2話
携帯のアラームが鳴る。私は、ベッドから体を起こし、寝ぼけ眼のままシャワーに入る。体には父親からの暴力の跡があり、見ていられない。いつも風呂場にあるガラスが曇るのを待っている。シャワーを浴びながら、メールの差出人について考える。昨晩(と言っても四時間ほど前だが)のメールはいつもと変わっていた。普通、私に送られるメールはいつも長文で今まで自分がどれだけ辛い事実であったのか、今後の人生にどれだけ希望が持てないかなど、エッセイのように送ってくる人が多かった。でも、その人は『僕は死ぬことにした』とだけメール本文に記載しており、なんだか不気味な感覚を持っていた。
お風呂から上がると携帯に一件のLINE通知が来ていた。
“香織、今日の一限出る?”
送り主は、私の唯一と言ってもいい友達、
“一応、出るつもりではいるけど”
楓とは中学の頃からの友達で都会の大学で良ければどこでもいいと思っていた私に今の大学を勧めたのは彼女だった。
“OK!いつものように8時半に講義棟の西階段で待ってるね”
楓は私にどうして優しくしてくれるのかよくわからない。翔吾が死んだ時、私は彼女にきつくあたってしまったことがある。「あんたなんか友達でもなんでもない」とまで言った。楓はその時、何も言わずずっと私の手を握っていた。それ以来、私は楓とは縁を切ることができず、大学まで彼女と同じところに行ったのだった。
クローゼットから少ないながら服を一着選び、化粧と準備をそれなりに済ませると家を出る。家を出て少し歩いて忘れ物に気づいた。面談の時にかぶっている黒の帽子。それを家に取りに帰って鞄に押し込んだ後、忘れ物がないか再度確認した上で、もう一度家を出た。
約束していた場所に楓はもうすでに着いていた。
「香織、おはよ」と楓は眠そうに言う。
「おはよ」
「香織は眠くないの?」
「私は、まぁ、大丈夫かな」
私はそう言って、教室の方に向かう。楓は「あ、待って!」と言いながら私に着いてくる。
「そういやさ、今日お昼、どこか遊びに行かない?」と楓は聞いてきた。
「今日のお昼?ごめん、難しいかも」
「何か予定でも入っているの?」
「うん」
「もしかして、例の『面談』ってやつ?」楓は少し不安そうな顔をする。
「まぁ、気にしないで。誘ってくれたのにごめん」
「気にしないで、その代わり、明後日は開けておいてよ?」と楓は言う。
「わかってる。楓の誕生日はちゃんと覚えているから」
そう言って、私は講義室のドアを開けた。
大学の授業は差が激しい。興味深く気になる話もあれば、教授がイヤイヤしている授業もある。そんな授業の時、私はずっと翔吾のことを考える。あの子は今幸せなのだろうか。死んで満足しているのだろうか。いま、私はあの子の死に際に近づいているんだろうか。隣では楓が夢の中にいる。とても気持ちよさそうだ。そんな姿を見て、少しだけ羨ましく思った。
―楓も寝ているし、ちゃんと授業を受けますか―
私は、楓の分も思いながら面白くもない大学の授業を真面目に受けノートを取っていった。
私はいつも約束の時間の30分前に目的地に着くようにしている。相手を待たせてしまうのは失礼だし、私の黒の帽子が目印になるから。私はいつも座る二人がけの席に座って相談相手を待ちながら、本を読む。パーフィットの『理由と人格』。大学の授業で読んだことからハマった本。別に哲学者になろうと言うわけでもないし、その本を読んでいる私が知的だと思いたいわけではない(ただ、自分の中に優越感があるとは思う)。私が知りたいのは翔吾が死んだ時、どんな風に思っていたのか。それだけ。死にまつわるものであったらなんでも読んでいる。私は半分意味の分からない文章を読みながらもどこかに翔吾が死んだ経緯があるのではないかと模索する。
「あの、あなたですか?」と声をかけられる。
私は声の主の方を見ると、ひょろりとした男性が立っていた。
「メールを送ってきた方ですか?」と私は聞く。
「あ、はい。昨日の夜に」と相手は答える。
彼を見たとき、少しだけ翔吾の面影を感じた。でも、やっぱり、違う。彼もまた私の欲望を満たしてくれないのかもしれない。そう思いながら、面談を始めた。
面談が終わり、コーヒー代を置いて店を後にする。予想外だった。彼は不思議な人だ。私は面談中、本当に死にたいのかどうか分からず彼を揺さぶってみた。これまでの相談者と同じような質問をする。「あなたは逃げていませんか?」という言葉は自殺志望者の心にはグッと刺さるらしいのだが、彼は黙ったものの、死を全面に押し出してきた。こんな体験は初めてだった。彼は何を考えているのだろうか?本当に彼は死ぬのだろうか。すごく興味を持ったし、最後までみてみたいと思った。気がつくと、私は彼の自殺を「後押し」していた。話がしたい。彼がどのような答えを出すのか、もしかしたら翔吾について、彼なら教えてくれるかもしれない。そう思うと、いても立ってもいられなくなった。過去の先哲は翔吾の自殺を教えてくれないけれど、彼なら教えてくれるかもしれない。
そういえば、彼は最後に名前を聞いてきた。初めての体験だった。私は嘘をついて『メメント』と名乗った。メメント・モリ。「死を忘れるなかれ」とでも訳せばいいのだろうか。安易な名前だなぁと思いつつも、咄嗟の出来事だったのでそれで良いかとも思えた。メメント・モリ。人はいずれ死ぬし、その死は唐突に訪れる。翔吾のように。いや、本当は人々の右肩にそっと乗っているのかもしれない。私たちが、気づかないだけで。翔吾は、それに気づいたのかもしれない。
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