その3

 彼女の経営している『モン・プチ』という店は、横浜は元町の、割といいところにあった。

 女性のランジェリー専門の店に、男が一人で入ってゆくのは、いささか勇気のいる作業だったが、仕事なんだ。ためらってもいられまい。

 案の定、店の中で買い物をしていた客、そして店員(全員、女性だ)は、宝塚歌劇団の舞台に男優が上がってきたような目つきで俺を見た。

 俺は構わず店員に認可証ライセンスとバッジを見せ、社長を呼んでくれというと、間もなくして彼女・・・・つまりこの店のオーナーである菜穂子夫人が姿を現した。

『ご主人のおられるところでは話しにくいと思いましたんでね。こちらに押しかけてきました』

 彼女は辺りを見回して、店員の一人に、一寸出てくるからと言って、俺と二人で店を出た。

 店から凡そ徒歩で10分ほど行ったところにある、小さな喫茶店、『cafe 渚』そう看板が出ていた。

 俺は何時ものようにブラック。彼女はカフェ・オ・レを頼んだ。

 ポケットからレコーダーを出し、

『今から話すことは全部録音させて頂きます。但し、もし貴方がご自分に不都合だと思われる事実がありましたら、お話にならなくて構いません』俺はそう断って、スイッチを押した。


 彼女はしばらく黙っていたが、ウェイトレスが持ってきたカップを取り上げ、一口だけ飲むと、小さく、囁くような声で話し始めた。


『・・・・私は今の主人とは再婚です。そして、既にお分かりになっているとは思いますが、前の夫とは十七年前に離婚しました』

 彼女は20歳の時に、当時勤めていた会社の上司の勧めで、一人の男性と見合い結婚をした。

 相手は何ということのない、普通の公務員だった。真面目で、仕事熱心で、家族思いの善良な人柄だった。

 事実その男性との結婚生活は、確かに単調なものではあったが、特に波風の立つこともなく、穏やかに過ぎて行った。

 前夫とは一女二男に恵まれ、子供達も手がかかることもなかった。

 しかし結婚してから、20年が経過し、長女が高校三年の時だった。

 子供達、分けても一番勉強の良く出来た娘の為に家庭教師を雇った。

 その家庭教師というのが、当時まだ大学四年生だった佐伯敏也。即ち今の夫だった。

 最初にモーションをかけてきたのは敏也の方だったという。

 

 勿論その時には全く相手にしなかった。

 当り前と言えば当たり前である。

 何しろ自分の息子と言ってもいいくらい年が下なのだ。

 しかし娘の勉強を見るために、週に三回は家にやって来て、その度彼女に愛の言葉を囁く。

 彼女とて女である。

 男性から”好きだ”

”奥さんは僕の理想のタイプだ”などと囁かれているうちに、気持ちが傾き始め、そしてとうとう抜き差しならぬ関係・・・・平たくいえば”出来てしまった”という訳だ。


 最初は夫に対する罪悪感もあったが、そのうちそうしたものは、頭から消えて行き、遂には避妊具を使わないで身体を交わすようになってしまったのである。


 彼女はまだ生理がある。

 ということは妊娠する可能性だって考えられたが、それでも彼とは離れることが出来なくなってしまっていた。

”もし妊娠したら、僕が責任を取ります”

 ある日終わった後、佐伯はそう言った。

責任。

 つまりは夫と離婚をして、自分と再婚してくれ。そういうことが言いたかったのだろう。

 彼女はそこまでの事は考えはしなかったものの、彼とは離れたくなかった。

 いい年をして、それが何を意味するか、全く考えもしなかったのである。


 しかしその”意味をしなければならない深刻な事態”が菜穂子の身に起こった。

 まだるっこしい表現は止そう。

 つまりは妊娠したのである。

 

 夫とは数年間性交渉はなかった。

 セックスレスというやつだ。

 当然ながら身ごもった子供の父親は佐伯となる。


 佐伯に打ち明けた時、彼は、

”自分が責任を取る。だから・・・・”

 彼女はここに至っても、ことをそれほど深刻に考えなかった。

 愛した男と一緒に居られれば、他に望むものはない。そういう浅はかな感情しか

 起こらず、彼女は夫に打ち明けた。

 夫はショックを受けたようだったが、何も言わずに黙って離婚届に判を押し、そうして家を出た。

 夫は慰謝料の請求もしなかった。

 家を出て行くとき、三人の子供たちが彼女に向けた冷たい視線さえ、大して気にはならなかったという。

 



 

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