結婚前夜

   ◆



 ある日。

 今日は美南も習い事はなく、俺もジムの予定は無い。

 だが別の予定があり、家に帰ってきたのは18時が過ぎたあたり。


 ようやく家に帰ってきた時には、夕日も沈みかけ、リビングは薄暗くなっていた。


 そんな俺達は、リビングのテーブルに対面で座っている。

 その間にあるのは、1枚の紙。

 既に美南の名前は書かれていて、印鑑も押印されていた。


 あとは、俺が名前と印鑑を押せば……俺達の今の関係も、終わり……。


 その紙を見て、俺達は神妙な顔をしていた。


 たった1枚の紙で人生を変える。

 この歳で、重大なことに気付かされた気持ちになった。


 緊張感のある空気。リビングは静まり返り、時計が時を刻む音が異様に響いている。


 美南は手を組んでテーブルに肘をつき、まるでどっかの総司令のように目を光らせた。



「……これで、私達の関係も終わり……ですね……」

「……ああ……そうだな」



 ほんの数日前まで、こんなことになるなんて思ってもみなかった。


 思い返してみれば、楽しかった日々。

 毎日が楽しく、毎日が幸せだった。

 永遠に続けばいい。そう思っていたが……でも、それも終わり。


 なにも考えず、ただ2人で笑いあっていた日々も……俺がこれにサインをすれば、終わる。


 俺がボールペンに手を伸ばさないのを見ると、美南は僅かに目を伏せた。



「……後悔、していますか?」

「いや、してない。俺が……俺達が選んだ選択だ」

「……そう、ですよね……」

「……美南こそ、後悔はしていないか?」

「……していません。これが運命なのです」



 そうか……そうだな。

 机の上に置いてあるボールペンを手に取り、俺が書くべき欄へサインを入れる。

 そして、美南が用意した印鑑に朱肉を付け……。



「どうしました?」

「これを押したら……俺らの関係は終わりだと思うと、な……」

「……そうです。この生活も楽しかったですけど……お互いに、次の1歩へ進むためです」

「……ああ」



 喉の奥が乾く。

 緊張で手が震える。

 落ち着け……落ち着け。ただ印鑑を押す。それだけだ。なにも緊張することはない。


 ふと、美南を見る。

 優しく、いつまでも変わらない女神のような笑顔で俺を見つめていた。


 偶然美南も同じタイミングで俺を見たのか、それともずっと俺を見ていたのかは分からない。


 そんな美南を見て……俺は、何度目かわからない覚悟を決めた。



「さようなら。柳谷美南……楽しかった」

「ええ……私も……」



 ゆっくりと深呼吸をし──押印した。






「そしてようこそ、丹波美南!!!!」

「いえーーーーーい!!!!」






 さっきまでの神妙な空気はどこへやら。

 リビングの電気を点け、俺達は思い切り抱きしめ合い、口付けを交わした。



「これを明日役所に提出したら、婚約関係も終わり」

「そんな甘酸っぱい関係もよかったですが、私達は次の1歩へ進まなければなりませんからね」



 全く、こんな紙1枚で人生を変えられるなんてな。

 紙の大切さを知った気分だ。



「これで私も、丹波美南ですか……まさかノートに書いていたことが現実になるなんて思いませんでした」

「……実は、俺もこっそり……」

「そうだったのですか!? じゃあ、岩に名前を刻みつけたり、有名画家に私達の結婚式(妄想)の絵を書かせたりも!?」

「それはない」



 思い出したかのように唐突なお金持ちムーブやめろ。

 てかこいつそんなことしてたの? 金の使い方が一般ピーポーとかけ離れすぎじゃね。



「あ、そうだ。学校の方でも手続きしないと……」

「ああ、安心してください。そっちは柳谷家で全て手続きを終えました。在学中も、苗字は柳谷のままにしてくれるそうです」



 さすが、仕事が早い。


 2人でソファーに移動し、並んで座ると美南が腕に抱きついてきた。



「これで私も、女子高生人妻ですね」

「響きがエロいな……」

「そんなエッチな人妻をものにした感想は?」

「最高です」

「むふーっ」



 ですよねー、みたいな顔で腕に込める力を強めて頬擦りしてきた。可愛いなぁ本当。


 そんな彼女の横顔を見ていると、これでよかったのか……少し不安になる。


 彼女ほどの美貌を持ち、才覚を持っていると、俺なんかよりも素敵な男がこぞって寄ってくるだろう。


 それが、子供の頃に少しだけ一緒に遊んだというだけで、この子の未来を決定づけてしまった。


 これで、本当によかったのだろうか……。



「大丈夫ですよ」

「……ぇ……?」



 美南が、そっと俺の頭を撫でた。

 まるで俺の心を読んだかのように、ナイスタイミングで頭を撫で続ける。



「裕二君が思ってること、わかっています。ですが、大丈夫です。私も同じ気持ちでしたから」

「……まあ、美南がそう言ってくれるなら、よか──」






「初夜で童貞卒業したいなーって思ってるんですよね! 私もです!」

「俺の感動を返して?」

「お互いの初めてが結婚初夜って興奮しますね! 私の下腹部もキュンキュン鳴いてます!」

「下品な鳴き声を鳴らすな」

「聞いてみます?」

「………………聞かない」

「葛藤しましたね」



 う、うっせぇわ!

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