと、
「まあ、そうかもしれないですけどね。又何か変わってきたのかもしれないですし。とにかく、この写真に写っているのは、間違いなく、久保貴代さんであるのでしょうから、彼女に写真を返さなければならないでしょう。」
ジョチさんがそう結論付けてくれたため、皆この写真を持ち主の、久保貴代さんに返すことで決定した。写真は、久保貴代さんが、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いている写真が一枚、そして、医者かあるいは看護師かもしれない、中年の女性と一緒に、病院の玄関先で写っている写真が一枚入っていた。この中年の女性の名前が出ていればもっと良かったかもしれないが、その玄関先に大きな桐の木が一本植えられていることとから、ジョチさんの記憶で中島産婦人科医院であることは確定した。
「でも、男である僕たちは、産婦人科のひとに話を聞くのはちょっと、難しいんじゃないの?」
ぱくちゃんが言う通り、確かに産婦人科は、女性ばかりだ。確かにそんな中に男性がのこのこ行くのはちょっと、恥ずかしい気がする。
「まあ、確かにそうかもしれないけどさ。お前さんは、久保貴代に、写真返したいんだろ?それに医者は大体男である場合が多いと思うけど?」
杉ちゃんがそれは心配ない顔つきで言った。
「まあいいじゃないの。とりあえず、中島産婦人科へ行ってみて、そこでこの女性スタッフに聞けば何かわかるかもしれない。悪いけど、車出してもらえない?」
ジョチさんは、はいわかりましたと言って、運転手の小園さんに電話した。数分後、車はすぐ来た。杉ちゃんとぱくちゃんは、急いで小園さんの車に乗り込み、中島産婦人科医院に向った。中島産婦人科は数分走ったところに在った。確かに、産婦人科ということで、患者さんも看護師も女性ばかりだ。でも、杉ちゃんは全く悪びれた様子もなく、受付に行って、直ぐに写真をみせ、この写真に写っている女性スタッフを出してくれ、といった。
「ああ、この写真なら、斎藤先生ですね。一寸呼んできますので、お待ちいただけますか。」
受付係にそういわれて杉ちゃんたちが、しばらく待つと、やっぱり写真の通りの顔をした女性医師が、杉ちゃんたちの前に現れた。
「すまんが、この写真をお返ししたいと思うんだがね。この写真に写っている久保貴代さんは、何処に住んでいるか教えてくれ。これ、彼女の出産の記念写真だろ?撮ったのは、たぶん、久保貴代さんのご主人だと思うけど。教えてくれないもんかね。」
と、杉ちゃんがいきなりそういうと、その女性はちょっと悲しそうな顔をした。
「ああ、そうですね。久保さんが、そういえばこんな写真を撮っておられました。」
「だから、そうじゃなくて、彼女にこの写真を返したいんだ。彼女が、こいつが経営するラーメン屋に行って、そのまま忘れていったんで。」
と、杉ちゃんが、悲しそうな顔をしている女性にそういったのだが、女性は、
「ああ時すでに遅かったかもしれません。」
とだけ言った。
「久保貴代さんの赤ちゃんは、私が取り上げました。この出産記念写真を撮ったのも、ご主人の久保さんが撮ったことは間違いありません。それは確かなんですけれども、、、。」
ということは、この女性は、産婦人科医か、それとも助産師のいずれかである。
「だったらなんだよ。もう変わっちゃったの?」
と杉ちゃんが聞くと、
「ええ。変わってしまったんですね。産んだ時はまだよかったかもしれないんですけど。その気持ちを忘れないでいてくれればよかったと残念でなりません。」
と、女性は答えるのであった。
「ということはつまり、、、。こういう事か。産んだ時は感動があったけど、育てるのが大変すぎて、犯罪者にでもなったわけね。まあまったくね。こういう事件がさんざん多いよな。なんで、そういう風になっちまうんだろうな。」
杉ちゃんだからこそ、即答できてしまうのであるが、ぱくちゃんはちょっといやな気がしてしまわないでもなかった。
「ウイグルの社会では、産んだ子を手にかけるなんてことはしなかったんだけどなあ。仮に、親が育てられなくなったら、誰か知り合いにでもお願いするとか、そういう事で当たり前だったんだけどなあ。」
ぱくちゃんは、ぼそりとつぶやいた。
「そうか。じゃあ、生まれた赤ちゃんは、もうこの世にいないのか。なんかそれも悲しいねえ。其れで、そのお母さんの方はどうしたの?」
「ええ。私たちは、詳しく知りませんが、直ぐに出頭してくれたとニュースで知りました。彼女は、親としては失敗したかもしれませんが、そこだけは良かったのかもしれません。新生児を預かって、何人かうまく育てられなかった人の相談にも乗ったりもしました。でも、彼女、久保貴代さんは、お母さんになる事よりも、芸能人でいる方を優先しすぎたんでしょうね。私たちも、久保さんの相談にはよくのって、出来るだけ赤ちゃんのほうへ、関心を向けてくれるようにしたかったんですけど。それは、医療関係者にはできませんでしたね。」
と、斎藤先生は言うのだった。
「どうしてその久保貴代さんは、赤ちゃん育てる前に、仕事を優先しすぎてしまったのだろうね?」
ぱくちゃんは斎藤先生に聞いた。
「ええ、私も、よくわからないのです。久保さんは、芸能人として成功した人ですから、お金に不自由していたわけでもないし。私たちはせめて家政婦さんでも雇ったらどうかとか提案したけれどそれもしませんでした。もし、家政婦さんがいてくれて、家の事をやってくれる人がいてくれたら、彼女はもう少し、赤ちゃんのことについてみてあげることができたのではないでしょうか。」
そう答える斎藤先生に、
「なんで赤ちゃんは、あの世に行ってしまったの?何か、理由でもあったの?」
ぱくちゃんが詰め寄るように聞くと、
「ええ。なんでも、窓を閉め忘れて、箪笥の上のあった毛布が落ちたことによる窒息死でした。貴代さんは、急に呼び出されて、急いで仕事に行ったので、窓を閉めるのを忘れていたそうです。」
斎藤先生は、申し訳なさそうに答えた。
「そんなこと、注意をしない母親がいるかなあ。少なくとも、僕たちは、子供を放置して出てしまうということはしなかったからな。仕事に行く必要があったら、誰かに預けるとか、そういうことをしていた。其れに、女の人が、仕事を持つことは、よほどのことがない限りなかったし。夫婦はいつも一緒にいて当たり前だったのに。」
ぱくちゃんは、よくわからないなという様子だったが、
「いや、日本では十分あり得る話だよ。今、日本人は家族一緒にいることは幸せじゃないやつが多いから。まあ、ぱくちゃんには分からない話しかもしれないけどさ。芸人なんてやっている女性だったらなおさらだ。こういうやつは、苦労しているやつが多いけど、それを他人のほうへ向けるということができないからな。」
と、杉ちゃんは分かってしまったようだ。
「父親は、どこにいるのかな?」
と、ぱくちゃんは聞いた。
「いちおう、久保貴代と名乗っていたんだから、父親がいたはずだろう?子供ってのは、片っぽだけではできるもんじゃないし。」
「それがですね。」
と、斎藤先生が言った。
「皆さんもご存じないのですか?中原貴代さんが結婚した時、ワイドショーでかなり話題になりましたよね。テレビで名前がよく出てました。あの、百貨店を経営している、経済人のひとりだって。確か、貴代さんが、赤ちゃん産んですぐ、育児の方針の違いで結婚生活は、数年しか持ちませんでしたよ。」
「はあなるほどねえ。金持ちがよくやりそうな事だ。なんでも手に入ると、そういう風に疎ましくなるんだよな。まったく、欲しいものがすぐ手に入るやつってさ、なんでそういう風に、子供に冷たくなっちゃうのかな。」
杉ちゃんはすぐ反論した。
「ということは、あの記念写真を撮って送ろうとしていた人は、貴代さんの事を捨てていたのかな。其れで、貴代さんは躍起になってたのかもしれないね。」
「一番かわいそうなのは、毛布がかぶさったことで命を落とした赤ちゃんだよ。でも、お母さんが、直ぐに出頭してくれたところは、日本もまだよかったと思う。」
ぱくちゃんは、発展途上国の住民という立場から、そういうことを言った。ぱくちゃんからしてみれば、日本社会はなんでも買えて、ウイグル人であるからと言って、変に洗脳教育をされたりする可能性もない、すごいところだと思っていたのだが、どうも子供を育てるという面では、ウイグル人の貧しい社会のほうが、優れているような気がした。
「じゃあ、この写真どうする?」
と、杉ちゃんは、改めて、久保貴代と、赤ちゃんが写っている写真を見ながらそういった。
「まあ、うちの店にでも飾っとくよ。かわいい赤ちゃんだから、悪い印象はないと思うよ。」
ぱくちゃんが言うが、
「それ、うちの病院で処分しましょうか?」
斎藤先生が、そういうことを言いだした。それでは、本当に赤ちゃんが生まれてきた意味がなくなってしまうのではないかとぱくちゃんは思った。
「いや、処分しないでください。」
なぜか、ぱくちゃんの口から、この言葉が継いで出た。
「其れよりも、赤ちゃんが、たった数週間でも、この世にいたという記録みたいにしてほしい。そうしないと、本当にその子は、ごみのように捨てられてしまった気がする。少なくとも、ごみではないんだし。其れは、ちゃんと、保管しておいてもらいたい。」
「えらいな。ぱくちゃんは。日本人でもそういう気持ちがあるといいのにねえ。」
杉ちゃんは、一寸うらやましそうに言った。杉ちゃんの側からしてみれば、まだ、そういう暖かい気持ちをしている人間が、外国にはいるということなんだなということである。
「わかりました。その通りにしておきます。」
斎藤先生は、そういって、杉ちゃんから写真を受けとった。でも、確実にそういう事をしてくれるかどうかは不詳だなとぱくちゃんは思った。
Dear K 増田朋美 @masubuchi4996
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