第235話 閑話 オールスターに出ない男
※ 今回も時系列が遡っています
オールスター級の活躍をしながらも、そのタイミングが遅かったため、選出されない選手というものが存在する。
今年であれば樋口がそうである。
大卒ルーキーのキャッチャーが、開幕から一軍帯同というだけでも充分凄い。
それが代打で実績を残し、数試合スタメンのマスクを被り、正捕手の負傷と共に交代。
そこから一気にレックスを躍進させた。
丸川は全治二ヶ月であったが、おそらくもう彼が正捕手に戻ることはないだろう。
それでもサブの二番手捕手としては、充分に存在価値はあるか。
また樋口は自分の欠点も熟知していた。
それは人望のなさである。
データの記憶と分析、状況に適した作戦、そして対バッターのリードや、対ピッチャーのバッティング。
守備陣形まで全ての指示を出せる樋口だが、彼はバカが嫌いである。
そして樋口は大概の人間より頭がいいので、ほとんどの人間がバカにしか思えない。
ただ、女はバカでもそれなりに可愛い。
バカに対する軽蔑の念を隠せない樋口は、根本的に人望がない。
だから高校時代も大学時代も、一番チームの状況を正しく把握していたが、キャプテンなどにはなれなかったし、なりたくもなかった。
人望があり、少なくともバカではない人間を動かす。
それが樋口の人生における生活スタイルだ。
ただレックスの木山監督はそれなりに賢いので、樋口が自分のスタイルを貫くのには都合が良かった。
そんな樋口の活躍は、一気にレックスの防御率を小さくしたことでもはっきりと分かったが、既にオールスターに選出されるには、活躍の始まりが遅かった。
そもそも今年残り全ての試合に出場しても、規定打席に到達しないだろう。
ただ素でイケメンだったために、女性票はそれなりに入っていたようだが。
樋口としてもこの時期には予定を入れていたため、選出されても面倒なだけである。
オールスター出演は翌年の年俸更改で査定に入るだろうが、そこで活躍するのは難しい。
ならばせっかくなのでここは休暇としたわけである。
休暇とした樋口であるが、だらだらと過ごしたわけではなかった。
「しかしなあ……まさかケンちゃんが美咲と結婚するとはなあ……」
基本的には喜ばしいが、かなりの戸惑いも含まれている。
樋口の恋人である美咲の両親とは、樋口も子供の頃からの知り合いではある。
ご近所さんだったので、樋口の死んだ父とも面識があるのだ。
新潟で働いている母を呼び、現在は仙台に住む美咲の両親と会食をする。
有意義な時間の使い方をする樋口である。
「ほんとにねえ。あの可愛かったケンちゃんが、こんな男前になるんだものねえ」
美咲の両親は東京から新潟、そして宮城へと転勤を繰り返していたのだ。
間もなく夫が定年を迎えるので、故郷である埼玉辺りで、老後を過ごそうかという年代なのである。
会社も定年延長で、そのあたりにポストを作ってくれるそうであるし。
いわゆる余裕を持った家庭である夫妻は、一人娘の結婚だけが心配であった。
たった一人の子供であり、もう30歳にもなる。
東京でならば30歳で独身の女性など珍しくもないだろうが、新潟や宮城などでは、ちょっと田舎に行けば普通に嫁き遅れなのである。
せっかく美人なのに、なんだか男運が悪いのか、と思っていた娘は、大学卒業後に新潟の一番長く暮らしていた街に戻った。
そしてそこで高校生になった樋口と再会して、恋人関係になったわけだ。
……正確に言えばその時点では、肉体関係しかなかったのだが。
実は再会の最初は樋口は中学生であった。
いや高校生であっても完全に淫行案件であり、夫妻が苦笑いするのも致し方ない。
ただ、それに明るい声を重ねるのが、樋口の母である。
「いやもうねえ、美咲ちゃんが引っ越してからしばらく、もうふさぎこんでばっかりだったのよねえ」
樋口がこの世で唯一、逆らえない女性が母である。
いや正確には、逆らおうという気分になれないと言うべきか。
夫を交通事故で失い、その後にも色々と事態は変遷した。
樋口が上杉の招聘を受けたのは、結局はあの事件が原因である。
苦労したのだ、母は。
だからこんな時ぐらい、己の恥ずかしい過去が晒されるのも、黙って耐えるのが男である。
既に結婚の話は進んでいる。
時期的には外れるが、樋口の仕事の関係上、10月から1月までしか、時間を取ることは出来ない。
美咲は仕事をやめて東京に引っ越してきていた。
樋口は今年の終わりには寮を出て、二人で住居を手配するわけだ。
美咲の希望として、結婚後も仕事は続けたいということがある。そのため現在は、非常勤の教師として働いている。
それを妨げる樋口ではないが、どうせすぐに子供が出来るだろうなと思っている。
女性に対する支配欲が強い樋口は、自分の子供を産ませることを、その欲望の一つとしている。
せっかくだから少しは二人きりの時間を過ごしたいとかとも思うが、樋口は出張の多い仕事である。
シーズン中はなかなか育児なども手伝えないだろう。
なのでその分、外でしっかり稼いでくる。
美咲が気にしているのは、樋口の母のことである。
一人息子が結婚して東京に住み、自分は地元の上越市に残る。
一緒に暮らしたいのではとも思うし、美咲にとっては姑になるのだが、おそらく仲良くやっていけるのではないかと思えるのだ。
ただ彼女は彼女で、新潟に仕事がある。
いずれは世話になるかもしれないが、それはずっと先のことになるだろう。
もしも育児ノイローゼにでもなったら、樋口の母ではなく、今は専業主婦になっている、美咲の母の世話になるかもしれない。
ただでさえ新しい環境になるわけだが、東京はまだしも学生時代の知り合いが多いのが救いだ。
住む場所はおそらく、埼玉よりの東京のどこかになるだろう。
あとは結婚式の話である。
樋口は契約金が入ったため、プチ金持ち状態になっている。
だがプロ野球選手にとっての契約金というのは、退職金の前払いのようなものだ。
この世界に入ることは難しいが、のし上がることはもっと難しい。
さらに言うならスーパースターになっても、まだ人生が勝ち組で終われるかは分からない。
アメリカのプロスポーツ界ほどではないが、日本のプロスポーツ選手においても、引退後に破産した人間などはたくさんいる。
確実に収入になると言えるのは、プロとして活躍している間だけなのだ。
結婚式は基本的に、身内と友人だけを呼んで行うことになった。
ただ樋口の招待予定客の中に、上杉兄弟や佐藤兄弟がいるあたり、一部の席がカオスになりそうである。
両者の親はそれぞれ帰宅したが、美咲は一日お休みを取って、こちらに残っている。
樋口もまた外出届を出して、本日はホテルで一日二人きりである。
ただマジメな話もしなければいけない。
具体的には家族計画である。
樋口ははっきり言うと、子供が好きではない。
ただ、嫌いでもない。
一人っ子であったが親戚に同年代や下の子もいたし、少なくとも嫌悪することはない。
常に理屈っぽい樋口としては不思議な気もする。なにせ赤ん坊には理屈は通用しない。
ただし美咲が子供を欲しがっているという事実は尊重するし、ならば子作りにも意欲的になるつもりである。
そもそも結婚を決断したのは、美咲が子供を産みたいという、樋口との将来を考えてのものだったからだ。
樋口としては別に、子供は必要ではなかった。
いや、美咲との間には子供が必要ではなかったと言うべきか。
自分が出世してからなら、それも許容出来た。
だが美咲が七歳も年上だということが、その人生設計の改編を余儀なくさせたのだ。
樋口としては育成や教育には、二人で話し合って決める。
だが現実にどう役割分担するかは、美咲が主導的になるしかない。
プロ野球選手というのは特殊な職業だ。
二月の頭から一ヶ月は確実に出張になるし、毎週のように出張が存在する。
子育てへの参加など、かなり限定されたものになるしかない。
そんな樋口に出来ることは、金を稼ぐことである。
年俸1600万の樋口であるが、この調子で一年を通せれば、本格的なスタメン起用は六月からであったとは言え、年俸の倍増は間違いないだろう。
単純に妻子を養うというだけなら、学歴もあるし一般企業に行けば良かったのだ。
安定を求めるなら社会人野球に行って、引退後の仕事も確保すべきであった。
だが樋口の目標は、かなり道筋は変わったが、到達点は変わっていない。
日本において、社会的な影響力を得ること。
そのためには多少ならずリスキーであるが、プロの世界を目指すしかなかったわけである。
激しい運動の終了後の夢うつつの中で……はなく、先に二人は明瞭な頭で話し合う。
美咲は子供は二人はほしいらしいし、将来のことも考えたらマンションを買うよりは賃貸の方がいいだろう。
樋口は基本的に次の年俸更改で、在京圏内以外の球団へのトレードを拒否する条項を入れてもらおうかと思っている。
ただ美咲の両親が将来的に東京近辺で家を持つなら、そこまでは別に地方球団でもいいのか。
とにかく樋口に言えるのは、メンタル的なことは別にしても、基本的に育児は美咲メインになるということだ。
樋口に出来るのは、とにかく金を稼ぐということ。
金で全てが解決出来るわけではないが、少なくともかなりのことが解決出来ることは確かだ。
キャッチャーの選手寿命は割りと長い。最初の子供が物心つく頃には、父親が活躍する姿を見せたいものである。
男性も女性も、年齢が高くなるにつれて、出産のリスクが高くなるのは事実だ。
またその生まれた子供も、なんらかの障害を持つリスクが、わずかずつでは上がっていく。
樋口は中学生の父の事故以来、完全に両親の揃った家庭というものに憧れている。
プロ野球選手の父というのは、子供にとっていい影響を与えるのか、悪い影響を与えるのか。
少なくとも子供たちが、経済的な理由で進路を少なくすることは避けたい。
そこそこ一流の会社に勤めた社会人が、生涯に獲得する収入は三億と言われる。
実際のところはもっと少ないらしいが、樋口はおおよそ計算をしている。
年俸が三億になっても、その半分はほぼ税金で持っていかれる。
全盛期が短いことを考えると、プロ野球選手というのは、あまり安定した仕事ではないのは確かだ。
安定した道を選ばなかったのは、樋口の最後に残ったエゴである。
だが美咲はそれに付き合うことになったのだ。
来年か再来年に一人目を、そしてその二三年後に二人目を。
三人目以降は経済状態を考えながら決める。
確率は低いだろうが、生まれてくる子供に先天的な疾患があることもあるだろうし、手のかかる子供になる可能性もある。
そういうことを考えると、子供というのはリスキーな存在だなとも思う。
人生というのはなかなかに、目標を定めていないと、ぼんやり生きていくだけのものになっていくことが多い。
その点では自分は、一度決めたことを曲げてしまった。
思い出すのは、大学で組んだバッテリーのピッチャー。
結局本当に宣言どおり、プロの世界には来なかった。
プロの世界に来て、球界トップクラスのピッチャーの球を受け、トップクラスのピッチャーの球を打つ。
そして確信するのだ。直史はほぼ全てのピッチャーよりも上だと。
あの自分のコンディション調整に、偏執的なほどこだわっていた姿を思い出す。
あれこそまさに、プロと言えるスタイルではなかっただろうか。
野球に集中して成績を残すのは、けっこう簡単なことだ。
キャッチャーはかなりの部分が頭脳職であるので、そこではそうそう負けることはない。
あとはデータをどれだけ蓄積できるかと、最後には直感の問題がある。
どれだけ計算しても、計算しきれない部分が、必ずプレイの中には存在する。
そこを越えて行くことが出来るピッチャーやバッターが、本当の天才と言えるのだろう。
樋口も多くの選手を見てきたが、そんな選手はごくわずかしかいない。
上杉と大介はプロの世界で戦い、直史は去っていった。
(あいつはどうしたんだろう)
運動の後のシャワーでさっぱりとして、樋口はあの男のことを考える。
甲子園以降、全く話を聞いていない。
スマホをいじって検索してみても、少なくとも活躍している情報は出てこないのだ。
(いや、ひょっとして……)
樋口は検索方法を変えて、そして見つけた。
やはり野球をやめてはいなかったのか。
(坂本……)
MLBの傘下球団、AAの選手の中に、その名前を見つけた。
日本人がMLBで活躍する昨今、AAにいる選手に注目がいかないことはおかしくない。
しかしあれから四年以上、どうしてこいつの話が聞こえてこなかったのか。
調べたところ英語でも、それほどはっきりした情報は出てこない。
だが現在はピッチャーとして、アメリカのチームで活動している。
AAだからと言うべきか、その詳細な成績は検索しても出てこない。あるいは自分の検索の仕方が悪いのか。
野球の世界は国内のクラブチームだけでなく、海外のマイナーリーグにもつながっている。
確か坂本は実家が金持ちだったので、海外に行くのもさほどの問題はなかったのだろう。
しかしまさかNPBを経由せず、いきなりアメリカのマイナーリーグとは。
詳細で分かるのは、アメリカの大学からドラフトで、直接指名されたということ。
日本語訳した情報が一つもないので、本当に誰も気付いていないのか。
直史に教えればどうなるだろうか。
もう何も起きないと、理性の部分では分かっている。
だが樋口にもある、野球人としての魂が、何かの化学反応を期待しているのであった。
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