(5)打ち明け話をしようか

 堀さんの部屋からドタバタと音が聞こえる。……たぶん、中に人を入れていいように片づけてる。

 そのまま廊下で五分待っていたら、堀さんは普通に部屋の中から出てきた。


「こんにちは。お待たせしてごめんなさい、中どうぞ」


 やっぱり普通にというのは語弊があるかもしれない。顔も声も、どことなくやつれて見える。

 なんとなく、ユキさんと新谷さんと目が合った。


「下で喋らない? 今日晴れててあったかいし」


 ユキさんがちらりと階段のほうに目を向けた。

 アパート一階の小さなエントランスの奥に、四人程度なら座ることのできるテーブルとベンチが設置されている。

 たまに誰かがそこに座ってなんか食べてたり駄弁っていたりする。日当たりも良くて日向ぼっこスポットとしてここの住人には愛用されている。

 ということで、四人でぞろぞろと階段をおりて、そのテーブルを囲んだ。どこにいるのかわからない鳥のちよちよという鳴き声がのどかに響いている。


「元気……ですか? その、昨日堀さんの友だちだっていう子たち、何人か来てるとこに居合わせて、だから大丈夫かなって。みんな心配してるっぽかったですけど……」


 おずおずと俺が話しかけると、堀さんはにこりと力なく微笑んだ。


「元気……じゃ、ない。あと、ごめんなさい、昨日山ちゃんからも連絡来てたのに返事しなくて。ほんとは友だちが来てくれてたのもわかってたんだけど。なんだか出る気にならなくて……」

「いやいや。なんかあったんですか?」

「……失恋」

「え?」


 進級制作に悩んでるとかいう話だったから、スランプとかそういうのをこじらせてしまったのかと思っていたら、予想外の単語が飛び出てきた。思わず尋ね返してしまう。

 堀さんが俺たちを順に見て、投げやりな口調で事情を打ち明けた。


「だから、失恋です。私、ユキさんのことが好きだったんです」

「俺ぇ?」


 俺と新谷さんが息をのむそばで、ユキさんが素っ頓狂な声をあげた。戸惑う俺たちにお構いなく、堀さんは淡々と話を続ける。


「そうです。正直、鍋に誘ったのもユキさんと話すチャンスを増やそうと思って。でも急に誘うのも変でしょう? だから友だち少ないから誘う相手がいなかったとか適当なこと言って、カモフラージュみたいにして山ちゃんも崎元くんも誘って、アオイちゃんは偶然来てくれただけだけど……利用してごめんなさい」


 利用……されたのか? 俺個人としては美味しい思いをさせていただいて、のほほんと楽しませてもらっただけだから全然いいんだけど。


「でも私、ユキさんに彼女いるって知らなかったから。だって私、大学生になってからずっとここに住んでるけど、ときどき見かけるユキさんが女の子連れてくることも、彼女っぽい人がいる素振りも何もなかったし。だから、そしたら……彼女がいるどころか婚約してるっていうじゃないですか! 私、何も知らなかったと思うとなんかもう、馬鹿みたいだなって。落ち込んでるうちに進級制作も上手くいかなくなって、大学行くのも嫌になっちゃって……」


 どうやらあの鍋パーティーでの何気ない会話が彼女にめちゃくちゃダメージを与えていたらしい。ふとこの話の当事者であるユキさんを見ると、彼は放心したようにぼんやりしていた。

 俺はどんな対応をすればいいのか思いつかず、ただ黙っていた。新谷さんも何も言わない。

 少しの間をおいて、ユキさんは堀さんに向かって慎重な様子で口を開いた。


「今日、電話に出てくれたのはなんで? そんな事情だったら、俺からの電話なんか無視されてもおかしくない気がしたんだけど」

「……スマホに好きな人の名前が表示されていて、反射的に出てしまいました。そこらへん単純な性格なので」


 言いながら、ふっと堀さんの無表情が緩んだ。しょうがないなあ、私。そう苦笑するように。その場の空気も少し緩んだ感じがする。息がしやすくなった。


「あの、俺……」


 ユキさんが何か言いかけたところで、新谷さんが俺の腕を引く。


「礼奈ちゃん、ユキさん。私と山ちゃん、少しだけ席外します。戻ってくるまでそのまま話しててください」

「え、新谷さ」

「行きましょう」


 新谷さんに引っ張られたまま、アパートの外に出る。後ろを振り返ると、ユキさんが真剣な顔で何かを堀さんに話しているのが見えた。

 ああ、そうか。ユキさん、彼女のことをちゃんと振るつもりなんだ。わかりきっているNOを突き付けること。それは誠実とも残酷ともいえるけれど。


「告白の返事をするところに私たちが居合わせても気まずくないですか? コンビニでも行って時間つぶしません?」


 外に誘い出された理由を理解した俺を見て、新谷さんはいたずらっぽく笑った。




 一番近いコンビニまで、歩いて五分もかからない。俺と新谷さんはそれぞれホットココアのペットボトルとポッキーを、それから置いてきた二人にもお茶を買って、コンビニを出た。

 新谷さんはどこでもためらいなくものを食べるタイプらしい。近くの公園で鉄棒にもたれかかり、早速ポッキーの箱を開けている。


「失恋って、心臓に悪いらしいよ。前にSNSで見た」


 ココアの飲みつつ話しかけると、新谷さんはかじっていたポッキーを食べきってから、隣にいる俺を見た。


「知ってますよ、それ。たこつぼ心筋症ってやつじゃないですか? ストレスが原因で心筋梗塞みたいになるやつ」

「……いや、そこまで詳しくなかった。たこ……」


 なぜ、たこ。たこつぼ。

 会話が続かず、そこで途切れてしまう。俺はしばし、新谷さんの存在を忘れて堀さんのことを一人で考えていた。

 引きこもっていたすべての原因が失恋、というわけではないんだと思う。ただ、とにかくとてもショックなことだったから、他のことが手につかなくなって、大学の課題がうまくこなせなくなった。そういう意味では確かに失恋が彼女を音信不通にさせていたのだろう。

 それだけ本当に、ユキさんのことが好きだったということ。


「俺、どんなことがあっても調子を崩すことって、ないんだよね」


 落ち込む日があったり、気分がふさぎ込んだりするときはある。でも、だからといってそれが何かに影響するわけでもなく、いつも通りに日々は過ぎる。

 があがアパートから出ていったときだって、そう。本音は出ていってほしくなかった。一人になって寂しかった。

 だけどそれで日常生活が崩れることは全くなかった。俺はいつも通りに朝起きて、大学に行って、バイトをして、課題をこなして、ピアノを弾いていた。

 なんだろう。この、堀さんのようになれればよかったのに、という羨望は。

 自分だってがあと喧嘩したときに一度くらい、ピアノが弾けなくなってみたかった、なんて。今悩んでいる堀さんに失礼なことを考えてしまう。


「何かで傷ついたときに、日常への影響が大きければ大きいほど、とても大事なものだったって実感できる気がする。俺には大事なものがないんじゃないかって不安になる」

「それ、打ち明け話ですか?」


 新谷さんの手の中の箱は、いつの間にか空っぽになっていた。ただのチョコレート菓子の空き箱。それを彼女は大事な宝物のように両手で包み込んで持っている。


「私も打ち明け話、していいですか?」

「どうぞ」

「私、誰かに恋をしたことって、ないんですよね」


 彼女の指が、ゆっくりと空き箱の角をなぞる。その無意味な行為を俺は意味なく見つめている。


「例えば楽とか、私のことをとても理解してくれる友達が何人かいて、それだけで私はいつも幸せで。でもときどき、それじゃあ駄目だって言う人がいて。頼んでもないのにものすごく顔が綺麗で、やたらごはんを奢りたがる男の人を紹介されるんです。素直にわあかっこいい、お金持っててごちそうしてくれる嬉しい、付き合いたいって思えたらいいのに、それができない私は大事な感情が欠けているんじゃないか、だから恋しなきゃ駄目だよなんて可哀そうなものを見る目で言われるんじゃないかって、不安になります」

「……新谷さんは、不安になることなんかないよ。今が幸せなんでしょ。新谷さんの幸せがわからないなら、新谷さんに合わない的外れなアドバイスをしてしまうこともある」


 アオイは性的対象みたいなのになるのを嫌がるから。アオイはアオイとして扱われたいんだと思う。


 今の新谷さんにはきっと、そう言ってくれるがあみたいな友人こそが、必要なんだ。新谷さんを新谷さんとしてちゃんと見ていなくて、ただかっこつけてごはんを奢ろうとする恋人候補よりも。


「ありがとう、ございます。きっと……山ちゃんも不安にならなくていいと思います。人は、嫌なことがあっても笑っているときがあるような生き物だから。山ちゃんだって大事なもの、あるはずですよ」

「……ありがとう」


 たぶんこれはただの一時的ななぐさめ。お互いの言葉で心から救われたわけではないし、明日にはまた心が重くなってしまうかもしれない。

 いつか俺は、彼女を本当に救えるような友人になれるだろうか。いつか彼女が、俺の不安を拭い去ってくれるような友人になってくれるだろうか。

 そうはならない気がした。彼女を支えるのは俺とは関係ない誰かで、俺を安心させてくれるのも、彼女の知らない別の誰か。そんな予感がした。

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