その10
父が亡くなってしばらく経ってからの事である。
彼女は大学を中退し、より収入を多く稼ぐために、昼夜でアルバイトを兼任していた。
夜は水商売、そして昼間には宅配会社で配送ドライバーという具合だった。
ある日、彼女は荷物を持って、菜穂子達が暮らしていた町を訪れた。
本当に、たまたまだったのである。
そして、
”佐伯”と表札の出た家の前に立ち、呼び鈴を鳴らした。
出て来たのは紛れもなく母だった。
ルリはすぐに母だと気づいた。
思わず”お母さん”と声を掛けようとしたが、向こうはルリの事を気付かなかった。
全く会ったことのない、赤の他人に接するように応対した。
ドアを閉める刹那、小学生くらいの男の子が奥から出て来て、ママと呼びながら彼女に笑いかける。
彼女も微笑みを返し、二人してそのまま家の中に消えて行った。
その時の声は自分に対するのと違い、紛れもなく母親そのものの声だったという。
『はっきり分かったわ。”もう私達には母親はいない。私が一人で弟達を支えて行かなければならない。そう思ったのよ』
同時に”あの女と、そしてあの女の亭主には復讐をしなければならない。殺してしまうのは簡単だ。しかしそれでは私たちの気が収まらない。あいつらには私たちが味わったのと同じだけの、否それ以上の辱めを味あわせてやらなければならない”こう硬く決心をした。
『人間って、面白いものね。目的が出来るとどんな辛いことにだって、平気で耐えて行けるようになるんですもの』
ルリは又ホワイト・ホースを注ぎ、呑み、煙草に火を点けた。
その後の彼女は、やれる限りの事は何にでも手を出した。
復讐をするにしても先立つものは金だ。
人に言えないようなことにまで、平気で手を出し、儲けられるだけ儲けた。
『復讐なんて、人に頼ってするべきじゃないわ。それに他人に頼ればどこかから発覚するかもしれないからね』
彼女は弟達にもこの計画を打ち明けた。
すると、彼らも同じことを考えていたという。
弟二人は叔父夫婦の下で暮らしていた。別に虐待を受けていた訳ではないし、酷使されてもいなかったが、それでも自分の家でない場所にいるのは辛かったようだ。
”僕たちだけがこんな目に遭って、あの二人だけが幸福になるなんて、そんな理不尽があっていいものか”
”僕も同じだよ。兄さんと姉さんに協力する”
そう言ってくれたという。
佐伯家へ空き巣に入り、夫の預金通帳から口座番号を調べ、声色を使って銀行に口座凍結の電話をしたのも、嫌がらせの電話をかけたのも、菜穂子の後を着け、助走をして彼女を万引き犯に仕立てたのも、そして佐伯氏に痴漢の濡れ衣を着せたのも、進二がやってくれた。
身が軽く、声色を仕事にしていて、変装も出来る。お笑いだけでなく、役者として舞台に立ったこともある彼だ。
そんなことは造作もない。
あの変な薬の生成は、進一が自ら買って出てくれた。
苦学した末に薬剤師や薬学修士号まで取得した彼ならではだ。
『そしてあの高校一年の坊やを垂らし込んだのはこの私よ。あんなまだアソコに毛も生えてない子を誘惑するなんて、富士山に登るよりずっと簡単だわ』
つまり、佐伯氏と菜穂子の間に生まれた博のことだ。
ルリはそう言って煙草を灰皿にもみ消し、甲高い声で笑った。
『さあ、これで全部よ。
俺は黙ってレコーダーのスイッチを切り、椅子から立ち上がった。
『捕まえないの?探偵さん?』
『残念ながらね。最後はそうするにしても、証言だけじゃ証拠にはならん。
俺はそう言って椅子から立ち上がると、そのまま店を出て行った。
さて、これから少ししんどい仕事をしなけりゃならんかもな。
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