その7
『乾さん、もう、私どうしていいか分かりません・・・』
彼女はハンカチを膝の上に置き、両掌で固く握りしめ、しゃくり上げるように声を絞り出す。
彼女・・・・つまりは佐伯菜穂子は、俺の事務所に来てから一時間、ずっとこの調子なのだ。
『私や夫は何をされても仕方ありません。でも息子・・・・博には何の関係もないはずです。』
大粒の涙が膝の上に落ちる。
『何があったんです?まずそれを話して頂かないと』
彼女と現在の夫、佐伯敏也氏との間には息子が一人いる。
名を
その博が、最近すっかり変わってしまったのだという。
まず、目に見えて成績が落ちてきた。
学校もサボるようになってくる。
家に帰ってはくるが、何も話さず黙って部屋に閉じこもったきりになる。
おまけに痩せて、顔色も悪くなってきた。
たまりかねて彼の留守中に部屋を調べてみると、
『こんなものが出てきたんです。これはごく一部で、他にももっと沢山・・・・』
と、ハンカチに包んだものを
”パケ”と呼ばれる小さなビニール袋が三つ、そのうちの一つは結晶状の粉、残りの二つには紫色の粉末が入っていた。
中を開けて確認してみても良かったのだが、俺だって一応免許持ちの探偵だからな。
しかしながら、大方想像は付く。
『これを貴方が発見したことを息子さんは知っていますか?』
彼女は首を振り、
『いいえ、まだ・・・・』
消え入るような声で答えた。
『悪いことは言いません。これを持って警察にお行きなさい。もうこうなると、探偵の領分を越えています。』
『でも・・・・夫は”警察には行くな”と・・・・』
こんなことが表ざたになれば、自分の仕事上の信用も失いかねないから、
彼が言ったのはそこまでで、後は幾ら相談をしても親身にはなってくれないという。
『分かりました。何とかしてみましょう。その代わり、本当にのっぴきならない事態になったら、迷うことなく警察に通報します。いいですね?』
彼女はハンカチで涙を拭き、何度も頷いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『こんなもの、私に渡してどうしろっていうのよ?』
入って来るなり、
”ちょっと今は忙しいのよ。用件があるなら手短にお願い”と、やけにつんけんした言い方で俺の向かいの席に座ると、大きな声でブレンドを頼み、シガレットケースを出し、いつものシガリロに火を点けた。
『なんてことはない。こいつを調べて欲しいのさ。』
『ふざけないで頂戴。警察は探偵のための便利屋じゃないのよ』
今更紹介するまでもないことだが、彼女は”切れ者マリー”こと、警視庁外事課特殊捜査班主任の五十嵐真理警視である。
『じゃ、
彼女は鼻から煙を出し、同時にため息をついた。
『仕方ないわね・・・・今度だけよ』
『その今度だけが、実は君ら
彼女は俺が
『どうかしらね。当てにならないけど、まあ、やってみるわ』彼女はそう言って、灰皿の上のシガリロを取り上げ、又煙を吐いた。
マリーと会ってから数日後、俺がいたのはN薬科大学のキャンパスだった。
大学とはいえ、学校であることに変わりはない。
出来れば足なんか踏み入れたくないのだが、仕事だ。銭の為だと言い聞かせ、俺は中に入った。
正門の前にある守衛室で”彼”の研究室に連絡を取って貰った。
断られるだろうと覚悟をしていたが、向こうは会ってくれるという。
俺は守衛から渡されたパスカードをケースに入れ、首からぶら下げると、教えられた通りにキャンパスを歩き、
『薬学研究所』と看板の出た建物の前に着いた。
真四角の、随分無機質な造りだった。
ぶ厚いガラスのドアに取り付けられたセンサーにパスカードを
ドアを開けると、内側にあった守衛室に座っていた五十半ばくらいの、妙にド派手な制服を着た警備員に
『助手の小高氏に会いたいのだが』と告げると、彼は内線電話をかけ、
『2階のB12号研究室です。』と、意外に丁寧な口調で説明をしてくれた。
教えられた通り、俺は階段を上がり、2階のB12号研究室を探すと、ドアの前に、
”助手、小高進一”とプレートが出ている。
ノックをすると、
『どうぞ』という、あまり感情のこもらない声が返って来た。
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