その8

 研究室はそれほど広くない部屋だった。

 ノートパソコンが2台、それに実験器具と、片側の壁には資料や学術書が収められたスチール製の本棚があり、縦に長い部屋で、白衣を着た彼・・・・小高進一氏は不敵な笑みを浮かべて椅子に座っていた。

 何もありませんがどうぞ、そう言って俺に椅子を勧めたが、それっきりしばらくの間こちらの存在を黙殺した体で、パソコンに向かって何やら熱心に取り組んでいる。

『今日、お邪魔したのは・・・・』俺が言いかけると、彼は再び椅子を動かし、めをこちらに向けた。

『分かっていますよ』

 彼は無感動な声で言った。

『薬の事でしょう?』

 俺が疑問を発する前に、彼は言葉を続ける。

『でも』彼は前置きをして話し始めた。

『私を逮捕するのはまず不可能でしょうね。貴方はご存じないでしょうが、薬剤というのは、ほんの少し亀の甲から出ている”ウデ”が変わるだけで、全く別のものになってしまうんです。あの薬は私がそういう細工をしましたんでね。現在の薬機法の範疇では完全に合法ですよ。ましてや私は薬剤師の資格も持っている薬学修士ですからね』

 小高進一は学生を前に講義をするような調子で話し続けた。

 彼は中学を卒業後、働きながら独学で高校卒業資格認定試験を受けてパスした上

 で大学に入り、優秀な成績で卒業。薬剤師の資格を取得して大学院に進み、薬学修士にまでなり、現在いまは助手としてこの大学で働いている。

『あんたら三人の最終目標は何ですか?』

『決まってますよ。貴方も探偵なら既にご存知の筈だ』

『自分達を棄てた母親と、そして家庭を破壊した男に対する復讐・・・・』

『大筋ではその通りですが、しかし的外れな部分があります。私ら姉兄弟きょうだいにとって、”あの女”は、もう母親ではありません。しかしだからといって、平凡な幸福の中に存在しているのを許すほどお人よしでもありませんからね。』

『しかし、いずれにせよ、もしこれが犯罪に発展するとなれば、免許持ちの探偵の義務として、警察に通報せねばなりませんし、場合によっては非常手段も辞さないつもりです。それでもあなた方は』

 彼はその言葉には答えず、椅子から立ち上がり、 

『折角ですが、これ以上貴方にお答えする義務はないでしょう。まだ実験が残っていますからね。お引き取り下さい』

 最後は実にきっぱりした物言いだった。

 仕方ない。

 俺は椅子から立ち上がり、背もたれにかけたコートを取る。

『では、今日のところはこれで、またお邪魔します。どこかのミステリードラマの刑事じゃないが、こう見えて私も結構しつこい男なんですよ。ましてや飯のタネなんでね。簡単に諦めるわけにはゆきません』

 小高進一はもう何も言わなかった。

 俺に背を向け、パソコンのディスプレイに目を集中させている。

 コートを着て、俺は廊下に出た。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

『何が素敵なお土産になるかも、よ』

 マリーは俺をこの間の喫茶店に呼び出し、苦虫を噛みつぶしたような表情で、ホチキスで止めた書類の束を放り出した。

 俺が渡した薬の分析結果だ。

『なんてことはないわ。覚醒剤と似た成分ではあるけれど、これじゃ薬機法にも触れないし、覚醒剤取締法違反にもならないって、科研の連中に笑われたわよ。飛んだ恥晒しだったわ』

 俺は書類の束を手に取ってめくるふりをしてみた。

 薬物に関してはずぶの素人の俺だが、奴があれだけ落ち着いていた理由が、何となくわかったような気がする。

『済まなかったな。ただ、あんたには無駄骨は折らせやしないぜ。必ず・・・・』

『必ず、何よ?』

『それはもう少し待ってくれ。必ず証拠を掴んで見せる』

 俺の言葉に、彼女は何かを感じたんだろう。

『分かったわ。待ってる』そう言って頷いた。

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