第242話 閑話 銭より大事なものがる

※ 今回はコメント欄の感想から着想をえています。


×××


 プロ一年目のキャッチャーとしては、歴代でも五指に入るぐらいの成績を残した樋口。

 その年俸更改は、12月に行われることになった。少し遅れたのは、純粋に樋口の方が忙しかったせいだ。

 年俸更改と言っても、金の話ばかりをするわけではない、

 普段はあまり話し合わない、フロントと選手の貴重な接触の機会である。

 樋口としても年俸もそうだが、自分の結婚やチームの今後など、色々と聞きたいこと、話したいことはあったのだ。


 基本的に高卒は四年、大卒は二年を寮で過ごすのは、レックスでのルールとなっている。

 社会人もそうなのだが、社会人は家庭を持っている選手も多いため、そこは免除となる。

 樋口はこのオフに結婚するので、退寮するわけだ。

「ただ、佐藤武史が入寮する時、戻ってきておいてくれんかね」

 フロントの心細げな言葉に、頷くしかなかった樋口である。

 星がいてくれれば良かったのだが、彼もなんと、出既婚で退寮するのだから。


 樋口は四球団競合で指名された、キャッチャーとしてはかなり異例の存在である。

 だからといって下手な言質を与える人間でもない。

 元々慎重と言うよりは、現実的なのである。

 そんな樋口から見ると、武史はかなり危うい。

 人間的に未成熟と言うよりは、ああいう人間なのだと思うしかない。


 ちなみにあの会見の話を聞いて、球界のご意見番などと言われるハリー・元久は、プロを甘く見すぎている。もっと現実を知らなければいけない、などと言ったそうな。

 そしてその言葉は普通に武史にも伝わるわけだが、武史の返答は振るっていた。

「ハリー・元久って何した人なんですか?」

 武史は知らなかった。実際は何度も目に耳にしていたはずなのだが、顔と名前と言動と実績を記憶していなかったのだ。

 単純に、どうでもいいと思ったので。

 球界のレジェンドレベルの選手だと聞くと「大介さんとどっちがすごいんですか?」と逆に尋ねて、回答出来なくしてしまったりもした。

 それはあまりに自明だが、答えるわけにはいかないだろう。


 樋口としてはそのあたり、はっきり言って頭が痛い。

 舌禍という言葉があるが、武史のそれは別に、誰かを悪く言うものではない。

 ただ単純に無知であるがゆえに、当たり前のように信じられていることの不適格さを露にしてしまう。

 あの記者会見は後から放送もされたのだが、色々とバズっていた。

 武史は野球関連のSNSはやっていないので、全く知らなかっただろう。

 武史は野球よりバスケが好きだが、野球の方が圧倒的に機会と才能があった。

 だから野球を選んだというだけで、今からNBAプレーヤーになれるなら、かなり悩むのではないかと、直史なども言っていた。

 武史がもし将来MLBに行くとしたら、それは挑戦とかではなく、単にNBAの試合を生で見られるからだろう。


 このあたり武史は才能が直史より豊かというのはある意味正しく、そして野球への愛情はない。

 あるとしたら野球そのものではなく、野球によって切り開かれた自分の人生や、交友関係に対するものだ。

 特に恵美理と会わせてくれたのには、間違いなく感謝している。




 そんな話を、なぜか自分の契約更改の場でして、既に疲れた状態から交渉開始の樋口である。

 樋口に提示されたのは、5000万円。ほぼ三倍の金額だ。

 チームが優勝したわけでもないし、打撃にしても規定打席に達していなかった。

 働いた期間を考えれば、破格の値段と言える。

「本来ならもう少し高めになってもおかしくないんだが、スタメンで使われていない試合が多かったからね」

 それは起用しなかった監督が悪いのだろうとも言えるが、首脳部批判は避けたい樋口である。


 活躍した期間、そして二年目のキャッチャーに対するには、充分に高い年俸だろう。

 なので基本給としては、樋口は問題はない。

 ただ嬉しそうな顔もしない。これは交渉という名の勝負であるのだから。

「タイトルと表彰を入れてこれですか」

 新人王とベストナインに、樋口は選ばれている。

 規定打席に到達していない選手にこれは、かなり異質のことである。

 だが打撃力は、どう見ても高かったからだ。


 同じく投票で選ばれるゴールデングラブの方は、打席数の明記があったため投票者もそれを考慮に入れたのと、リーグ優勝したわけでもないというわけで、選ばれていない。

「不服かね?」

「いえ、単なる確認です」

 今はまだ、大卒二年目のキャッチャー。

 ただ前半は主に代打で使われたのに、ホームラン18本と24盗塁というのは、かなり上位の成績だ。

「インセンティブを付けていただければ、何も文句はありません」

 球団の提示額には、全く文句をつけない。

 そして出来高払いを要求するのが、自信家である樋口のテクニックである。


 一年、正確には半年を過ごして樋口は、だいたいプロのレベルを把握した。

 そして来年からは、分析に時間を取って、もっと成績を上げていけると思う。

「規定打席到達、ベストナインやゴールデングラブ、あと最優秀バッテリーは……うん、これもインセンティブにつけてほしいですね」

 打撃タイトルに関しては、大介が大きな怪我でもしない限り、セ・リーグでは取れないだろう。

 セ・リーグのタイトルを取るのは、難しすぎる。

「ああ、忘れてました。トリプルスリーに、100打点、ホームラン数や打率とか、細かい部分にインセンティブを入れてほしいんです」

 交渉においては、なかなか突っぱねにくいことである。


 球団が提示した金額。それに関しては一切文句を言わなかった。

 実のところレックスのピッチャーのほぼ全員から、樋口の年俸はちゃんと上げて、他のところに行かないようにしてくれと言われてたので、球団も下手に買い叩こうとは思っていなかったのだ。

 基本給には文句を言わず、出来高だけを要求するというのは、球団としてもまあそうかな、とは思うのだ。

 球団の契約社員の中には、そういった者がけっこう多い。


 さてインセンティブに関しては、実は球団も考えていた。

 ただしタイトルや表彰までは考えていなかった。

 ビギナーズラックという言葉があるのと同時に、プロには二年目のジンクスというものもあるからだ。

 樋口が情報と経験を積んでいくほど、確信を持てていたことを、球団側は知らない。

 そもそもこの試合数でベストナインはいいのか、とも議論は出ていたのだ。

 この試合数でこの成績だからこそ、逆にすごいのであるが。


 球団からの提示は、それほど厳しいものではなかった。

 ホームラン二桁、安打100本、盗塁20個、規定打席到達で、それぞれ500万というものである。

 今季の樋口の成績を見れば、怪我をしない限りはいくだろうと思われる。実質7000万を払うだけの価値を見ている。

 セ・リーグは久しぶりに登場のキャッチャーのヒーローに、湧いているという理由もある。


 樋口の要求したところは、見事に球団とは噛み合っていない部分ばかりであった。

 注視していたのが合ったのは、規定打席到達とホームラン数ぐらいであるか。

 樋口の要求は、まずベストナインなどの表彰で1000万ずつ。

 打率三割、100打点で1000万ずつ。

 100打点は大介のせいで麻痺されているが、打点王になってもおかしくない数字である。打率三割もキャッチャーとしては珍しい。


 そして樋口の要求の要のところは、トリプルスリーである。

 キャッチャーでトリプルスリーを取った選手などはいない。キャッチャーというポジションには、俊足が少ないからだ。

 トリプルスリーを取れば3000万。

 そしてシーズンMVPや日本シリーズMVPなどを取ったら1000万。


 球団側は、ここで逆に驚いた。

 シーズンMVPや日本シリーズMVPなどは、個人の成績だけではなかなか取れない。

 上杉のいるスターズや、大介のいるライガースに勝たなければいけないのだ。

 つまりこんな要項を入れろということは、日本一を目指していくということ。

 樋口という人間の野心の大きさに、フロントこそが驚いてしまった。


 この樋口の出来高は、金額が大きすぎたために、さすがにこの場での返答はなかった。

 だが結局、球団は全てを飲むことになる。

 なにせ出来高払いであるのだ。

 達成できなければ仕方がないし、達成してくれれば球団としても嬉しい。

 払う金額よりも、樋口の稼ぐファンの人気と興行収入が多くなると判断されたのだ。

 現実的に考えて、優勝までする可能性は低いし、優勝できなければMVPは優勝球団から出るのが普通だ。

 かくしてレックスは、樋口との更改を終了した。




 さて、それとは別に、仲間内から冷やかされる女性がここにいる。

 出来ちゃったので結婚という瑠璃もであるが、恋人から「ほとんどの女優より美人」と言われた恵美理である。

 今年度宇宙最強の惚気と、友人たちから散々に恵美理はからかわれる。

 ただ、同時に単なる事実だよな、とも思われている。


 星と瑠璃の結婚式は一月である。

 普通に瑠璃が星の籍に入る。

 つまり星瑠璃という、微妙になんだか語呂が悪く、それでいて芸能人のような名前になってしまうわけだ。

 まあ瑠璃は中学高校と「ほんまにアホばっかやな」とは言ってたりする。

 出産予定日から逆算して、製造日を数える人間もいる。

「ああ、オールスター休み?」

「分かっても言わんのが礼儀やで」

 ふんと横を向く瑠璃であるが、頬を赤くしているのが可愛い。

 そこそこお腹も目立つ時期になるので、マタニティドレスとなるそうな。


 めでたいことはめでたいが、来年もまためでたくなるのか。

「次は明日美やなあ」

「明日美さんは大変そう……」

 プロ野球のスーパースターと、売り出し中の女優兼タレント兼モデルの結婚。

 普通なら価値に傷がつきそうなところであるが、相手があの上杉である。

 それもプロポーズが劇的すぎたので、何か皮肉を言おうにも驚嘆の叫びにかき消されるわけだ。

 今年度宇宙最強の惚気に対抗できる、今年度宇宙最強のプロポーズであった。


 上杉の家は旧家であり、代々地方の議員を務める名家でもある。

 上杉の父は子の七光りで、県議会の中でも影響力を強めているらしい。

 政治家の家に入ると言うと大変そうであるが、上杉はしばらくは神奈川県に住むし、そこから東京に出ることも難しくない。

 明日美の場合は仕事で東京でい続ける場合は、ツインズの家や恵美理の家に泊めてもらうのである。

「これから大変になるかもしれないよ」

 明日美が恵美理にそう言うのは、確かに自分が大変になったからだ。


 明日美の場合は元から、上杉に対する憧れとか、恋心のようなものを持っていた。

 上杉の場合は、一目ぼれに近い。もちろんメディア媒体などで目にしたり、野球の企画で会ったりは何度もしていたのだが。

 後に上杉は、これまた堂々と惚気るのである。

 あの時の明日美の美しさに、思わず求婚してしまったのだと。


 なお明日美の場合は上杉の嫌味な親戚から、早く男の子を生んでもらわないとね、などといったことも言われた。

 顔を赤らめながらも、彼女は「野球チームが作れるぐらい生みます!」と返したわけだが。強い。

 明日美は多才な人間であり、カリスマ性がかなり高い。

 それでもプロ野球選手の嫁、政治家の嫁が務まるのか、周囲は心配する。

 だが同時に思うのだ。

 明日美なら、何があっても大丈夫だと。




 晩婚化の進む日本、特に東京であるが、この場に集まった聖ミカエルOGは、おおよそ早めの結婚になりそうである。

 お嬢様学校なので、大学卒業と同時に結婚するという娘さんもいて、彼氏が年下なためにそういう話題が出ていない葵などは、ちょっと例外なのである。

「葵ちゃんは院に進むんだよね?」

「まあ企業の研究職を目指してるんだけど……」

 淳と付き合っている竜堂葵は、理系の人間である。

 石油由来素材の研究をしていて、将来はそういう専門職に就きたいらしい。

 大企業の研究所というのは、都心を離れて地方にあることもそれなりに多い。

 特に大規模な施設が必要であると、研究都市などにあったりする。

「淳がどこに就職するかがね」

 葵は自分の就職先を、淳にある程度合わせる配慮をしている。


 淳は基本的には在京球団で、それでなければ東北の故郷の球団に行きたいと考えている。

 葵としてはどちらでもいいのだ。研究施設は都心のやや郊外以外に、仙台にも持っている企業はある。

 教授に相談すれば、普通に紹介してくれるぐらいには、彼女は優秀だ。ただどちらに行くのか、さっさと決めてほしいとは思う。

 淳の場合は自分の意見が通らないので、そこは合わせてやる葵である。

 年上の余裕を見せ付けているつもりであるが、淳には年上だけどムキになって可愛いな、といつも思われている葵だ。

 もっとも淳もけっこうムキになる傾向はあるので、お互いに可愛いと思われているのだが。

 爆発してしまえ。


 大学受験というのは、彼女たちにとって大きな転換期であった。

 だが就職と結婚というのは、それ以上の大転換を要求される。

 なんだかんだ言って今でも、日本は男社会で、男の仕事に合わせる方が、家庭の収入は安定しやすい。

 ただプロ野球選手というのは不安定で、しかもトレードや移籍という名の転勤がある。

 選手としてどれだけの期間働けるかも、定かではない。

 もっとも葵は淳の場合、プロを引退してもあそこまで頭がよければ、関連した仕事が出来るだろうな、とは思っている。


 仙台に行ってほしいなとは思う。

 ただそれを強要する手段がない。

 卒業後も付き合いを続けていくなら、この時点では葵が合わせるしかないのだ。

 葵の場合は両親も研究者であったりするのだが、実は文系である。

 祖父は大学の教授などをしているが、これも文系で理系のコネは少ない。


 他には鷹野瞳の場合、実業団のバレー部から誘われている。

 日本トップレベルの選手と比べると、まだ背は小さいほうであるのだが、ジャンプ力とそれに伴うパワーでは高い評価を受けている。

 一般企業に就職した西とは、かなりすれ違いが多くなりつつある。

 やはり学生時代は、どれだけ忙しいと言っても、仕事を始めてからよりは、時間の余裕があったのだ。

 確かにいっそのこと結婚してしまえば、嫌でも生活時間をある程度共有出来ることになる。

 だが社会人一年目の西は、全くそういったことに気が回らないようであった。




 この頃、純粋ではあるが下世話な話題として、ネットでよく語られていることがある。

 上杉勝也と権藤明日美の子供は、どんなフィジカルモンスターになるだろうか、ということである。

 上杉は大学には行っていないが、実は頭もちゃんといいのである。

 そして明日美は芸能人の美貌とスタイル、東大現役合格の頭脳、世界一の女子野球選手の称号と、パーフェクト超人も真っ青のスペックである。

 家が庶民の一般家庭というのも、逆に親しみを感じさせる。


 芸能人でよくある嫌いな芸能人というランクでは、明日美は知名度に比して、圧倒的に嫌っている人間が少ない。

 そして好きな芸能人では、なんとトップを取っていたりする。

 美人という点では恵美理の方が上だが、明日美のずっと消えないどこかしら幼い部分が、好印象を与えているらしい。

 22歳にもなって、もっとも妹にしたい、娘にしたい芸能人ランキングの両方で一位を取るというのはどういうことなのか。


 フィジカルに関しては、上杉も明日美もモンスターである。

 その両親の代まで遡っても、上杉の母はそれほどでもないが、父は柔道部と野球部を兼部していたり、明日美の父はスポーツ万能、母もヨガのインストラクターなどをしている。

 だがディープインパクトの子供が全て競走能力に優れているわけではいないように、このフィジカルや頭脳が伝わるとは限らない。

 それでもこの二人の子供に生まれるというだけで、幸福に育てられるのは決まったようなものだろう。


 次世代のことを考えるのは、あくまでも妄想だ。

 だがこの二人の子供に勝る者がいるとすれば、大介とツインズの子供ぐらいではないのか。

 どちらもフィジカルは怪物級なのは、上杉と明日美のカップルと差はない。

 そう考える恵美理は、自分の子供だって相当のフィジカルエリートになる可能性に気づいていない。

 武史は間違いなく化け物のスペックを持っているし、恵美理もそれほど長くはないが、バレエなどもやっていた。

 それに彼女の直感力が子供に伝われば、その時点でほぼ勝ちが確定する。


 激しい妄想は、しばらく終わりそうにない。

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