第243話 甘い世界

 入団後は原則、高卒は四年、大卒は二年間、寮に入寮しなければいけない。

 入団の時にあっさりこれを聞き流していたのが、武史という人間である。

「週休一日で盆にも休みがないし、プロ野球選手ってかなりのブラックじゃね?」

 本物のブラックを知らない武史はそんなことを言うが、直史としても分からないでもない。

 高卒ならともかく大卒の人間を、わざわざ二年間も寮に入れる必要はないだろう。

 しかしこれは、あまり早く一人暮らしをさせても、年俸の低い選手には気の毒だろうという、親心が働いているのである。

 直史の場合「なら住宅手当出せば?」とも思うのだが、武史が自分一人で生活の管理を出来るとは思わないので、それは仕方ないかなとも思った。


 兄と共に樋口の結婚式に参加した武史は、それを終えてから思ったものである。

「決めた。俺も一年目終わったら結婚する」

 うんまあ、いいんじゃない?

 でも相手はどう言うかな?


 直史と瑞希はもう一年ほども一緒に暮らし、お互いの生活習慣を熟知している。

 理性的な二人であるが、それでも細かいところでは、ズレがあってすり合わせを必要としたものである。

 結婚の時期も明確に考えていて、そのためにも司法試験の一発合格は必須。

 そこから妊娠出産まで、おおよその人生設計が出来ている。


 恵美理は大学を卒業したら、音楽事務所に所属して色々と働くことになっている。

 純粋にピアノの腕前はイリヤよりちょっと劣る程度であるし、他にも音楽に関することは色々と出来る。

 歌番組などでピアノ伴奏が必要な時は手伝ったり、合唱団のピアノ伴奏を行ったり、またアマチュア楽団への指導にも行ったりする。

 さらには大学で教えたりと、恵美理には恵美理の人生があるのだ。

 それをちゃんと考えた上で、そして結果も残した上で、プロポーズはするべきである。


 しかし、寮を出たいから結婚するというのは、なんともかんとも。

 そう思う直史であったが、実は寮を出るために踏ん切りをつけて結婚するという選手はそこそこ多いらしい。

 樋口と美咲は、これにて夫婦になった。

 なお翌年のシーズンオフには、早々に第一子が生まれることになる。


 それにしてもこの結婚式、大物が多い。

 樋口の知り合いとしては、上杉兄弟と佐藤兄弟が当然出席する。

 主に大学時代の知り合いとして、近藤たちも出席している。

 山口は都合が悪く、欠席しているが。

 あと西郷も都合が悪く、参列できなかった。


 だが球団からも、新人王を取った樋口に対しては、フロントからの出席がある。

 相手が一般人なのでマスコミの参加はないが、それでも有名人が大量だ。


 美咲の場合は普通に、勤務先の学校の上司と、友人たちが多い。

 七つも年下の、イケメンで高収入のスポーツ選手を捕まえたというのに対する、羨望と嫉妬の視線がすごい。

 もっとも美咲と樋口の関係は、最初は美咲の未成年との淫行から始まったのだが。

 結果的に結婚すれば、純愛として認められるのだ。

 樋口の性癖はかなり捩れたものであるので、いちがいに完全な勝ち組とも言えない。




 さて、その次は鬼塚である。

 高校時代の交友関係から、当然佐藤兄弟が入ってくる。

 こちらには関東に戻っていた大介と、ツインズも当然ながら出席している。

 球団関係者のチームメイトがかなり来ていて、結婚する相手も球団職員だったため、千葉マリンズの選手がやたらと多い。

 あとは白富東関係では、イリヤなどが来ている。

 余興にピアノを弾いたりなどして、多くの人間を恍惚の領域に連れて行ってしまったりした。


「この人脈……やはり間違っていなかった」

 高校時代の恩師としては、セイバーや秦野も出席している。

 また学年が下であったプロ野球選手もいるので、やはりプロ野球選手の結婚式っぽくはなった。

 こちらもマスコミは招待していないが、立派な結婚式である。

 

 鬼塚も一流のプロ野球選手の目安である、年俸3000万というのは突破している。

 その外見からは想像もつかないほどに、野球に対しては真摯な鬼塚。

「しかし……新人王が四人もいると壮観だよな」

 久しぶりのジンは、そんなことを言っていた。

 ジンとシーナは別にスケジュールが決まっているわけでもないので、春頃の結婚を予定していた。

 だがそれだと豪勢過ぎる出席者の、ほとんどが出席できないことになる。

 よってまたオフシーズンを予定しているのだが、すると武史とかぶるかもしれない。


 ここに出席しているのは、大介の他にアレク、悟と新人王を取った白富東の三人と、マリンズの先輩で新人王を取った織田がいる。

 ついでと言うにはあれだが、来年の新人王候補ナンバーワンの武史までいるわけだ。

 白富東の出身選手による、新人王独占がひどい。


 鬼塚の場合は球団職員の女性とは、彼が怪我をしたことに関係が発する。

 身の回りの世話をある程度してくれて、好感度が高まってから鬼塚が口説いた、のではない。

 鬼塚は復帰後も真摯に練習をし続けて、その姿に嫁さん側が好きになってしまったらしい。

 そして三年目あたりからはレギュラー定着で年俸も上がり、そろそろかなと鬼塚の方は思ったらしい。

 ただ向こうは年齢が五つも年上だったため、少し及び腰だったそうな。

 しかしそこから壁ドンで落としたのが鬼塚という。さすがヤンキーである。


「三好さんのことは若い連中、たくさん狙ってたんだけどなあ」

 と言ったのは織田であって、今年もマリンズはこの一番二番コンビが頑張って、Aクラス入りを果たした。

 その原動力の一つは間違いなく、ひたすら練習をする鬼塚であったろう。

 彼女はこれで寿退社かと言うと、どうせ勤務先が同じなのだから、子供が出来るまでは働くという。

 ヤンキー子供も早い説によれば、おそらく今年には退職するだろう。




 最後は星である。

 星と結婚する水沢瑠璃は、神戸に本拠を置く、ホテルグループの社長の娘である。

 つまり星とは完全に、身分違いの結婚となる。

 今では身分ではなく、社会階級の違いと言えばいいか。


 だが星は、実は祖父が私立学校の理事をしていたり、案外いいとこの出なのである。

 だから進学校の三里にいたし、早稲谷にも奨学金などはなしで通うことが出来た。

 アルバイトもせずに野球と勉強に打ち込めたのは、仕送りが多かったからだ。

 ただ両親は大学の研究室で働いていて、はっきり言ってあまり給料は高くないというオチもある。


 そんなわけで案外このカップルは、ちゃんと両方の家から祝われて結婚式を挙げることが出来た。

 何より場所が、瑠璃の実家の経営するホテルである。

 それはもう盛大な式となったわけだが、参列者の顔では星の友人関係も負けていない。


 高校時代から合同練習をやっていた関連で、白富東の人間がかなり多く招待されているのだ。

 そして同じ大学であった樋口もいる。

 星はなんだかんだ言って去年、50日以上の期間を一軍で過ごした。

 成績は8登板4先発1勝3敗3ホールドポイントというものである。

 八位指名のピッチャーとしては、それなりの数字を残したとは言えるだろう。

 特に球団側は、敗戦処理の二試合をしっかり長く投げたことを評価している。

 粘り強いピッチングをするため、意外と防御率は良い。

 球団としてもじゃっかんの年俸アップを提示した。


 水沢家は確かに上流階級に属するのかもしれないが、その本質は大戦後の勃興期にのし上がり、バブル時代を上手く乗り越えてホテル事業を成功させた成金だ。

 星の側の出席者は、普段のテレビで普通に見かける者が多い。

 学歴はかなりいい感じと考えられていた星であるが、この交友関係は素晴らしい。

 娘を嫁がせるのに、人脈としては充分な価値があると、水沢家は考えたのであった。




 武史は結婚式への参列のため、普通に練習は休んだ。

 一年目からの新人が合同自主トレで休みを取るなど、普通ならありえないことである。

 だが武史はその日のメニューをしっかりと終わらせたのだ。


 全体練習のメニューはほとんどコーチ陣のことを聞かない。

 説明されて納得しないと絶対にやらないし、納得してもそれを必要と思わなければやはりやらない。

 たまに練習場に来る樋口も、それについてコーチの片を持つということがない。

 自分自身は一年目、かなりおとなしくしていた樋口。

 だがそれはキャッチャーというポジションが、与えられる機会が少ないためである。

 ある程度上におもねって、使ってもらうチャンスを増やす。

 そんな樋口の打算と思惑とは、遠いところに武史はいる。


 コーチ陣やトレーナーのメニューをしないと言っても、そちらの方がキツいのであれば、別にいいだろうというのが樋口の考えだ。

 一年目、幸運に恵まれたこともあって立場を手に入れた樋口が、効果のないコーチのトレーニングを推奨するはずもない。

「やらせてみて、駄目だったら改めて言ってやればいいんですよ。プロで大成する選手って、だいたい無茶苦茶頑固か、無茶苦茶人の話を聞くか、けっこう分かれるところありますし」

 樋口の意見に、まあそうかなとも思うレックスのコーチ陣は、比較的頭が柔らかい者が多い。


 それに、目の前の練習を見ていれば、武史が単なる練習嫌いでないことは分かる。

 瞬発力と体幹の二つを重視するトレーニングは、跳んだりはねたりすることが多く、はっきり言ってキツそうなのだ。

 一緒に入った下位指名のピッチャーが試しに一緒にやったところ、半分のこなさないうちにぶっ倒れた。

 既に並のプロの領域をはるかに超えた、武史の肉体である。

 そして何よりそのピッチングだ。


 自主トレ期間中も、比較的新人と一緒にやることが多かった樋口。

 その樋口に対して、準備が出来た武史がボールを投げる。

 立ち投げの時点で、既にボールの勢いがものすごい。

 コーチ陣はトラックマンでの計測はもちろん、簡易なスピードガンも持ってくる。


 座った樋口への第一球。

 スピードガンは165km/hの数字を出した。

「おい佐藤、この時期に飛ばすんじゃない!」

 思わずピッチングコーチからそんな声が出るが、武史は悠々としたものである。

「全然飛ばしてませんよ。軽く投げてるだけです」

 樋口の方を見れば、頷いている。

 大学時代、ちゃんと準備をしてからなら、冬場でもこれぐらいは出るのが武史であった。


 武史の大学時代のMAXは168km/h。

 だが安定して出せるMAXは166km/hほどである。

 神宮の試合でレックスは、当然ながら上杉のデータも集めている。

 そのデータと武史のボールを比較してみると、飛び抜けた上杉のスピン量に、武史のスピン量は近い。


 どちらかというとバッターが欲しかったのが、レックスのドラフト前の方針であった。

 どうせ競合になって取れる可能性の低い武史より、一本釣り出来そうな強打者。

 だが武史の発言を聞いてしまえば、行かないという選択肢はない。

 六球団も競合したのに、それでも取れたところが、去年から続くレックスの幸運か。


 思えばここのところ日本一になるチームは、競合で取った選手が一年目から活躍している。

 上杉のスターズ、大介と真田と西郷のライガース、そしてアレクと悟のジャガースと。

 いくら才能があっても、高卒野手が一年目から活躍することは少ないのだが、ここのところはその常識がはっきりと崩れている。


 全ては、上杉から始まったのだ。

 上杉対策のために、全国の有力校が、より選手を強化し始めた。

 上杉が卒業したら、今度はSS世代の時代がやってきた。

 そのあたりのレベルを高校で知っている者が、プロで大活躍しているのだ。

 大介さえも高校時代から、明らかに上杉はリスペクトしているのだから。




 自主トレ期間と言っても、全く休みがないわけではない。

 その貴重な休みを、ほぼ全て恵美理との逢瀬に使う武史である。

 二月になればキャンプが始まり、武史は一軍帯同で沖縄に行くことになる。

 寂しさに負けないように、穏やかな時間をすごす。恵美理成分をためておかなければいけない。


 珍しく高そうなレストランで食事を終え、武史はアレを出した。

 そう、アレである。わざわざ開けるまでもなく、中に何が入っているか小さな箱。

「結婚してください。返事は今年俺が、一軍で結果を出せたかを見てからでいいので」

 恵美理は指輪を眺めていたが、そのダイヤの大きさに目を留める。

「あの、これすごく高そうなんだけど……」

「給料三ヶ月分って聞いたから、400万円ぐらいの選んだんだけど……。デザイン気に入らなかった?」

「ううん、嬉しい」

 そして笑顔になる恵美理がまぶしく、思わず武史は目を細めてしまったりする。


 どうやら了解を得られたかな、とホッとする武史であったが、恵美理は甘くなかった。

「結婚式場って予約するの、けっこう前からしないと駄目なのよね」

 実際のところ恵美理が、瑠璃に頼んでみたら、けっこう融通は利かせてくれそうなのだが。

「だからオールスター前ぐらいまでに結果を出してくれると嬉しいです」

「うん、分かった」

 恵美理の注文はけっこう厳しいものなのだが、武史の認識はそこまで及ばない。

 一応既に両親とは面識があるが、結婚の了解を得るためには、また会わなければいけないだろう。

 キャンプから戻ってからになるだろうが。


「けれど、武史さんから、こんなに早く申し込まれるとは思ってなかった」

「うん、俺も一年か二年して、自分の未来がある程度見えてからと思ってたんだけど……」

 実際にプロの生活に入ってしまうと、寮生活も含めて、かなりその自由度が少ないのに気づいたのだ。

「出来るだけ二人の時間を作るために、結婚したいなって。星さんとか幸せそうだったし」

「ああ」

 恵美理としても納得できる話だ。


 この一年間星はプロ一年目の選手として、かなり野球漬けになっていた。

 瑠璃はそれに対して可愛い愚痴をこぼしていたし、出来ちゃったあの日のことは、疲れて眠った星を相手に乗っかって、それで作ってしまったものだ。

 やってしまって出来てしまったが後悔はないと、瑠璃は男前な発言をしていた。

 ただ瑠璃の場合はあまり日常生活の家事が出来ない。

 その点は星の方が、実はちゃんと出来ていたりする。

 両親が共働きであった星は、ちゃんと家事を手伝っていたのだ。


 恵美理としてもかなりのお嬢様で、実家には管理人がいたりする。

 ハウスキーパーもいるので、家事に関しては一応出来るが、継続して行うという習慣がない。

 もちろん武史の年俸がここから伸びていき、恵美理の方も自立できるだけの収入は得られるとは思うのだが。

 職業の特殊な事情から、やはり生活は武史を中心に回っていくのだろう。

(花嫁修業しないと)

 ひそかに決意する恵美理と、新人のシーズンに活躍すると決めた武史。

 二人の力関係は、ちょうどいいものであるのかもしれない。

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