努力──③
◆
私こと丹波彩香は、丹波裕二のことが好きではない。
……あ、待って。今のは語弊がある。ごめん、言い直すね。
嫌いという意味でもなく、無関心という意味でもない。
ただ純粋に、1人の異性としてどうなのかと言われると、好きではない。
……と、思う。
兄さんのことは尊敬している。
進学校で自分の勉強もあるのに私の家庭教師をしてくれたし。
剣道の大会があれば絶対応援に来てくれるし。
作ったご飯はいつも美味しいって言ってくれるし。
ちょっとしたことでも直ぐに褒めてくれて。
私のわがままを嫌な顔せず聞いてくれる。
そういった意味で、人として尊敬している。
でも、兄さんに恋愛感情というのは湧いたことがない。
従兄弟とは言え、ほとんど生まれた時からずっと一緒にいた。
兄さんも昼間に言ってたけど、私にとって兄さんは正真正銘の兄さん。
そんな人に恋をする? 好きになる?
…………。
ないな。うん、ないない。
実際、兄さんが結婚するってお父さんから聞かされたときは、喜びが勝った。
まさかあの兄さんが結婚だなんてなぁ……とも思った。
だから私は、兄さんに恋をしていない。
……でも、なんとなく……なんとなくだけど、寂しいとは思う。
兄さんが、もう私だけの兄さんじゃなくなってしまったという現実に……心にぽっかりと穴が空いた気がした。
……ダメだダメだ。
こんな弱気でどうする、私。
……うぅ。
「……兄さん」
「お? 彩香、出たのか。相変わらず風呂早いなぁ、もっとゆっくり浸かった方がいいぞ……って、まだ髪も乾かしてないじゃないか」
「うん。……ねえ、髪乾かしてくれない? 昔みたいにさ」
「ん? ああ、いいよ。こっち座りな」
兄さんに促され、ソファーに座る。
延長コードから伸びるドライヤーとクシを使って、慣れた手で髪を乾かし始めた。
「懐かしいなぁ。中学からは、やってって言わなくなったのに」
「私も思春期だったからね」
「今は?」
「まあ、お父さんのパンツと一緒に洗濯したくはないかな」
「思春期なうじゃん。過去形じゃないじゃん。てかおじさん可哀想すぎるから早く思春期終わらせてあげて」
「将来の自分かもよ?」
「絶望した! 自分の将来の姿に絶望した!」
ふ……ふふふっ……やっぱり兄さんはいいなぁ。面白い。
私の長い髪を梳く兄さんの手を感じ、心が満たされる感覚に陥る。
ごめんね、美南。……いや、姉さん。
確かに私は兄さんに恋していない。
でも結婚して遠くに行っちゃう寂しさは感じていた。
その寂しさを紛らわせるため……これくらいのわがままは、許して欲しい。……かな。
◆
全員風呂に入り終わり、彩香をゲストルームに案内してから、俺達もベッドに潜り込んだ。
と言っても、まだ同棲2日目。しかも目は冴えている。
つまりは、だ。
「じーーーー……」
「…………」
がっつりばっちり。隣を意識しちゃっていまして。
しかも柳谷、仰向けじゃなく横向きで俺の方をガン見している。
そのせいでたわわなたわわがパジャマを押し上げ、ボタンが悲鳴を上げている。
落ち着け俺、落ち着くのだ。
今は彩香も同じ家にいる。多分この家のことだから防音はしっかりしてるだろうけど、ここでハメを外したらダメ。ハメたらダメ。
観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五
蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色──
「つんつん」
「わひゃうっ!?」
わっ、脇腹らめぇ……!
「つんつん、つつん」
「ひゃんっ……! ちょっ、やめっ……!」
「つつつつつつん」
「やめんかっ!」
チョップスティック!
「あぅんっ。うぅ、何するんですか……!」
「それ俺のセリフな。脇腹つつくのやめなさい」
「あーい」
……? やけに引くのが早いな……?
柳谷をチラッと見ると……どことなく、笑顔に陰りがあった。
「……柳谷、どうした?」
「え? 何がですか?」
「いや……なにか思いつめてないか?」
「私を思いつめさせたら大したもんですよ」
「雑なモノマネやめろ」
「……ごめんなさい」
……やっぱり、いつものキレがないな。本当どうしたんだ?
「……丹波君。もしですよ? もし、丹波君のことを好きな人が他にいて……」
「え、いるの?」
「例えばです」
「そんな食い気味に否定しなくても」
ちょっとドキッとしたのは内緒だ。
大丈夫、俺は柳谷一筋だからなっ!
「……それで?」
「……もしそんな人がいた場合、私達の関係って……その子を傷付けているんですかね……?」
俺の寝間着の裾を握り、目を伏せる柳谷。
まあ……柳谷の言いたいことは、何となくわかった。
「その子に嫌われるとか、恨まれるとか……そういうことを気にしてるのか?」
「…………」
……沈黙は肯定、か。
「……絶対とは言えないけど、傷付けてはいるんだろうな」
「っ……ですよね……」
「でも気にする必要はないだろ」
「……え?」
「もし気にする必要があるなら、この国は大昔に一夫多妻制になってるだろうし。そんなこと一々気にしてたら人類なんかとっくに滅んでますよ」
一夫一婦制の日本において、誰かと付き合う、誰かと結婚するってことは、その他の人と付き合うことも結婚することも出来なくなる。
つまり、その人のことを好きな他の人を切り捨てなきゃいけない。
それが現状。
これが現実。
「それに、もし俺を好きな人がいるとして1人……多くて2人としよう。そんな俺が柳谷と結婚すると、傷付ける人は多くて2人」
「まあ……そう、ですね……」
「対して俺の場合だ。柳谷は学園の女神。世界のヤナギヤ家具の御令嬢で、有名雑誌の専属読モをやっている。……柳谷美南にガチ恋してるやつなんて、100や200じゃ効かないだろう」
「そ、そんなこと……」
そう。否定できない。否定しなくていい。
それが、柳谷美南を取り巻く環境だからだ。
「俺が柳谷と結婚したら、その人達を傷付ける」
「…………」
「でも、誰かを傷付けてでも……柳谷美南を取られたくない」
未だに俺の裾を摘んでいる柳谷の手を握り、俺も横向きになる。
ちょうど、柳谷と向き合うように。
「好きだよ、美南」
「……私、も……私も、あなたを誰にも取られたくない……好きです、裕二君」
紅葉が散ったように頬を染め、小さく微笑む柳谷。
そんな柳谷と向き合いながら、俺達は睡魔に身を委ねたのだった。
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