(7)春野さん

 突然やって来た私を見たお兄ちゃんは、「美蘭もか」と意味不明なつぶやきを発しながら妙に懐かしそうに目を細めた。


「な、なにが私もなの?」

「妹たちが連絡もなしにここに押しかけてくるって話。前にさ、愛莉や皐月もこんな感じで急にきたことがあったんだよね。まあ、俺は出かけてたから対応したのはがあだったけど」

「ふうん」


 があ、と楽くんの名前を口にしたとき、お兄ちゃんの顔は優し気に緩んだ。


「なんで、お兄ちゃんたち一緒に暮らすのやめたの?」

「一緒にいすぎて、こんがらがったから。……いや、違うな。たぶん俺の生活にがあが合わせすぎて、があのストレスが爆発した」

「同棲も色々大変なんだね」

「同棲じゃなくて同居ね。ところで、何の用だっけ」


 忘れていた。私の目的。

 お兄ちゃんの部屋にあるぺちゃんこのソファに座って、隣に座るお兄ちゃんを見上げる。


「お兄ちゃん、菊池さんと仲良くなったんだよね」

「うん。今、SNSが荒れてて大変だってね。菊池くん、こないだ会ってからときどき話すようになったけど、事務所にも厳しいこと言われたとか」

「じゃあさ、菊池さんの彼女さんのことも何か知ってる?」

「ええ? なんで」


 お兄ちゃんが眉をひそめる。でも薄茶の瞳がうろうろしているから、知ってるってことだと思う。


「どんな人か、遠目でいいから見てみたい。私の中の菊池さんは、芸能人でアイドルみたいで、現実味のない人だけど……でもどこか、皐月の彼氏に似てる」

「なんで急に皐月の彼氏の話……」

「私、その人のことが好きだったから。ずっと片想いしてたけど、結局私じゃなくて皐月がその人とくっついた」


 一度も話したことがなかった私の恋愛話に、お兄ちゃんが変なものを食べちゃったときのような顔をする。


「私は菊池さんのファンになったけどただのファンじゃなくて半分くらいは、好きだった人に似てるから、未練みたいなもので好きになってたような気がする。だからちゃんと、いたって普通の彼女がいることを確認して、失恋したい」


 皐月ならまあいいか、と大橋くんのことを諦めるように。

 私は彼へのちっぽけな恋心を消して、純粋なファンになりたい。


「菊池くん本人は? 確認するのは彼女だけでいいの?」

「ファンが知り合いのツテを使って“推し”本人に会ったり見たりするのはズルいし。お兄ちゃんだってオタクの端くれなんだからわかるでしょ、推しに会うのは劇場で、ステージと客席の距離じゃないとありえないから」

「わかるような、わからないような……」


 お兄ちゃんが、難しい顔で首をかしげる。けれどやがて、けろっと明るい口調で「美蘭」と私の名前を呼んだ。


「土曜日、うちの大学は授業日だから、見学においでよ」

「けんがく……」

「そう。たぶん菊池くんの彼女も大学来てるし。あと、皐月も誘って」

「なんで?」

「皐月、進路にうちの大学考えてるって前に言ってたから。一緒に案内してあげる」




「初めまして。芸術文化学科二年の春野です」


 見るだけでいいと言ったのに、お兄ちゃんは私の目の前に菊池さんの彼女本人をどかんと投入してきた。

 春野さんは、期待通りの普通の人だった。超美人ってわけでもない。

 でもにこりと微笑んだら愛嬌があって、可愛い。ちょっとぽっちゃり系。甘いものを食べてる姿とか、似合いそう。


「無理言ってごめんね。こっちが妹の美蘭で、この子は幼なじみの皐月」


 大学のだだっぴろい中庭で、お兄ちゃんが私たちを紹介する。

 今日一日一緒にいてくれるのかと思ったら、お兄ちゃんは自分には自分の授業があるから春野さんに案内してもらえという。丸投げだ。


「いいんですか? 先輩の妹さんたち、本当にお預かりしても。カズ先輩の授業のほうが実技もあって面白いと思いますけど……」

「うん、いいよ。講義はともかく個人レッスンについてこられてもって感じだし。皐月は芸文科の受験も考えてるみたいだから、そのほうがいいかなって。悪いけどよろしくお願いします」


 ここに来る道すがら皐月から聞いたけれど、彼女はここの芸術文化学科というのを志望候補に入れているそうだ。お兄ちゃんのいる音楽学科みたいに演奏しなきゃいけないんじゃなくて、座学が中心の学科らしい。

 私と違って真面目な理由でやって来た皐月は、「よろしくお願いします」とお行儀よく頭を下げた。

 不真面目な理由でやって来た私は、心の中でごめんなさいと謝りながら無言でぺこりと頭を下げる。


「わかりました。じゃあえっと……美蘭ちゃん、皐月ちゃん、行こっか」

「あとで迎えに行くからねー」


 お兄ちゃんにひらひらと手を振られる。私たちは春野さんについて授業にもぐらせてもらうことになった。




「二人はカズ先輩みたいに何か音楽やってるの?」


 大講義室の真ん中あたりの席に座って授業が始まるまでのあいだ、間を持たせるために春野さんが話しかけてくれる。

 皐月は首を縦に振り、私は首を横に振った。


「吹奏楽部で打楽器やってます」

「私は何もやってないです」

「そうなんだ。ああ、だから皐月ちゃん、音楽に興味があって?」

「はい、演奏家になる気はないんですけど、なんかもっと理論というか、芸術と社会の関わりとか、そういうこと知りたいなあとか……すみません、自分でもまだよくわかんないんですけど」

「大丈夫、わかるわかる。私も似たような感じだよ。絵が好きだけど描く才能はないから、美術作品の分析とか見るほうの力を極めたいなって」


 話を聞きながら、皐月はそういうことを考えていたのか、とずっと一緒に育ってきた幼なじみの知らなかった一面に不思議な感覚を覚える。

 それから、絵の話をする春野さんを観察する。目が生き生きとしていて、好きなことを勉強している充実感が伝わってきた。


「美蘭は行きたい大学もう決まってるんだよね。チアの強豪」


 皐月に話をふられて私はうなずく。大学でも部活は続けると決めている。夢は世界大会。


「美蘭ちゃんはチアをやってるんだ! いいねえ、私あまり詳しくないんだけど、どこの大学が強いの?」


 しばらく大学のチアリーディングチームの話や私の部活の話になっていると、講義室の入り口が俄かに騒がしくなった。

 視線を向けると、一人の男子学生が部屋に入ってきたところ。……ってあれ、菊池樹!?彼が席につくと、周囲に小さな輪が出来上がる。……人気者だ。

 私は遠目でもわかったけれど、俳優にさして興味のない皐月はきょとんとしている。


「誰ですか?」

「誰って、皐月、菊池樹さんだよ!」

「あーっ、美蘭が追っかけてる!」

「えっ、美蘭ちゃん菊池くん好きなんだね。確か、演劇学科の学生さんだったかな。もうプロデビューしたりして有名人だとああやって人も集まって来がち。たぶん美蘭ちゃんのお兄さんも、少し前まであんな感じだったんじゃないかな」

「は、はあ……」


 だったかな、って、あなたの彼氏なのでは。完全に他人のふりしてるってことか。

 でも、私が炎上の件を知っているからか、周囲の人たちがちらちらと菊池さんと春野さんを見比べているような気がしてならない。気のせいかもしれないけど。

 ふっと菊池さんの視線がこちらを射抜いたような気もしたけれど、春野さんは穏やかな表情で素知らぬ態度だ。

 そのまま、先生が来て授業が始まっても、春野さんは菊池さんのほうを一度も見なかった。ただひたすらに、講義の内容をノートに取り続ける。

 あんまりじっと見ているのもおかしいと思って、私も講義に耳を傾けてみる。

 音楽史の授業だ。だけど高校の世界史のように順番に主要人物と出来事が紹介されるわけではなく、先生の話は先生自身の興味に従って好きな時代、好きな話題に飛んでいく。わかりにくい。

 なのになんか、学問っていう感じがしてわくわくした。

 でも、文系の私にはちょっと難しい。数字がたくさん出てくる。

 ピタゴラスがどうとか、フィボナッチ数列がどうとか、これ本当に音楽の話をしているのか? という単語がちょいちょい出現する。

 考えてみれば、小中高の音楽の授業で勉強させられた楽譜の読み方も、何分の何拍子だとか、分数が出てきてた。

 音楽は数学だったのか。私はこの日突然、真理にたどり着いてしまった……。

 隣の皐月を見ると、私よりは明らかに理解している表情で、ふむふむとうなずいていた。さすが理系クラス。




 その後、もう一時間、現代アートについての講義に出てから、春野さんは私たちを学食に連れて行ってくれた。

 高校の食堂よりも広い。メニューが多い。カレーライスの普通サイズを頼んだら、めっちゃ大盛にされたんだけど、なんで?


「この食堂、なぜか基準が男子なんだよ、女子はハーフサイズがちょうどいいくらい。ごめん、私が先に忠告しておけば……」

「や、大丈夫です! 部活の合宿で大食い、鍛えられてるんで!」


 異常にざわざわした喧騒に圧倒されながらも、つい大声になって運動部のノリで根性発言をしてしまう。まあ、ほんとのことだし実際、目の前のお皿は完食して空になっている。


「それなら良かったあ。私は部活やってないけど、いっぱい食べちゃう」


 春野さんがころころと笑う。彼女はやたらおかずの量が多い定食を頼んでいた。小食の皐月が呆れた目で私を見る。


「美蘭はいっつもすごいよね……大会の本番前もばくばく食べるし。わたし、演奏前に食べたら吐きそうになるから一食抜いたりする」

「皐月は緊張しいだからねー」


 お兄ちゃんも演奏前はあまり食べない。音楽家はそういうものなのかもしれない。


「そういえば、春野さんはお兄ちゃんとどういう知り合いなんですか? 学科違うのに」


 一瞬、春野さんの笑顔が硬直したように見えた。

 本当は知ってる。お兄ちゃん→チケット譲ってくれたお兄ちゃんの友だち→菊池さん→菊池さんの彼女の春野さんという流れでお兄ちゃんは交友関係を広げている。

 意地悪な質問だと思ったけれど、さっき菊池さんと他人のふりをしたこの人はどう説明するのだろうと、見てみたくなった。


「……友だちの友だちが、カズ先輩だったんだ」

「そうだったんですか……」


 つまんない答え。でも聞いた瞬間、春野さんは相変わらずにこにこしているのに、自分だけとても居心地が悪くなった。

 もうしない、こんな質問。こういうことする自分、嫌いだ。

 この人たぶん、いい人だ。匂わせ彼女じゃない。たぶん本当にうっかりだったんだ。

 高校で女子ばっかりの部活に所属して、私は胃袋だけでなく女の勘が鍛えられた。本当に嫌な女は感覚でわかる。彼女は違うと。

 そのとき、私たち三人のスマホが同時に振動した。春野さんがびくっと震える。

 見ると、お兄ちゃんから迎えに行くというメッセージが同時送信されていた。


「大学見学、楽しかったです。ありがとうございました」

「いえいえ、少しだけでごめんね。サークルとかも案内できればよかったんだけど」

「えっ、サークルの話も聞きたい……あの、連絡先教えてもらってもいいですか?」


 皐月のお願いにOKした春野さんが、メッセージアプリのIDを皐月と交換している。

 二人の会話には加わらず、学食にいる旨をお兄ちゃんに返信し終えてなんとなく春野さんを見ると、スマホを持つ手が震えていた。

 なんで震えているとか、そういうことは考えつかず、ただ、私はぼうっとした頭で無意識に手を伸ばす。

 私よりも少し長い指をしたその手を、そっと私の両手で包み込んだ。想像以上に冷たい。


「美蘭?」

「……美蘭ちゃん?」


 皐月と春野さんが、戸惑った顔で私を見た。やっと、自分が不審な行動を取っていることに気づいた。

 けど、手を離す気にもなれなくて、私は春野さんの手を握ったまま沈黙した。

 春野さんが、困ったように笑う。


「最近ね、スマホでちょっとやらかしちゃって。相手に間違えた写真送っちゃったっていうか……それで人に迷惑かけたから、連絡のやりとりにすごく注意するようになったんだけど……慎重になり過ぎて逆に緊張して」


 手が、震えるんだよね。いろんな詳細を伏せて、それでも青い顔で説明しようとする彼女を見ていると、私まで苦しくなってきた。


「……あるあるですよね、間違えるの」


 私は彼女の首もとあたりを見つめながら、つぶやいた。


「私も一回、友だち相手にお母さん、忘れ物したーってメッセージ送っちゃったことあるんですよ。そしたらそれ、クラスメイトに見られて、友だちのクラスでのニックネームがお母さんになっちゃったから、悪かったなあっていう……中学生のときの思い出です」


 何喋ってんだろ、私。でも、くすりと笑ってもらえたから、いいや。


「あったねえ、そんなこと。懐かしい」


 皐月がぷくくと思い出し笑いをこらえている。それから、春野さんに優しい表情で話しかけた。


「わたしたち高校生なんで、まだそういうしょうもない失敗しかしたことないですけど……おっきい失敗して、誰かに迷惑かけてもたぶん、なんとかなりますよ。うちの兄も社会人になったばかりのときに、なんかメールの誤送信して取引先を怒らせたって超落ち込んで帰って来たこと、あるんですよ。でも、失敗すること誰にでもあるから、二回目が起こらないように考えながら、みんなでリカバーしよって先輩たちが助けてくれたって」


 今度は私が、ああそういうことあったなあ、と思い出す。

 もともと生真面目すぎてナイーブなところのある圭都くんが、いつにもましてどんよりしてた時期。

 中学生だった私には、彼はこのまま仕事を辞めてしまうんじゃないだろうかというくらい深刻に見えて、皐月と一緒に心配していた。

 お父さんやお母さんが「慣れてないうちはそういうこともあるある、大丈夫でしょ」と無責任に言っているのを見て、血は繋がってなくても家族みたいな幼なじみなのに、血も涙もない親だと怒りを覚えてすらいた。

 でも結局、両親が正しかった。圭都くんはほどなくして立ち直ったし、今もまだ同じ会社で働いている。


「だから、そんなに怖がらなくても、きっと大丈夫です」

「……」

「あ、年下が偉そうにスミマセン……」


 我に返ったように、今度は皐月も青くなる。それを見た春野さんが、眩しいお日様に目を細めるように微笑んだ。


「……そうだね。二人とも、ありがとう」


 ぽとりと、私の中の汚い感情に成り損なった塊が、落ちて消えた。

 目の前にいるのは私の好きな俳優を炎上させた彼の恋人じゃなくて、ただの春野さんだった。

 私のお兄ちゃんの後輩で、高校生の私たちに大学を案内してくれた、優しい年上の春野さんだった。

 皐月はすごいと思う。春野さんが具体的に何をやらかしたのかも、菊池さんのことも、私の本心も、何も知らないくせに。

 大学生になったことも、俳優の恋人になったことも、SNSを炎上させたこともないくせに。

 なんとなくさらっと、温もりのある言葉で誰かを救ってしまうんだから。

 そして私は、二度目の失恋をした。

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