第239話 閑話 タイトルの価値
※ 本日はプロ編236話が時系列を少し先行しています。
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プロ野球における新人王の資格は、その年ルーキーの新人だけにあるわけではない。
プロ入り二年目以降でも、投手なら前年までの一軍登板イニング数が30イニング以内、野手であれば前年までの一軍打席数が60打席以内なら、新人王の資格を持っている。
なお外国人の場合は、海外のプロリーグで活動していたら新人王資格はない。
完全に今年のルーキーという点では、ライガースの大卒サウスポー村上などが、シーズン序盤は中継ぎとしていい活躍をしていた。先発としても三登板し一勝している。
だが樋口がレックスの正捕手に定着したあたりからは、それほど奮った成績を残しているわけではない。
去年やさらにその前の選手の中で条件を満たした者となると、高卒から二軍でみっちりしごかれて、今年から一軍で結果を出した者がいそうである。
しかし調べてみると一年目にも60打席以上は経験していたりして、資格を失ってしまっている。
だいたいにおいて新人王を取りやすいのは、即戦力のピッチャーである場合が多い。
それが大卒ながらも、一年目のキャッチャーである樋口がここまで活躍するなど、誰が予想出来たであろうか。
オープン戦から結果を出していたのだから、開幕スタメンで使っていれば、トリプルスリーも狙えたのではないか。
さすがにそれは難しいだろうが、打率三割にホームランと盗塁が二桁というのは、既にこの時点で達成している。
史上三人目のキャッチャーによる新人王。
マスコミの描いたシナリオはネットの声とも合致し、そして樋口もこの波には乗る気満々である。
樋口は計算高い。
ひどく言えば計算のつかないところでは働かない。
もしも限界があるとすれば、後先考えない野球バカの、計算出来ない蛮行によって蹂躙される場合だ。
なお野球バカの中には、そうった人間がかなり多い。
よって樋口は蛮族と蔑視しながらも、侮ることはない。
樋口は最高金額でレックスと契約したが、その中に新人王関連の文言は入っていない。
ただそれでも年に二人しか出ない新人王は、来年の年俸に影響するはずだ。
自信家の樋口であるが、丸川の怪我がなければ、さすがに与えられる機会が少なかったろう。
長い目で見て三年以内に正捕手になればいいとは思っていたが、運も実力の内である。
八月も終わりに近付き、優勝争いの三チームから、わずかにゲーム差があってレックスがいる。
温存していた力で、一気に出し抜く機会を待っている。
『樋口ってこんなにいい選手だったのか』
『何をいまさら。打率324のホームラン14本盗塁18個。屈指の大卒選手やで~』
『しかもキャッチャーだもんな』
『キャッチャー登録で野手やってるんじゃなくて、本当にほぼキャッチャーだもんな』
『あと代打。五月ぐらいまでは代打の神様とか言ってたろ』
『あの時に比べるとあんまり打点とかはついてないのな』
『そりゃ代打はチャンスに送られるもんだから……』
『いやいや、その頃はともかくとしてもっと前。大卒キャッチャー一位指名四球団()とか言って笑われてたやろ』
『六大で首位打者二回も取ってるし、一位指名あるかもとは思ったぞ。身体能力高いからコンバートの可能性も示唆されていた』
『なんつーか、地味だったよな。首位打者取るまではあんまり大学のリーグ戦でも打ってなかっただろ』
『それはドラフトの指名順位上げるために頑張ったんでしょ。本人はめっちゃ黒子に徹するやつ』
『ほ~、黒子が甲子園の決勝で逆転サヨナラ満塁ホームラン打つんか』
『むしろあれでスターになったような気がした。その後のワールドカップでも佐藤と組んでたし』
『樋口が地味に見えるのは、組んだピッチャーが化け物ばっかやからや』
『上杉兄弟、佐藤三兄弟、あとライガースの村上も大学の同学年』
『日米大学野球とWBCにも出てるから、試合では組んでないにしてもほぼ日本のトップレベルのピッチャーの球は捕ってるはず』
『キャッチャー専念で怪物ピッチャーと組んで、それから解放されたらバッティングも開花?』
『いや、上杉兄貴とか佐藤次男と組んでた頃なんて、普通になんも考えんでも三振取れたやろ』
『上杉兄貴の場合は球数だけは計算してたと思うが』
『考えてみたら甲子園でホームラン10本打ってる上杉が、一年生に四番任せたんだから、高校時代から相当のバッティングセンスはあったはずだよな』
『山田く~ん、樋口のアマチュア時代の成績持ってきて!』
『どうでもいいけど樋口の甲子園のホームランは、満塁ホームランじゃないぞ。逆転サヨナラは間違ってないけど』
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ネットの海は基本的に、データ収集でしか使わない樋口である。
ほとんどのデータは球団のデータ班が用意してくれるのだが、時折変なデータに注目して、自分なりの見識を公開しているサイトがある。
そこでの情報は参考になるのだが、それに基づいた見識が樋口には気に入らない。
樋口はデータを重視する。
だがそれ以上に、人間の心理を洞察する。
冷徹で冷静で冷血に見える樋口だが、人間の心理の動きには、かなり正確な予測を立てられる。
直感というのは当たってしまう以上、重視しない方が間違っている。
後から調べてみたら、その直感がちゃんと偏ったデータの中に、存在する危険性であったりするのだから。
人間の脳は、巨大な計算機だ。
その計算過程は不明瞭にしろ、正解だけをもたらすことはある。
完璧を求めれば破綻する。
それはこの世界が、0と1だけで出来てはいないからだ。
最終的な判断に、自分の意思をどう示すか。
キャッチャーの腕の見せ所である。
八月も終盤から、いよいよ九月に入ってくる。
今年は試合の消化がかなり順調なので、10月にまでシーズンの日程が伸びることは考えにくい。
樋口は相変わらずの数値をキープしているが、ホームランや打点はともかく、打率では大介に勝てそうである。
残念なことに規定打席には到達しそうにないが。
樋口が上がったのではなく、大介が下がったのだ。
ホームランと打点を増やすために、打率を犠牲にしたのか。
それでも出塁率は高く、おそらくこのタイトルも取るだろう。
だが三冠王を取るのは難しいだろうと思われる。
混戦の中から一歩抜け出しているのは、総合的には一番弱いだろうと樋口が判断していたスターズである。
やはり上杉が負けないというのが、凄まじい影響を及ぼしている。
上杉が今年最初のホームランを打たれた試合。
その一点を、自分のツーランホームランで逆転した。
あそこからスターズの打線陣に、粘りが見えてきたように思う。
あらゆるメディアの取材などを見ても、上杉がチームメイトを批難することはまずない。
あるとしたら飲酒運転をしたチームメイトや、酔って暴力沙汰を起こした選手ぐらいで、それは批判と言うよりは、一般常識を語るだけだ。
気迫が入っていないプレイをする選手がいても、批難するのはそこではない。
もっとチームを強くできない自分を責めるのだ。
基本的に上杉のメンタリティは、高校時代から変わっていない。
いや、高校生の時点で完成していると言った方がいいのか。
全てを自分が抱えて、しかもそれでいて揺るがない精神性。
確かに肉体的にも巨人であるが、あれほど精神力の強い人間は、まずいないだろう。
直史と大介が、方向性は違うが迫れる存在かもしれない。
ただストレートにキャプテンシーなどを持つという点では、西郷がキャプテンとしては良かった。
ただ西郷の欠点は、練習量が多すぎることか。
樋口や直史などは別として、西郷に引きずられて無理をしたため、軽く故障した選手が、大学時代にはそれなりにいた。
高校や大学では年中一緒に練習していたことを考えると、プロはシーズンオフがあるため、意外と一緒な時間は少ないのか。
ただ学生時代に比べると、圧倒的に遠征が多いため、揃って街に出ることも多い。
樋口としては出来るだけ妻と一緒にいたいのであるが、結婚までは我慢である。
結婚したら普通に、家に帰ればいるという。
最高か!
新人王はほぼ確定だなと言われてきたが、やがて他の受賞も現実的になってくる。
ベストナインである。
セのチームを見てみれば、打てるキャッチャーとしては広島の板垣、神奈川の尾田といったところか。
だが打てるといっても三割には達しないし、板垣も年齢もあって、二桁には届かない。
規定打席に到達していない樋口だが、ホームラン、打点、盗塁の三つでこの二者を上回っている。
もちろん打率はぶっちぎりであるが、当然これも打席数が少ない。
あとはゴールデングラブ賞だが、これはさすがにベテランが選出されそうな気もするが、樋口もレックスの防御率を一点下げた。
守備力に卓越した選手というものだが、樋口の場合は盗塁を刺すよりも、牽制死で刺す方が多かったりする。
リードの力は間違いなく高いが、それを判定するのは、やはり防御率になるのか。
だがこちらもスタメンに定着してからはともかく、それ以外の期間が長かった。
さすがに一年間通してスタメンであったキャッチャーから選ばれるだろうと言われている。
樋口としてはそこは仕方ないと思う。
タイトルを取ればそれだけ来年の年俸は上がるだろうが、そこはインセンティブとして、達成出来たら追加という契約にすればいい。
ベストナイン、ゴールデングラブ、あとはトリプルスリーあたりか。
来年は開幕からフルでマスクを被れるとしたら、それだけ打席も回ってくる。
今年と同じペースで活躍できれば、トリプルスリーは不可能ではない。
しかしキャッチャーが取るとしたら、それは当然ながら史上初のことになる。
近年ではドカベンタイプのキャッチャーではなく、敏捷性のあるキャッチャーが、ルール改正で不利がなくなってきた。
北海道の山下などもそうであり、いまだ二軍にいる白富東出身の孝司も、そういうタイプのキャッチャーであった。
その究極形が樋口になるのかもしれない。
怪物が跋扈する現在のプロ野球においては、大介が四割50本60盗塁などを達成したため、トリプルスリーの価値があまりありがたみがなくなっている。
だがもう、あいつは別なのである。
ピッチャーにしても勝率80%を誇る選手がいるが、上杉の前には何も言えなくなる。
ピッチャーの場合はまだしも、上杉がそこそこエラーをするため、他のピッチャーがゴールデングラブを取ることが多い。
具体的には真田は、ピッチャー以外での出場が高校時代には多く、内野を守っていた。
樋口からすると「ボールを投げる」とバッティング以外の要素で一番上手いのは、直史だと思う。
あれだけノーノーやパーフェクトをするには、自分の守備範囲のボールも処理しなければいけねいからだ。
九月に入った段階で、リーグのチーム成績は、スターズ、ライガース、タイタンズ、レックスとなっている。
5ゲーム以内に上位四つのチームが入っているという、大混戦状態だ。
本当ならレックスも、悲惨なBクラスになっていたのだろう。
もし防御率があと一点悪化していれば、負けていた試合はかなり多い。
樋口としても微妙なところで、ちゃんと打点につながるヒットを打っている。
あるいは自分が塁に出ることで、盗塁から得点のチャンスを作る。
そのため樋口は安打数の割には、得点と打点がかなり多くなっている。
もちろんこれはシーズン中盤まで、チャンスで代打として使われたことも関係しているのだが。
樋口の色々な工作の甲斐もなく、樋口がチャンスに強いバッターというのは定着しそうである。
本人としては不本意であるが、成績としては評価されるものだ。
「狙いはどうするかな」
今年一年しかいない寮であるが、樋口はPCを持ち込んでいる。
基本的に最後は人間の頭で考えて結論を出す樋口であるが、統計を取るためには計算機というのは便利なものなのだ。
樋口はこの一年間、と言ってもまだ半年程度であるが、他チームだけではなく自チームについてもデータを集めている。
感覚的なものになるが、レックスでの過ごしやすさというのも考えた。
今の首脳陣は出来れば変わってほしくない。
監督の木山からその下のコーチ陣まで、少なくとも一軍の首脳陣は樋口を一軍に置き、丸川が復帰してからもずっと樋口をスタメンで使っている。
いい監督の条件というのは、同じ野球でも高校やプロなどで変わるのだろうが、選手にとっては自分を使ってくれる指揮官であることは間違いないだろう。
丸川を愛弟子と見るバッテリーコーチも、樋口の実績を無視するほどの強権は持っていない。
この状態を維持するために、Aクラス入りはしておきたいのだ。
今の上位三チームの中で、一番勝敗の計算がしやすいのは、間違いなくタイタンズである。
スターズとライガースには、上杉や大介の他にも、絶対的な力を持った選手が多い。
特にライガースは、バッターとしては西郷、ピッチャーとしては真田が、例年ならばベストナインに選ばれる活躍をしている。
真田は上杉がいる限り、そのポジションに入ることは不可能だろうが。
ただ真田は、ゴールデングラブには選ばれるのではないかと思っている。
上杉は守備が下手というか、そもそも当てることさえ難しいし、全力で投げた後は体のバランスが崩れているので、足元のボールに弱い。
出力は確かにすごいのだが、真田ほどの敏捷さはないと言えるだろうか。
ただその真田に投げ勝ち、大介と西郷を封じることが出来るのは、リーグでも上杉ぐらいだろう。
Aクラス入りし、短期決戦で勝てるのはその二チーム。
逆に言うとAクラス入りを妨げれば、タイタンズとの短期決戦には、レックスでも勝てる可能性がある。
スターズかライガースをBクラスに落とし、タイタンズとファーストステージで戦う。
ファイナルステージまで勝ち上がってそこで負ける。これがレックスの今年の最高目標と言っていいだろう。
「まあそんな都合よくはいかないんだろうけど」
とりあえずAクラス入りを、レックスは考えるべきだろう。
Bクラスに落とすのが簡単なチームはどれか。
上杉のワンマンチームのスターズにも思えるが、上杉を中心に結束してしまえば、その強さは何倍にもなる。
軸となる選手の多いライガースは、そう簡単に落ちないだろう。
ならば選手層が厚いと言われるタイタンズが、一番落としやすいのか。
ベテランの多いチームだけに、負けを止める方法や、勝ちを逃さない方法などには、長けている面もある。
上を追い落とすにしろ、乗り越えるにしろ、レックス自体が勝っていくことも必要だ。
その場合は勝てるピッチャーを勝ちたいところで使い、上杉などと当たった場合は、その試合を捨てるという計算も必要になる。
「さすがに俺の仕事じゃないか」
年俸に反映されるだろうし、出来るか出来ないかで言えば出来るのだが、さすがに首脳陣は採用してくれないだろう。
歴史を見れば分かるように、検索というのはそれの優劣よりも、指揮官に採用されるかどうかで、後世からの評価対象になるのだ。
とりあえずは与えられた戦力で、どうにかするしかない。
そう考える樋口は、実は球団の編成部などに行くのが、一番活躍できるポストなのかもしれない。
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