第245話 実現

 俗に、サウスポーは5km/h増し、などと言われることがある。

 もちろん本当に球速が上がるわけではないが、右腕からとは違う角度から繰り出されるボールが、それぐらいの価値があるという意味だ。

 日本で一番の本格派ピッチャーは誰か。

 それはもちろん上杉勝也なのであるが、アマチュアで圧倒的な実績を残しているピッチャーと、プロで投げ合ったことがない。

 しかしこの日実現する。


 沖縄キャンプでの練習試合、オープン戦以前の段階だが、神奈川グローリースターズと、大京レックスの対決なのだ。

 そして予告先発もない練習試合だが、上杉が投げることと、武史が投げることは、両チームの監督が告げていた。

 つまりここ沖縄で、シーズン前の非公式戦ながら、日本一の左右の本格派が投げ合うことになるのだ。

「本格派って言葉好きじゃないけどなあ」

 武史などは変に注目されるので、あまりやる気が起こっていなかったが。


 こんなところで無理をして、シーズン前に怪我をしたら本末転倒。

 武史にとって野球というのは、あくまでも仕事なのである。

 上杉という最強のピッチャーと投げ合っても、負けるのがここは当然。

 そもそもエース対決というのは、お互いのチームのバッターと対決するものだ。

 その点で武史は、あまり相手のピッチャーを意識したことがない。


 高校の頃はまだ、同学年に真田という存在がいた。

 絶対的な存在である兄と、ほぼ互角に見えたあのピッチング。

 実際には翌年の同じカードで、直史が圧倒的な技量差を見せ付けたのだが。

 それでも武史にとっては、高校時代は試合は勝負であった。


 大学時代はただひたすら、記録を伸ばすだけの日々だったと言える。

 ツインズが明日美を連れて乱入したことはあったが、あの一件は別に武史だけではなく、直史を除いた全ての人にとって、六大学の華やかな黒歴史と言えよう。

(普通に160km/hオーバー投げただけだと、当ててくるんだから、プロってすごいよなあ)

 仮にも昨年日本一になったスターズ打線に、武史はのんきなままで挑んでいる。

 これはオープン戦以前の練習試合。

 むしろここで手をさらすなど、特にピッチャーにとってはあってはいけないことだ。


 スターズにはこういう時、頼りになる選手がいる。

 昨年大介を上回り、首位打者となった堀越。

 三番の外野手は大介ほどではないが、かなり万能のバッターに近い。

(大介さんを上回ったって言っても、一ヶ月の離脱と絶不調もあったわけだしな)

 武史の場合、バッターの強さであるなら、一番目に大介、二番目にアレクか西郷あたりがくる。

 それに比べればどんなバッターでも、恐れるに足りないと言えば言いすぎだろうか。


 試合前に30球は投げ込んで、かなり肩は作ってある。

 一番二番と粘ってきたので、そろそろギアは上がってくるだろう。

(さて、どう攻めればいいのかな)

 そう樋口のサインを覗き込んで、すぐに頷く武史である。


 


(速いな)

 ネクストバッターサークルから見ていた堀越は、攻撃的な二番打者芥からの報告を聞く。

「伸びがすごいですね」

 ただ芥はそれなりにカットできたし、ムービングの方にも対応できた。

 チェンジアップとカーブが見られていないのが、まだ注意するべき点か。


 さすがに上杉ほどではない。

 そう考えて、まずは見ることに集中した堀越は、初球のインハイを見失った。

(な……消えたか!?)

 ただ宣告はボールであった。


 インハイにきたはずだ。

 だが途中でボールが消えた。

 上杉の早送りのようなストレートとも、やはり違う。

(もう一度見るぞ。今度は見ることに徹する)

 わずかに前傾姿勢を取っていたが、そこから少し腰を引く。

 するとアウトローにびしりとストレートが決まって手が出ない。

 続いてアウトローにきて、これにはバットを合わせていった。

 完全に当てただけで、一塁線を切ってしまう。


 当たらないことはない。

 少しフォームをコンパクトにして、ミートを心がける。

 四番の西園は大卒で今年が四年目、スターズの主砲である。

 総合的にはともかく、速球をガツンと打っていく技術は、堀越よりも優れている。本格的な攻略はそちらに任せよう。


 なんとか単打でもと思ったところに、またインハイのストレート。

 またも、ボールが消えた。

 しかし今度の審判のコールはストライク。

 見逃し三振と言うよりは、見えなくて三振となった。

(内角の球が、完全に消えていた)

 背筋を冷たいものが流れていった。




 上杉のボールでバッティング練習をさせてもらえることがあるという、恵まれた環境にあるのがスターズの打線陣である。

 武史のストレートの威力は分かっていて、サウスポーということもあり、上杉とはまた違った本格派であるとは思っていた。

 だが、球が消えたというのはなんだ?

 いや、かすかに白いものは見えた気がするが。


 ここから両者の奪三振ショーが始まった。

 上杉はもちろんのこと、武史もまた、空振りどころか見逃し三振を奪っていく。

 それが続いていくうちに、武史のストレートが消えるように思える原因は、なんとなく推測がついていく。

 インハイの顔に近いコースだと、目が追いつかないのだ。


 とんでもないホップ成分が利いていて、脳内のボールの軌道から実際のボールがずれている。

 だからおそらく、ボールを認識できていない。

 上杉のストレートもほとんど瞬間移動と言われるが、真田のスライダーという、今のNPBは魔球のオンパレードなのか。


 三回を表を抑えて、おそらくここで武史は交代だろう。

 三番の堀越から七者連続三振と、とんでもない数字を残していた。

 三回の裏は当然ながら、武史に打席が回ってくる。

 念のためにここで代打を送るつもりの木山であったが、当の武史から待ったがかかった。

「セなら打席に入ることも多いですし、上杉さんのボールバッターボックスで見たいんですけど」

「まあ上杉ならコントロールはいいが……下手に打ちにいって、怪我をするなよ」

 いそいそとバッターボックスに向かう武史である。


 武史は変化球打ちは得意だ。なぜなら直史の変化球の練習台になってきたからだ。

 その分速球に弱い。なぜなら自分に対して自分のストレートを投げることは出来ないからだ。

 上杉のストレートを、自分が打てるわけはない。

(ほとんど見えないんですけど!?)

 自分の球を自分で見るのと、同じような感じがしている武史である。

 もちろんこの三回表には、上杉が同じ感想を抱いたのであるが。


 上杉の持ち球はムービング系とチェンジアップ、そして大きく変化するのは高速シンカーだ。

 ムービング系でさえ当てるのが精一杯で、ストレートをアウトローに入れられたら、どうしようもないだろう。

 そしてシンカーも初見で打てるボールではないはずだ。


 速球にタイミングを測っている。

 尾田はそれを見て、上杉のピッチングの幅を見せておこうと思った。

 武史もまた、ナックルカーブは使わなかった。

 それでいきなり抑えてしまうのだからたいしたものだが、ここはストレートの格の違いを見せておきたい。


 そのためのチェンジアップ。

 低めのボール球を、武史は掬い上げた。

「まあ、あいつ普通に大学時代も、ホームラン打ってたからなあ」

 樋口は呆れるが、チェンジアップに絞れば、武史のセンスなら打てるであろう。

 ライトスタンドに入って、上杉はこの年最初のホームランを、練習試合で打たれることになったのだった。

「そういやあいつ、打てるほうもいけるんだったか」

「高校一二年の時は四番を打っていたこともあるし、大学のリーグ戦でも10本ぐらいは打ってましたしね」

 二刀流。そんな考えもあるのか。

 いや、ねーよ。




 セとパの強さの違いについて、パのピッチャーはDH制を相手にするため、なかなか下位打線でも油断が出来ないから、というものはあった。

 上杉などはバッターとしても甲子園で10本のホームランを打っていたし、武史も大学時代に、自力援護弾というのは打っていた。

 つまりこの二人が先発の時は、セのピッチャーは手を抜いて投げることが出来ない。

 そうは言ってもプロのピッチャーなど、高校時代は四番でエースか、そうでなくてもクリーンナップであることは多いのだが。


 実際のシーズン戦で、武史が打てるかどうかは関係ない。

 だがこの試合で、上杉から打ったということが重要なのだ。

 これでシーズン中、対戦相手のピッチャーはなかなか休むことが出来ない。

 しかも武史は、打つ方はスイッチなのだ。

 全く同じように両方で打てるので、上杉相手には左で打っていた。

 だがこれが真田あたりが相手なら、右で打っていく。

 ピッチャーで駄目になっても、バッターでどうにかなるのでは、と首脳陣は思ったものだ。


 この試合は結局、両方の先発ピッチャーは三回までを投げた。

 結果を見るなら、数字上では完全に武史の勝利である。

 アマチュアで活躍した選手が、プロでは全く通用しないことはあるが、武史はその例には当てはまらないようである。

 まだまだ野手陣は仕上がっていないが、それは武史も同じことである。

 樋口の言っていた最低限までには仕上げていたが、本当に最低限だ。

 このあたりもっとシビアにならなければ、プロで長く活躍するのは難しいだろう。


 翌日のスポーツ新聞は、この一戦を一面に持ってくるところが多かった。

 近畿圏の場合は二面であることが多く、一面でライガースを扱っていたりもする。




 武史はここからも、順調に調整を進めていった。

 どの程度のボールならプロは打ってくるかも考えて投げているため、無失点というわけではない。

 ちょっと抑えて投げただけで、ホームランまで打ってくる。

 谷レベルのバッターであれば、普通にいるのがプロの世界だ。

(でもまあ、六回三失点で抑えればいいんだから、楽な世界だよな)

 武史は完全にプロの世界を甘く見ていて、しかもそれが案外的外れではない。


 プロの世界は一度負けただけで、もうその年の試合がなくなるということはない。

 しっかりと投げて内容が良ければ、普通に次の機会が与えられる。

「どう思う?」

 完全に二年目で正捕手が定着した樋口に、木山は問いかける。

「そりゃあ優勝を目指すなら、使っていくしかないですね」

 樋口も断言する。


 左の先発が三枚いるという、かなり特殊な状況。

 樋口の記憶の限りでは、あれで武史は体も丈夫なのである。

 大学を経由してきたため、全体的に高卒選手よりは頑丈だ。

 昨今では珍しく、完投する体力がある。

 もちろんそれは無駄球を投げなくても済むという、ボール自体のパワーがあるからだが。


 さて、では先発のローテをどう組むか。

 吉村は中六日で固定するとして、金原などはもう少し余裕があるか。

 ただ左ばかり続けるわけにもいかないので、他のピッチャーも使うのは間違いない。

「あと星だな」

 一年目、金原ほどの衝撃はなかったにしろ、一年目の八位指名投手としては、立派な成績を残した。

 ロングリリーフでの好投が目立ったが、また少し先発で使ってみたい。

 アンダースローを使ってみたいたくなるのは、野球人のさがであるのか。

 樋口としても純粋に、星には期待している。


 あとはもう一人気になっている。

 野手ではあるが、社会人から入った山中だ。

 マッスルソウルズ出身ということで、直史にかなり変化球打ちは鍛えられている。

 何より大卒組と比べてもなお、フィジカルの強さが目立つ。

「外野フライをキャッチしてフェンスに激突しても、ひょっこり飛び上がってきましたからね」

「あの頑丈さは驚いたよな」

 レックスの八位指名は、このところいい選手が多いのだ。

 ほぼ大田鉄也案件なのだが。


 樋口も今年は、キャッチャーとして以外に、バッティングでもいい成績を残すつもりである。

 具体的にはトリプルスリーだ。

 去年も三割は超えていたし、出場した試合数から数えるなら、ホームランと盗塁も、それに達しておかしくはない。

 あとは怪我にだけは注意が必要だが。

 意外なことにこのキャンプにおいて、樋口はあまり長打が出ていない。

 もっとも本人からすればわざとである。練習試合やオープン戦では、年俸を上げることは出来ないので。

 ただし確実にスタメンで使ってもらう程度には、数字を残しておく必要がある。




 沖縄での日々は瞬く間に過ぎる。

 本土で帰る前になると、あれだけ東京を恋しがっていた武史が、あんな寒いところには帰りたくないと、沈鬱な表情で言っていたりもする。

 選手の中では吉村が、少し調整に手間取っていた。

 おそらくキャンプではなくその前の自主トレが原因であったろう。

 新婚家庭の吉村は、そのあたりで上手く融通がきかせられなかったのか。


 だが他はだいたい、想定どおりに仕上がってきている。

 あとは三月に入ってから、東京でのオープン戦を通じてやっていくのだ。

 そして沖縄ではなく本拠地や相手チームのメイン球場となると、当然ながら観客の数が違う。

 武史などはマリスタ、甲子園、神宮などで、大観衆から応援を受ける経験もある。


 今年も春の開幕が近い。

 また新しいシーズンがやってくるのだ。

 去年で引退した、あるいはクビになった、多くの選手がいる。

 逆に今年から入り、二軍での競争を抜けてきた、新しい面子もいる。

 樋口としてはインセンティブを得るために、このチームで優勝したい。

 ベストナインとゴールデングラブは、今年こそ両方取りたいものなのだ。


 12球団の中で、しっかりとキャッチャーが若返っているのは、やはりライガースとレックスである。

 だがライガースも正捕手が固定されていない。

 久しく見なかったキャッチャーのスーパースター。樋口の主導でレックスが優勝できれば、MVPに選ばれる可能性すらある。

(とはいっても打撃のタイトルは、白石がいるからなあ)

 さっさとMLBに行ってくれと、樋口は計算高く考えるのだ。

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