(6)怠惰なオットセイ
音楽学科の学年末演奏試験は、一般公開で行われる。
といっても、大々的に宣伝して客を呼ぶわけでもなく、あくまでも単位のかかったテスト。わざわざ聴きに来るのはよほどの音楽好きか、学生の知り合いくらいだ。
そんなつもりで会場である大学の学生ホールへ出向き、自分の順番になってステージに立ったところで、俺は妙に普段よりも客席が埋まっていることに驚いた。
なんでだろ、と思いながら椅子に座って息を整え、よしと思ったタイミングでここ最近練習しまくっていた課題曲二曲を演奏する。
もっと昔、中学生とかそれくらい前は、客席にいる人が自分を見ていると思うと緊張した。姿を見られているだけじゃない。音を、音楽を、耳を傾けて聴かれている。そう思うと怖くなって、ミスが多くなる。
最近は、緊張はしても怖くなることは減った。いつから平気になっただろう。
鍵盤の上で指を動かしたまま思考がすーっと過去の思い出に引っ張られそうになり、慌てて意識を今に戻す。首に当たる照明の光が熱いのは、今も昔も変わらない。
鍵盤を押すたびに、音が踊るように舞って跳ねて、俺の周囲をぐるぐる回る。
「あ、山ちゃん」
試験を終えてホールを出ると、崎元くんとユキさんが立ち話をしていた。
「山ちゃん、昨日ありがとうね」
ユキさんがぺこっと頭を下げてくる。あの後アパートに戻ると、堀さんは多少すっきりした顔をしていた。具体的にどんな会話が二人の間でなされていたのかは知る由もない。
「いえいえ。俺何もしてないです」
「そんなことないでしょ。本当に何もしてない俺と比べて見てくださいよ」
崎元くんが興味なさそうに言うから、ユキさんが苦笑する。
「テスト見てたよ」
「えっ、ありがとうございます」
「人多かったっすね」
「だよね? 崎元くんもそう思った? びっくりした」
「山ちゃんの演奏聴けるからって来てた人多いみたいだよ。外部ならともかく、ここの学生なら何日に誰の出番か学生向け掲示でわかっちゃうし」
「俺の聴きに来てたんだ……」
「自覚なかったんかーい」
ユキさんに頭をはたくふりをされて、のけぞるポーズをしてみせる。ついでに崎元くんもノッてきてはたこうとしてくるからもう一回のけぞっていると、通りすがりの女子学生に「お前ら何やってんだ」みたいな冷めた目でチラ見された。
「ま、美術学科にもそういうことありますよ。進級展や卒展に、コンクール入賞者の作品が見たくて足運ぶ人」
緊張するしやめてほしいよなー、と俺とユキさんが言う横で、崎元くんは「こっちの場合は完成した作品を置いてるんで本番緊張するとかなくて単純に見てもらえるの嬉しいっすけどね」と言い放つから、今度は俺とユキさんが彼をはたく追いかけっこになった。
「あーあ、今日特に調子悪くはなかったけどミスっちゃいましたよ最初にちょっとだけ」
「そーなんすか? 俺全然わかんなかったし大丈夫でしょ」
「試験官の先生はわかってるに決まってるだろ」
「それはそうっすね」
突如、ふわりと心が軽くなった。崎元くんとユキさん相手に喋りながら、脳の一部がまた過去へ引き戻される。
今の崎元くんみたいに、があも俺がピアノを弾くとよく言っていた。
ミスった? わかんなかったし気にすんなって。普通にすごかったから!
ああ、そっか。たぶん。どんな演奏をしても明るくそう言ってくれる幼なじみがいたおかげで、俺は少しずつステージの上が怖くなくなっていったんだ。
試験がすべて終わって春休みになったから、美蘭に言っていた通り一時的に実家に戻ることにした。
家に帰ると、ピアノ教室に通い始めた幼稚園の頃に買ってもらったアップライトピアノがちゃんと調律されていて、ほわっとあったかい気分になる。
自分しか使わないピアノ。俺が帰って来たときに弾けるようにしておいてくれた親に、俺が弾くと心地良い音を鳴らしてくれるピアノに、おかえりと言われているみたいだ。
寂しがっていたというお父さんは、最初の数日こそ和臣、和臣、とやたら俺を呼びとめて雑談をしたがったり、レジャーに誘われたりしたものの、しばらくすると圭ちゃんのほうに戻っていってしまった。やっぱり圭ちゃんのこと、気に入ってるんだ。逆に圭ちゃんが気を遣って、俺を誘ってくれたりするから三人で飲みに行ったりした。
あとは、指がなまらないようにピアノの練習をしたり、バイト行ったり。ときどき、があにも会う。
それから、愛莉が高校入試に合格したので家族でお祝いした。頑張ったご褒美に何かプレゼントをあげようとしたら、「エミリア姫シリーズのテーマ曲をピアノで生演奏してほしい」と愛莉独特の突飛なリクエストをされた。数日間待ってもらって練習するはめになった。そんなこともありつつ、とにかくだらけた春休み。
俺は家から近い適当な高校に通っていたけど、愛莉は通学にかなり時間がかかる女子高に行くらしい。偏差値もおそろしく高いそうだから、自慢の妹だ。
美蘭も地元の進学校に通っているし、彼女も自慢の妹だ。偉い。どっちもすごい。俺が頑張らなかった勉強を頑張って、愛莉も美蘭もとても偉い……
「お兄ちゃん、そこ座りたいから邪魔ー」
ふわふわと妹たちのことを考えながらリビングの床に寝転がってブランケットをかぶって居眠りしていたら、学校に行っていたはずの美蘭に背中を軽く蹴られた。
「美蘭、学校は?」
「もう終わったよ。今日期末テストで午前中。広瀬遊びに来た」
「お邪魔しまーす……カズさん床に転がってるからびっくりしたけど、これホットカーペットか……」
彼女の家に遊びに行ったら彼女の兄が床で寝ているなんて、そりゃ驚くだろう。悪いことをした。
二人分のスペースを空けるために、ごろんとカーペットの端に寄る。
「さあどうぞ、お二人さん」
「怠惰の権化だ……。私ココアいれてくるけど広瀬何飲む?」
「ありがとう、同じのがいい」
「美蘭、俺もココアー」
「お兄ちゃんには聞いてない」
素っ気なく俺をあしらい、美蘭はさっさとキッチンに行ってしまった。まあいいや、後で自分でいれよう。
カーペットの上ですとんと行儀よく三角座りしている広瀬くんに、近くのソファにかかっていた大きめのブランケットを渡した。
「寝転ぶと気持ちいいよ」
「や、自分の家でもないのにさすがにそんな……」
「もう何回かウチ来てるんでしょ。身内みたいなものだから気にしなくていいよ」
「え、あ、はい……?」
広瀬くんを引きずり込んで二人で転がっていると、結局ココアのマグカップを三つ持ってきてくれた美蘭に呆れた顔をされた。
「怠惰の権化が増えてる……」
「美蘭も仲間になろうよ」
「ええー……」
結局、三人で寝転がって肘をつき、オットセイみたいな姿勢で並んでココアを飲みながら駄弁ることになった。
「二人ともテスト、どうだった?」
「まあまあかな」
「オレは美蘭先輩に勉強教えてもらえたから今回かなり良いと思う」
「へー、美蘭が教える……」
「何よ、私これでも成績けっこう良いからね」
「そっか、えらいえらい」
「えっ、なに急に褒めて。怖い……」
さっきの居眠りの延長で、なんだか褒めちぎりたい気分なのだ。隣でオットセイになっている美蘭の頭を無造作に撫でてていると、俺相手に嫉妬したのか美蘭を挟んだ向こうでオットセイになっている広瀬くんが美蘭の頭を奪った。
今日は部活がないからと髪を下ろしている美蘭は、兄と彼氏に頭を撫でまわされてぐしゃぐしゃの髪になる。乱れ具合が和風ホラーの幽霊みたいだ。若干むっとしている美蘭の気配を察知した広瀬くんが今度は手櫛で彼女の髪の毛を整え始める。俺なら放っておくけど、そこらへんの行動の差は兄か恋人かの違いなんだろうか。
「美蘭先輩、最近ずっと部活で忙しかったから俺と遊ぶ時間なくて。そのうちテスト前で部活動休止期間になったから、遊ぶ代わりに二人で勉強会してました」
「じゃあ今日、こんなとこいないで遊びに行けばよかったのに」
「いやもう、昨日一夜漬けしたから眠くて遊ぶ元気なくて。でも先輩明日からまた部活だから一緒にいたいし……てことで、ここに来ることに」
「なるほどなあ」
「広瀬、次の日曜は部活休みだから遊べる……けど本音を言うと久々に朝寝坊したい気もする……」
申し訳なさそうに美蘭が呻いた。帰宅部だった自分には想像がつかないけど、運動部はハードそうだ。でもまあ確かに俺のピアノを部活に置き換えてみれば、高校生の頃は(今もだけど)毎日練習しまくっていた。
高校生。あれもやりたい、これもやりたい年頃。何かに打ち込んでいると、あっという間に時間が消費されて時間が足りない思春期だ。
「ずっと忙しかったんだし寝なよ。遊ばなくていいから昼過ぎくらいに電話で喋ろー。で、ちゃんと春休みになったらどっか遊びに行こう」
「うん、あの。ごめん」
「全然いいよ。部活してる先輩好きだからー。ていうか、たぶん何してても好きだわ」
静かな会話を聞いているうちに、また眠くなってきた。オットセイから腕の中に頭をうずめ、うつぶせのまま目を閉じる。
「それはアレだよ。私だって好きだよ。広瀬のことほったらかしにしてるとかじゃなくて好きだから一緒にいたいし……でもチアも好きだから部活したいし……たぶん私、欲張りなんだよ……」
「欲張りでよくない? オレのほうが暇だから先輩に予定合わせるよ」
「それじゃああんたばっかり我慢することになる」
「オレわりとわがまま言ってるからそんな我慢してる気しないけど……あー、じゃあ先輩が部活してる間にオレもなんかしようかな」
「何すんの?」
「バイトとか……バンドとか?」
「バンドぉ? 楽器できんの?」
「練習すれば何とかなんない? ほら、ドラムとか叩けばとりあえず音は出るし……」
「皐月にボッコボコにされるよその発言」
最初はそこそこ甘い雰囲気だった会話が不穏になってきた。
眠い。眠すぎて会話に混ざる気力がない。
……おやすみ。
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