(7)最強の妹
カーペットの上で眠ってしまってから、次に目を覚ますと、美蘭も広瀬くんもいなくなっていた。
代わりに仕事から帰って来たお母さんと、学校から帰って来た愛莉が夕飯の準備をしていた。
「お姉ちゃん、広瀬さん駅まで送ってったよ」
「あ、そう……え? 広瀬くんが美蘭に送ってもらってるの?」
外は夕暮れ時だけど、まだ明るい時間帯だしここら辺の住宅街は治安が良い。男子高校生が一人で歩いていて何かある確率がゼロとはいわないものの、限りなく低いと思うんだけど。
疑問が全部顔に出ていたらしい。お母さんに鼻で笑われた。
「どっちがどっちに送ってもらっても別にいいのよ。ただ別れるまでの時間を引き延ばしたいだけなんだから」
「へえ、そういうものなんだ……」
「お兄ちゃん、恋心がわかってなーい」
「愛莉だってわかってるのかしらねー? 圭都くんとデートにでかけても、また二人でここまで帰って来るだけじゃない」
「わかってるよ! 家の前で別れるの、いつも寂しいもん」
「ああ、それで結局、別れられなくて家の中にまで圭都くん連れてきちゃうのね……。彼、如月さん家よりもこっちに直接帰って来る率がだんだん高くなってるわよ、愛莉のせいで。和臣、どこ行くの?」
「ちょっとだけ散歩。戻ったら夕飯の準備手伝う」
そう言い残して上着をはおり、家の外に出る。昼間ほとんど寝ているだけだったから、少し体を動かしたい気分。
だいぶ春めいた気候になったと思っていたけれど、まだ風が冷たい。頬が体温を失っていくのを感じながら、住宅街をつらつらと歩く。
綺麗で整然としている家と道の風景。少し歩いて住宅街の外まで出なければ、コンビニもスーパーマーケットも見当たらない。あるのはここに住む主婦層が通う喫茶店と、ちびっ子たちが走り回る公園くらいだ。
青少年の遊び場がなく、夜になるととても静かになる。そんな、高級住宅街とまではいかないものの中流家庭が集まった、新興住宅地。
きっちりした空気を醸し出しているこの街を窮屈がって、さっさと遠くの学校や就職先へ引っ越していった同級生も少なからずいたけれど、俺はそんなに嫌いじゃない。
でも、アパートの雑然とした雰囲気も、嫌いじゃない。俺はどっちも好き。愛莉なんかは、アパートの空気が苦手と言うけれど。
があも、本当は苦手だったのを言い出せないまま、もしかすると気が付きすらしないまま、暮らしていたのかもしれない。
どこかの家から、たどたどしいピアノの音色が聞こえてくる。何度もつまずきながらも音符を紡ぐ、顔も知らないご近所さんの練習風景を想像して、ふっと頬が緩む。
「お兄ちゃん?」
立ち止まって聴き入っていると、一人で駅の方向から歩いてきた美蘭が俺の姿を見つけて駆け寄ってきた。
「何してるの?」
「んー、散歩。でももう帰る。美蘭も帰るでしょ」
「もちろん」
では帰ろう、と家の方向に足を向けたタイミングで、なぜか美蘭は俺の正面に回って俺の顔をじっと見た。
「どうしたの」
「お兄ちゃんの元気度チェック」
「なにそれ」
お互いに軽く笑い合って、歩き出す。本当に何だ、それ。
「全回復まであとちょっとだね」
「元気度チェック?」
「そう。楽くんと一緒に住まなくなってから元気ないなって思ってたけど、今はそうでもないね。でもまだ元気いっぱいって感じでもない」
「そんなの顔だけでわかるの?」
「お父さんとお母さんと、お兄ちゃんと愛莉だけはわかる。皐月もちょっとだけわかるかな。あと、お兄ちゃんと皐月は楽器の音でもわかるよ」
「どういうこと?」
「お兄ちゃんのピアノの音で、元気ないかわかるってこと」
美蘭が何でもないことのように言うから、目を見開いて彼女の顔を凝視してしまう。
「俺、顔はともかく……落ち込んでても演奏に出ないタイプのつもりだったんだけど……」
「あー、それ皐月も言ってた。和臣くんって何があっても演奏崩れないからすごいよねって。でも私から言わせてもらうと、演奏が気分に左右されてるとき結構あるよ?」
例えば、があが出ていった直後にあった学祭の企画で俺はピアノ協奏曲を演奏した。それも聴きに来ていた美蘭に言わせるとめちゃくちゃ元気のない音を鳴らしていたらしい。関係者はみんな絶賛していたのに。
「調子がいいときのお兄ちゃんのピアノはハッピーエンドで、調子が悪いときのピアノはメリーバッドエンドって感じなの。確かに皐月の言う通り崩れてはいないし、ハピエンにしろメリバにしろ美しく完成されてんだけど」
「オタクの目線混じってない、それ? ……曲想がぶれるってことなのかな。でもそんな気分でころころ変わるなんてことまさか……」
「キョクソウって何それ。音楽の難しいことはわかんないんですけど。まあでも私、家族だし小さい頃からお兄ちゃんのピアノも聴き慣れてて、喧嘩とかもしたことあるし気持ちの浮き沈みも見慣れてるから。あとお兄ちゃんと同じオタクだから? ある意味いちばん山田和臣のことわかってんの、私かもよ」
「美蘭……きみ、最強の妹では?」
「まあね」
胸に、お腹に、ぽぽぽとあたたかいランプが灯る。心を明るく照らす光を投入された。そんな感じ。一気に体が軽くなる。
俺を本当に救ってくれる一番の理解者は、新谷さんでもなければ他の友人や恋人、そんな存在ではなくて。一緒に育って趣味も似通っている、血の繋がった妹だったのかもしれない。
「最強美蘭」
「四字熟語みたいで絶妙に語呂が良いのがなんかやだ」
「はは。……よかった。俺、があがいなくなって、ちゃんと傷ついてたんだ」
「傷ついた気持ちが演奏に出るかどうかで自分の傷つき具合をはかってたの? くだらなすぎ。もうそれは顔とか演奏とか見なくてもわかってるから。楽くんとの関係が上手くいかなくなって、お兄ちゃんがショック受けてたこと。私が元気度チェックしたのは、どれくらい傷がふさがったかなって、そこだから」
体の中が明るい光で暖かくなりすぎて、涙が出そうになってきた。
「俺……本当にがあのことが好きなんだよ」
「知ってるよ。お兄ちゃんにとって楽くんは、幼なじみだし弟だし親友だし恋人。そうでしょう?」
「……恋人にはなり損ねたけど。なんか上手く気持ち伝えられなくてさ。ずっと中途半端なままだったから、急に壊れちゃった」
美蘭の言う通り、友情と家族愛と恋愛。全部の感情を綺麗に混ぜて同居させたものを俺はがあに対して抱いていた。
少しずつ修復されているがあとの関係は、恋愛の部分をお互いに思い出さないようにして構築されているような気がする。でも自分はまだ、恋をしている。
「未練あるんだったらちゃんと言えばいいのに。恋人になってほしいって」
「俺が美蘭なら、はっきりそう言う勇気もあるんだろうなあ」
「……そういうわけでも、ないけど」
歯切れの悪い返事が返って来る。広瀬くんは自分から美蘭にぐいぐい行くタイプ。それに、彼以前に妹がどんな恋愛をしていたのかは、詳しくない。一度、皐月の彼氏が好きだったとか、それが俺の大学の友人に似ていたとか、そんな話になったことがあるけれど、突っ込んで事情を聞くことはなかった。
中途半端が嫌いな美蘭にも意外と、上手くいかなかった苦い経験があるのかもしれない。
リビングで眠りに落ちる直前、美蘭がこぼしていた言葉を思い出す。
たぶん私、欲張りなんだよ。
部活もやりたい、恋愛もしたい。そうやって悩む美蘭。俺も似たようなものかもしれない。
音楽が好き。ピアノは辞めたくない。があも諦めたくない。があが好きだ。欲張り。わがままな俺。
「美蘭、俺も欲張りだ。があがいれば他に何もいらないって言えればがあを幸せにできるかもしれないのに、それは無理。ピアノ弾きたい。ピアノがあれば何もいらないって言えれば一流の音楽家かもしれないのに、それも無理。があも欲しい」
「お兄ちゃん、大げさ。恋愛マンガじゃないんだから、何か一つのものだけで生きていくなんてそんなの無理だよ。……お兄ちゃんもだけど私も、やりたいこと、欲しいもの、上手いこと折り合いつけて両立するしかないんだろなー」
「部活と広瀬くん?」
「うん。どっちか捨てたら楽かもしんないけど、できないから。広瀬がわがまま言っていいよって言ってくれるうちは、私は両方欲しいって言うことにした」
俺がぐーすか寝ているうちに話し合いがはかどったのか、今の美蘭はすっきりした表情をしている。
「俺も、言おうかな……」
「両方欲しい?」
「うん。というかその前にまず、ちゃんと告白かなあ。があとは、言わなくてもわかるよね、みたいな感覚でつるんでここまできたから、たぶん大切なこと全然言えてない」
「頑張れ、お兄ちゃん」
最強の妹は、俺の背中をぽんと叩いた。
話し込んでいるうちに歩くペースがかなり落ちていて、家に着く頃には夕飯が出来上がっていた。
手伝うと言ったのに帰りが遅かった俺は、翌日の夕飯当番であるお父さんの手伝いをすることを命じられた。明日もぐだぐだした春休みだから、まあいいや。
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