その9
店は酔っ払いオヤジ御用達、新橋のガード下を少し逸れたところにある、路地の奥にあった。
道路の上に『スナック・JUN』と素っ気ない看板が出ているだけで、店そのものは階段を下って半地下になっている。
数段降りたところには粗末な黒い扉があり、真ん中には『暴力団関係者の立入りはお断りします』という札が貼ってあった。
今の時刻は午後4時50分。
開店時間より少しは早い。
俺は構わずドアを押す。
室内は横に細長い。
カウンターだけで、ボックス席はなかった。
開店前だから、当たり前と言えばそれまでだが、灯りもついておらず、音楽も流れていない。
薄暗いカウンターの奥に女が一人いた。
歳は分からない。
セミロングの髪を赤く染め、パーマをかけていた。
化粧はそれほど濃くなく、卵型の顔、目鼻立ちがはっきりしているところは、
進一と進二が口にした”あの人”にどことなく似ている。
茶色いニットのワンピースに、銀色のペンダントという、地味な服装をしていた。
俺はドアを開けてすぐのところの席に腰かけ、
『バーボン、無けりゃビールでも構わん』と声を掛けた。
彼女は俺の方をちらりと見て、ロングピースを咥えて火を点けた。
『悪いんだけど、まだ開店前なのよ。お酒は出せないわ』
彼女はつまらなそうに答え、俺に近づくと、ミネラルウォーターをコップに注ぎ、俺の前に置く。
『だろうと思った』
俺は答え、懐から
『仕事でね。君を探していたんだ。小高ルリさん』
彼女は何も答えない。手元に引き付けた灰皿に煙草の灰を落とす。
『私を探して、どうしようっていうの?』
『どうもしない。依頼人からのリクエストでね。本当の事を話して欲しいだけさ』
俺はもう一度ポケットに手を入れ、ICレコーダーを取り出してスイッチを入れた。
『ここからの会話は全部録音させて貰うよ。だが、場合によっては警察に証拠として提出する必要が生じるかもしれん。従って万が一自分自身に不利だと思われることは話さなくても構わない』
いつもの通りそう断りを入れてから、シナモンスティックを咥えた。
『では聞こう。君は佐伯敏也氏と菜穂子さんという夫婦を知っているね』
彼女は煙を宙に向かって吐き、また灰を落とした。
『知らない・・・・と言ってもどうせ信じないでしょう?そうよ、昔私の母親だった女と、その女の亭主でしょ』
『その通りだ。じゃあ、君は弟二人と組んで、彼女たちに嫌がらせをしたね?』
『ええ、したわ』
彼女は煙草をもみ消し、俺に入れた水を飲んでから、あっさりとそう答えた。
『随分、往生際がいいんだな』
『”そんなことしてませんわ”ってとぼけるとでも思ったの?お生憎様、弟達とおんなじよ。私も悪い事なんか何一つしたと思っていませんからね。やるべきことをやっているまでよ。』
『ついでだから話してあげるわ。何もかもね』
彼女は二杯目の水をコップに注ぎ、それをまた一気に飲み干し、それから一気に話し出した。
菜穂子が父親と離婚して家を出て行ったのは、ルリが高校を卒業し、大学に進学したばかりの頃だった。
父子家庭になってからも、父は真面目に働き、そして子供達に対する思いやりを忘れなかったが、もともとそれほど身体が丈夫ではなかったので、ルリが一年生を終える頃に亡くなった。
それ自体もショックだったが、離婚の原因が母の不貞にあったこと、そしてその
相手が自分の家庭教師で、しかもほのかな想いを抱いている相手だったこと。おまけに離婚した時にはもう彼の子供を身ごもっていたと知り、その衝撃は猶の事増幅された。
彼女は結局大学を中退し、働くことを決心した。
弟たちはまだ中二と、小学校六年生だったので、父親の弟にあたる叔父の家に身を寄せることになった。
初めは彼女にもそうするようにと勧めてくれたのだが、一人で自立する道を択んだ。
しかし、彼女は出来る限り二人の面倒は自分がみなければならない。そう思ったという。
『でも・・・・』そう言って彼女はそこで一旦言葉を切ると、カウンターの下に手を突っ込み、半分位残っていたホワイトホースのボトルを引っ張り出し、グラスに注いで一気に煽った。
『それでもまだ、ほんのちょっとは”あの女”のことを母親だと思っていたのかもしれない。いえ、思っていたかったのかもしれないわ』
唇を噛みしめる。
口紅が滲んだ。
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