(4)独占欲の味は苦い

 があの大学が一足先に春休みに入った。

 俺は期末レポートと期末テストの筆記は終えたけど、演奏試験だけ残っている。

 それでも多少心の余裕ができて、たまにがあと会うようになった。正確には会う約束はしていない。ただ、会えないかなと思って崎元くんのお姉さんのカフェに度々足を運ぶようになった。

 向こうも同じようなことを考えているのか、偶然顔を合わせる率はそこそこ高い。

 少しずつ、元通りに。同居していたときよりも、初めてセックスしたときよりも、もっと前の子どもの頃のような感覚を取り戻すように。関係が修復されていっているような感触がある。




 その日、昼過ぎにカフェに行くと、崎元くんの写真が壁に飾ってあった。

 憂いを帯びた横顔の新谷さんが、ワンピースの裾をはためかせて街中にたたずんている。


「プロのモデルみたいだ」


 俺のつぶやきに、隣でスマホをいじっていたがあが顔を上げた。


「美人だよな」

「こういう女の子、タイプ?」

「全然タイプじゃない」

「新谷さん、かわいそう」

「嫌いとは言ってないじゃんかよ。つーか、おれがアオイのことタイプだなんて言ったらたぶんあいつ、キモいって返してくるよ。すっげー嫌そうに眉ひそめるだろうなあ」

「どうして?」


 新谷さんとがあは、それなりに信頼し合っている友人同士のようだし、そんなキモがられるとまでは思っていなかった。

 があは難しい問題を考えるように眉間にしわを寄せて、がしがしと頭を掻いた。


「説明がややこしいけど……アオイはなんかそういう、顔が好きとかタイプだとか、誰かしらの性的対象? みたいなのになるのを嫌がるから。まあ、カズが言ったみたいにモデル的な目立つ見た目してるし、それが原因で嫌な思い色々経験してきたんじゃね? おれも知らんからただの想像だけどな」


 じわじわと、があの言葉が心に入り込んでくる。があは再び考えるように数秒口を噤んでから、また話し出した。


「アオイはきっと、“アオイ”という人間として扱われたいんだと思う。アオイのことを“綺麗な女の子A”みたいな感覚でしか見てないヤツって結構いるから。女の子だからって理由だけで優しくすると嫌な顔される。モテるでしょ、とかも禁句」


 実際、新谷さんの逆鱗に触れた人物はかなり多いらしい。ああ、だから友だち少ないのかあいつ。とがあは今気づいたと言わんばかりにつぶやいた。

 きっと、今ここでがあと話していなかったら、いつか俺も新谷さんの怒りを買っていた。


「……ごめん」

「ええ? なんでカズが謝んの? 今アオイいないしいいだろ別に。誰も傷ついてないよ」

「過去に新谷さんと似た考えの誰かを傷つけてた可能性は否めない」

「だからっておれに謝られてもな~」


 人を人そのものとして見る。相手にとって何が大事で何が嫌なことなのかを理解する。相手の望む付き合い方をする。それも、無意識に。自然にできることじゃない。でも、目の前のがあはそれができる人。

 そんながあだから、俺は……。


「……ありがとう、があ。価値観を少しだけアップデートできた」

「なんだそりゃ」

「今日はもう帰る。じゃあね」

「おー。またな」


 そんながあを、好きだと思った。

 なのに、言えなかった。確実に好きなのに。


 やめらんないだろ、ピアノ。


 雨が降るあの日、があにそう言われ、俺は何も言えなかった。

 があはやめてほしかったんだと思う。俺はピアノもがあも好きだし、その二つが心の中を半分こにして占めていても、窮屈だとは感じない。そんなことは全部、があもわかっていたのだろう。

 でもそうして平気そうにしている俺のことが、があは嫌だったに違いない。

 お腹の奥に溜まる、黒いもやつき。きっとあれが、があの心を支配していた。

 どうして今までそういう感情が自分の中に存在していなかったのか不思議だ。

 があが新谷さんと一緒にいるとき。今みたいに、があが新谷さんの話をするとき、自分は少なからずそういった気分になる。それをぐっと押し殺している。


「これ、独占欲ってやつかなあ」


 アパートまでの道を歩きながら冗談交じりにつぶやいてみる。

 よく、和臣くんにはあまり欲がないねと言われて育った。周囲のピアノが上手な少年少女たちは、他の子よりも上手くなりたいとか、他の子に勝ちたいとか、そう思って練習に励むのに、と。

 俺だってそういった欲がないわけじゃない。なかったら、コンクールで一位なんか獲れなかった。あれは、甘いお菓子のようなもの。だから欲しくなる。

 でもそういった欲と、独占欲は同じ「欲しい」なのにすごく違う。欲しがらないほうがお互いに自由で心穏やかでいられるのに、欲しくなってしまう。矛盾した不快感。

 この欲に味がついてるなら、苦くてあまり美味しくなさそうだなと思った。





 そういえば堀さん最近見てないな、と思うのと、隣の部屋の異変はほぼ同時にやって来た。

 異変というか、騒動というか。

 外出してアパートに帰ってきたら、部屋の前に女子が三人ほど溜まっていた。ぎょっとしたけれど、部屋の中に入るためには近づくしかない。恐る恐る彼女たちに歩み寄ると、用事があったのは俺の部屋じゃなくて隣の堀さんの部屋みたいだったからほっとする。

 彼女たちは、スマホを耳に当てたりしながら、堀さんの部屋のインターホンを何度も押していた。

 通り抜けて自分の部屋に入ろうとドアノブに手をかけた。けれど、その三人組が深刻な表情をしているのが気にかかり、ちらりと目をやる。

 ……やっぱ、声だけでもかけておこうか。


「あの、なんかありました?」


 そおっと話しかけてみると、彼女たちは数回瞬きをして、俺をまじまじと見た。なんか変なこと、言ったかな。


「……礼奈の知り合いですか?」

「え? あ、隣のこの部屋に住んでまして! たまに顔を合わせるくらいの知り合いです! 堀さんに用事ですか? そういえば最近あまり見かけませんけど……」


 どうやら俺と堀さんの関係に警戒していただけみたいだ。怪しい者ではないアピールをすると、彼女たちのこわばっていた顔が緩んだ。

 それにしても、堀さんとは今までならちょくちょく廊下で鉢合わせていたのがここしばらくないことに気づく。

 三人は一度顔を見合わせてから話し出した。


「私たち同じ学科の同級生なんですけど、連絡が取れないんです」

「進級課題の作品制作に悩んでたみたいなんですけど、そのあたりからだんだん顔見せなくなって」

「期末テストもいくつか欠席した科目があるみたいで。真面目な礼奈がテスト休むってありえないし、心配で」


 引きこもっているのだろうかと様子を見に来たけれど、反応もないらしい。中にいるのか、どこかに行っていてそもそもいいないのか。

 見かけたら友だちが来ていたと言っておく、と言うと彼女たちはほんの少しだけ表情を明るくしたけれど、俺が自分の部屋に入ってもまだしばらく廊下に残っているようだった。しかしそれもやがて、帰っていく気配がして静かになる。

 なんとなく気になって、IDを交換したものの一度も使っていない堀さん宛てにメッセージを入れておく。友だちが来ていたこと。少しだけ事情を聞いたけど元気なのか。等々をおせっかいにならない程度に遠回しに送ってみる。返信はない。あるとも思っていなかったけど。俺に返事をしてくれるくらいなら、さっきの友だちにもしているだろう。

 ……あれ? そういえば鍋パーティーのときに友だちいないから隣人を鍋に誘った的なこと言ってなかったっけ。いるじゃん、友だち。




 翌日、偶然会ったユキさんに昨日のことを話すと、もう一度部屋を訪ねてみようということになった。


「てか山ちゃん演奏テスト明日じゃない? 練習しなくていいの?」

「さんざんしてなんかもう疲れました。A評価もらえるかはわかんないけど不合格にはならないと思うんで今日はもういいです。ユキさんは?」

「俺はもう終わってるから。修論の口頭試問は残ってるけど演奏の練習からは解放されてる」


 午前中で太陽が明るい時間帯。男二人で訪問しても失礼にはならないと思う。……けれど、念のため新谷さんに来てもらった。なんか騒がしいことに気づいた崎元くんも部屋から出てきたけど、「あんまり大人数で出向いても迷惑だから」とすぐに部屋の中に戻っていった。

 新谷さんがインターホンを押すのを、俺とユキさんで見守る。数秒待ってみたけれど、やはり反応はなし。さっき新谷さんがメッセージを送ってみたのも、反応がなかったそうだ。


「実家に帰ってたりしません?」

「かもしんないけど……でも万が一、部屋の中で倒れてたら?」


 だんだんと会話のトーンが深刻になってくる。まだ何かが起こったとわかったわけでもないのに、嫌な汗が背中を流れる感覚がした。


「ちまちまメッセージなんか打ってるから連絡つかないんだよ。直接電話しよ」


 ユキさんが通話をタップしてスマホを耳に当てる。それは友人を名乗る女子たちもやっていたことだから、正直電話したからといって期待はできないけれど……。


「……あっ、もしもし? 堀さん?」


 え……繋がってる……?

 あっという間に自分の予想が覆されたことに驚愕していると、ユキさんはこちらに向かって親指を立てて見せた。


「今どこにいる? 部屋の中? 今ね、新谷さんと山ちゃんと一緒にいるんだけどちょっとお喋りしない? はい、はーい。五分ね、待ちます。ありがとう」


 うそでしょ。音信不通だったアパートの隣人とさらっと連絡を取ってしまうユキさん、いったい何者なんだ……。

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