第244話 娯楽がない!
東京に生まれたわけでもないのに、千葉に住んでいた頃の自分が、もう思い出せなくなりつつある武史である。
沖縄に来てまずは、夜はこんなに暗かったのか、と思う。
田舎を馬鹿にしているわけではない。むしろ沖縄のキャンプ地近くよりは、実家の方がよほど田舎なので。
ただ当たり前だがキャンプというのはシーズンに向けて鍛える場所である。
娯楽施設が一切ないというわけではないが、ネット環境が万全でないということに気が向いていなかった。
「あああああ! 暇だあああああ!」
叫びながら組まれたメニューをあっさりと終えて、さらにダッシュなどをする武史である。
「あいつ……練習嫌いじゃなかったのか?」
大学野球で武史を知るものは、だいたいそういった印象を持っている。
確かに武史は練習はあまり好きではない。
なので特別に、面白そうなものか、効果が強いものを、厳選してやっているのである。
体力に関しては、野球選手のタイプの体力ではない。
ダッシュ力や体幹、それに急停止などの筋肉や腱に負担がかかる運動を、たやすく行ってしまえる。
考えてみれば165km/hを普通に投げられるのだから、全身のバネが飛びぬけているのは当たり前のことなのだ。
そして基本的には短距離ダッシュなどが得意なのだが、長距離を走らせてもものすごく速い。
この年、ルーキーながら一軍の沖縄キャンプに連れてきてもらったのは、武史の他に社会人野手の山中と、大卒のピッチャーと野手がそれぞれ一人ずつの合計四人。
去年は宮崎の二軍キャンプにいた星も、今年は一軍キャンプに来ていたりする。
「バッピしてもらってる時は全然考えなかったけど、他のプロと一緒にしても、とんでもない身体能力だな」
「山中さん、そんなにバッピしてもらってましたっけ?」
「ああ、俺のクラブチームに佐藤直史が入ったから、その縁で投げてもらってたんだよ。おかげで変化球にもストレートにも、かなり対応できるようになった」
ドラフト八位入団の山中だが、実際にその経験は大きかった。
社会人野球での活躍で八位指名となったのだが、実際はこれまた大田鉄也案件である。
直史が何をやっているのかを見にきたら、良さそうな選手がいたというわけだ。
実は同じチームから、七位か九位で能登を取りたかったのだ。
そちらは他に取られてしまって、残念な思いをしたものだが。
「こらタケ! ちゃんと樋口か星の言うこと聞け!」
キャンプの様子を見に来ている鉄也は、そうやって武史にも声をかける。
武史は一応鉄也の案件であるが、実際には単に話を通しただけだ。
かなりぎりぎりまで、一位で野手を取らないかという話はあったのだが、この年の野手には大本命と言えるような注目の選手がいなかったのだ。
新人合同自主トレを見ても、武史の能力は圧倒的であることは分かる。
それに話に聞いていたほど、問題児というわけでもない。
まあそれは指導陣の言うことを聞かず、自分で組んだメニューを優先しているというだけで、既に問題児ということは分かる。
ただ今年のレックスのキャンプには、女傑が一人同行している。
「武史く~ん、いらっしゃ~い」
小柄な金髪のその女性は、フロント陣の一人であるという。
球団編成アドバイザーというのが肩書きらしいが、どうやら球団本体の運営にまで口を挟めるらしい。
つまりかつての白富東の女監督、セイバーこと山手マリアのことである。
セイバーは怒る人間でない。
淡々とデータだけを積み重ねて、選択は任せるタイプなのだ。
あるいは完全な理詰めでくる。
今回の場合は後者である。
そのセイバーの前に立って、武史は先に口を開いた。
「せっかくの沖縄なのに、さすがに二月は寒いですね」
当たり前である。たまにそれでも泳げるような気温になったりはするが。
だが基本的には、ドライスーツでも着込んだスキューバぐらいしか、海に潜ることはない。
「今年優勝したら、来年からキャンプはハワイにしましょうよ!」
優勝したらハワイというのは、実は決まっている。
武史のこの傍若無人ともちょっと違う、まさに天真爛漫な行動に、レックスの木山監督は既視感をを覚える。
木山でさえも過去としてしか知らない、昭和のプロ野球選手の自由さ。
酔っ払ったまま試合に出たり、乱闘騒ぎをバカバカ起こしていた、昭和の荒っぽさ。
武史の明るさと軽さの中に、それを感じてしまう。
すごい大物だな、と木山は感じる。
それは錯覚でもないのかもしれない。
「いいですか、武史君。世の中というのは、論理と信用によって成り立っています」
損得勘定もまた、論理の内だとセイバーは思っていたりもするが。
「君は高校大学と実績を残したため、複数球団競合一位でこのチームに来ました。そして新人合同自主トレでのパフォーマンスを見られて、一軍に合流しているわけですね」
セイバーの論理展開は、いつだって優しくて易しい。
「一軍の中で勝手な行動をして許されるほど、武史君の実績はまだ出来てませんよ」
「じゃあセイバーさんがメニュー作ってくださいよ。言われたこと、どうしても納得できないんで」
「私はフロントの人間であって、現場に口を出す立場にはありませんが、少し話してみましょう」
セイバーもまた、実はレックスのピッチングコーチかバッテリーコーチには、問題があると思っていた者の一人だ。
でなければ樋口が正捕手になった途端に、あれほど防御率が改善するはずがない。
無能なキャッチャーの向こうには、間違いなく無能なコーチがいる。
これは別にキャッチャーだけではなく、ピッチャーやバッターにも言えることだが。
(本当は武史君には、MLBの方が向いてると思うんだけど)
いずれはMLB用の公式球も、少し扱ってみてほしいものだ。
キャッチャーには主に二つのタイプに大別される。
ピッチャーを自分のリードに当てはめるタイプと、可能な限りピッチャーの要求に応えるタイプだ。
もちろん一番いいのは、事前にちゃんとピッチャーと話し合った上で、リードに納得して投げてもらうタイプである。
樋口は色々と傲慢な人間でもあるが、完全にキャッチャーに向いている部分はある。
それは黒子に徹するということが出来るということだ。
試合を抑えられたら、それはピッチャーの功績。
打たれて負けたらキャッチャーの不注意。
これについては実際に自分でも、心の底から思っている。
だからこそピッチャーとは入念なミーティングをするのだが。
そして樋口が信頼される要因はもう一つある。
それは打撃で負け星を消してくれることだ。
防御率が3程度であれば、先発のピッチャーとしてはおおよそ合格である。
逆に言えば優れてピッチャーでも、平均して二点以上は取られる。
打線の援護がなければ、ピッチャーの勝ち星は伸びていかない。
理不尽かもしれないが、ピッチャーは試合に負けないことが出来る。
だが一人では勝つことは出来ないのだ。
……上杉のような自力援護もないではないが。
負け星を消してくれるキャッチャーは、ピッチャーにとってありがたいものである。
樋口は計算高く、そして人間がいかに愚かで無責任で、責任転嫁しやすい生き物かも知っている。
中には矜持を持つピッチャーもいるので、そういうピッチャーにはそういう対応をしていかなければいけない。
そう、対応力。
これがキャッチャーにとっては必要なものなのだろう。
軽く紅白戦などを、という感じでキャンプ地でもオープン戦の前に、チーム内での試合が組まれる。
武史はもう樋口案件ということで、同じチームに入れられた。
当然のようにその役割は先発。
吉村は丁寧な調整の途中であるし、金原もやや余裕を見て仕上げていく。
この二人は肉体の耐久力がそれほどではないので仕方がない。
正確に言うと金原は、高校でこそ故障したが、プロではそんな大きな故障はないのだが。
こういう紅白戦は、だいたいピッチャーは調子を見るため、数イニングごとに代えていくのが普通である。
だが樋口としては、それでは武史の能力が見られないな、と思っている。
ある意味上杉すら上回る、完投型のピッチャーが武史だ。
ただし上杉と違って、スロースターターという面はある。
先にちゃんと投げ込んでからマウンドに登ればいいと言われるかもしれないが、基本的に武史は試合の中で、テンションを上げていくタイプなのだ。
試合においては50球ほど投げたあたりから、本格的な性能が出てくる。
そして150球ぐらいまでは、それを完全に維持する。
現在のプロ野球の先発は、100球だったり135球だったりが、先発の基準の球数となっている。
だが中には例外がいるのだ。
上杉などもスタミナ・回復力共に段違いであるし、直史は全力投球をしないので、150球投げても疲れない。
ピッチャーによって最適の球数などは、それぞれのピッチングスタイルも関係しているので、一括りには出来ないのである。
そんなわけで樋口は監督に、少し多い球数を投げさせるように進言した。
まあ大学時代から組んでいたことだし、それはいいかと判断する木山である。
新人合同自主トレにおいて、さすがに武史の様子はかなり見ていた木山である。
おそらく大学で確かに練習はしていたのだろうが、それでも早々に165kmを出したのには驚いた。
レックスは左腕王国になっている。
例年なら新人王でもおかしくなかった吉村から、史上最強の八位指名と言われる金原、そしてこの武史。
強力な左腕が三人もいる先発は強力すぎる。
ただリリーフに確実性のあるサウスポーがいないのが、少し悩みどころか。
ただそれも樋口が、軒並みピッチャーの防御率は改善してくれた。
赤組を武史が先発し、白組は高卒四年目の佐竹。
水戸学舎の出身ということで、ああなるほどと思われるかもしれないが、佐竹の代までは一度も甲子園に行けていない。
だが佐竹自身は右の本格派で、このピッチャーの球で練習できたことが、後に水戸学舎が甲子園出場を果たしたことと関連していることは間違いない。
ベテランはまだ調整中で、若手が中心の試合となる。
だがその中には、MLBにポスティングで挑戦しに行った、東条のボールを知っている者もいる。
当時も今も、日本では少なかった160km/hオーバーを投げるピッチャー。
それを体験していても、武史のボールは速いと感じる。
その様子を監督をはじめとする首脳陣は見守っているわけだが、この季節には速すぎる。
スピードガンで測ってみれば、軽く160km/hオーバーで投げているし、どうやら150km/h台後半のスピードで、手元で曲げてくるらしい。
「これ、若手の野手の心を折らんか?」
木山監督がそう心配するほど、簡単にバッターを打ち取っていく。
対する佐竹も去年から本格的にローテに入って、先発の一角を占めることになってきている。
左にエースクラスが多すぎて、右の本格派がほしいというおかしなレックスにとっては、頼もしい存在だ。
ただ武史と交互に投げられると、そのスピードの絶対値が違いすぎると分かる。
こいつなら、上杉と投げ合っても勝てるのではないか。
大介と真っ向勝負しても抑えるのではないか。
そんな幻想を抱いてしまう。
(まあここからが本番かな)
イニングは四回に突入し、佐竹は交代である。
だが武史は続投で、ここからおかしなことが起こってくる。
三振だ。
仮にもプロのバッターが、連続で三球三振である。
タイミングを測ったところへ、投げられたのが高速チェンジアップ。
そして次のナックルカーブに手が出せず、やはり三振である。
肩が本格的に温まるまでは、ムービングも使って打ち損じを狙う。
そしてアイドリングが済んだらギアを上げる。
さすがにストレートが続くかなと思ったら緩急か変化をつける。
最後は一番のトップギアで、またストレートで三振を取る。
六大リーグにおける、ぶっちぎりの奪三振王。
その秘密はもちろん、ストレートの圧倒的なスピードにある。
だが正しく言うなら、スピードプラスホップ成分であろう。
横から見ていると分かるのだが、武史のボールの下を、バッターはことごとく振っている。
完全に高めに外れるボール球なのに振ってしまう。
またはど真ん中を見逃してしまう。
明らかに球筋が、バッターの脳内のそれとはかけ離れているのだ。
九連続三振を奪ったところで、ようやくストップした。
ただそれは、単にピッチャーを交代したというだけである。
六回まで投げれば、調整としても丁度いいだろう。
特にこだわることもなく、降板する武史。
とりあえずプロに試合形式で投げても、全く萎縮することはなかった。
序盤に散発のヒットは打たれたが、やはりアイドリングが終わると違う。
プロの世界のレベルであっても、武史は通用する。
「こんな時期からもう仕上げてきて、無理はないのか?」
木山は樋口に尋ねるが、樋口としては普通に報告するだけである。
「まだ仕上がってないですよ。このキャンプ中に、もう一段階レベルは引き上げたいですし」
樋口は嘘も冗談も言っていない。
武史はまだ、成長途中だ。
全体の出力としては、さすがに上杉よりは下だ。しかし優っている部分もある。
体全体の柔軟性と、それをスムーズにつないでいく力である。
特に肩周りの関節が強く柔らかく、最後のリリースする指先へ、力が伝わってくる。
樋口は直接聞いたことはないが、武史は以前に、MLBに行ったらNBAは見放題だなあ、と言ったことがある。
上杉は愛国心から日本にとどまっているが、武史にはそういった義理人情はあまりない。
だが別にアメリカに強い憧れもないのだ。
日本文化の中で健全に育った武史は、今の環境で満足している。
他の球団のことではあるが、上杉がポスティングを口にしなくてよかったな、と樋口は考えている。
上杉は今年が八年目で、国内FA権を得ることが出来る。
だからもしMLBに挑戦するとしたら、去年にポスティングを表明することになったはずだ。
下手に認めないなどと言ったら、次の年には国内FA権でどこかに言ってしまう。
だから上杉がどこにも行かなかったのはいい。あとは今年のオフのFAについてだ。
FA権の発生する前に、球団は複数年契約で選手を囲い込もうとするものだが、上杉の場合は一年ごとでないと、自分に甘えが出来そうだからと単年での契約をしている。
これは大介もそうであり、正直樋口としては、大介は日本にいない方が、レックスは優勝しやすいと思っている。
スターズはまだ、上杉一人のチームという傾向がある。
上杉以外をどうにかしたら、勝てると思うのだ。
武史は、MLBに行っても稼げると思う。
そんな自分自身はどうなのかなと、樋口は考える。
純粋に金だけではなく、海外とのコネも作るためには、アメリカに行くのもいい。
だが日本人捕手はMLBで成功したと言えるほどのものはなく、実力以前の問題で取られないだろうなという感想である。
少し発想が飛躍しすぎた。
まずは紅白戦からオープン戦へと二年目のシーズンを送る樋口である。
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