第225話 こんな夏もある
大学の野球部から席を抜き、大学院生になっている直史は、普通にスーツを着て東洋ガスの野球部練習場に向かった。
もちろん誠二と一緒であり、直史はあくまでもオマケである。
だが食玩においてはしばしばオマケが本体になることもある。
野球用具も持って来ていないので、直史は本当に今回は付き添いであるし、どうせならと瑞希に取材のメモを渡されたりもしている。
自分の影響力に無自覚な男である。難聴系主人公の系譜とでも呼ぶべきか。
直史に言わせれば、全て気にしすぎである。
確かに高校大学、そしてワールドカップにWBCと、国際試合まで多くの舞台で投げてきた。
ただプロの世界を考えれば、あれは年間に143試合も行うのである。
高校時代直史は、セイバーの行っていた検査により、年間を通して戦うような無茶が、この肉体には備わっていないのではと言われた。
その印象がずっと心の奥底に残っているが、セイバーは言葉ではそれを何度も上書きしたはずなのだ。
人は自分に都合のいい事実しか信じないと言うが、直史にとっては自分の耐久力への不安は、つまり信じたい事実であったのか。
単純にプロになってまで野球をしたくなかったという方が、分かりやすいだろうが。
直史は事前に、東洋ガスというチームについて、多少は調べてきた。
過去に何人もプロへと選手を送り出しており、その中にはドラフト一位指名され、球団の主力となった者もいる。
そして高校時代に対戦した選手が、一人入っている。
元大阪光陰の大蔵。
ジンがリードが下手と称したキャッチャーである。
「正直、送ってくれるのは助かるけど」
助手席に座って誠二は言うが、直史の運転するこれは、実は私物である。
「お前が軽に乗ってるわけ?」
「正確には俺の車でもないんだけどな」
スズキのワゴンRは、瑞希が買ったものである。
都内の狭い駐車場には、軽自動車が都合がいいのだ。ワゴンであるとゴツい誠二も楽に乗れる。
そもそも生活費などは折半であるが、この車をキャッシュで買ったのは瑞希である。
東京ではさほど必要とも思わなかった車だが、あればあったで便利なものである。
なお実家は軽トラ一台と、普通車が二台ほどある。
田舎であるので。田舎過ぎるわけでもないが。
東洋ガスの人間は、駅まで迎えに来てくれると言ったが、万全の体調で臨むならば、車で乗り付けた方がいいだろう。
そう思ってわざわざ運転手までしている直史であるが、完全に純然たる好奇心で来ている。
今日が休日でなければ、もちろんこんな手間はかけていない。
これが瑞希と一緒に暮らす前であったら、二人の時間をもっと作っていただろう。
やはり一緒に暮らしているというのは大きい。
お互いの生活をお互いに合わせていくのは、面倒だが楽しくもある。
「けっこう街中にあるんだな」
「まあ駅から徒歩10分ってとこだしな」
フェンスで視界は遮られ、外野のネットが見える。
「あっちが社屋かな? まあ普通に入ればいいか」
門で手続きをして駐車場に車を停める。
なるほど会社だなあと、ごく普通の感想を抱く直史である。
平日は毎日昼過ぎまでは働いて、他の社員よりは早く、グラウンドに向かう。
そしてそこから練習というのが、社会人の野球らしい。
マッスルソウルズに比べると、練習時間が一定である。
あちらは本業をシフト制にしているので、全体練習がなかなかないのだ。
もっとも直史が練習に参加する日は、シフトを調整して練習に参加している者が多いのだが。
そして野球部の部長に会ったところ、思い通りの反応が出た。
「え、どうして佐藤選手が?」
「運転手兼、あと見学もしたいってことだったんですけど、まずかったですか?」
「いえいえいえいえいえいえいえいえ。どうぞどうぞどうぞどうぞどうぞ」
首を左右にブンブンと振っていて、ちょっと心配になるぐらいであったが。
先に会社と、その関連施設を少し案内された。
社員食堂があり、野球部は特に食費に補助があるという。
練習前に少量の燃料補給をして、終了直後にある程度食べるというのは、現代のスポーツ栄養学では当たり前のことだ。
昔は一日三度の食事で、無理矢理カロリーを摂取していたものだが。
「佐藤選手は、そのままで?」
「スーツ姿だとまずいですか?」
「いや、スーツの人間がグラウンド禁止ついうわけじゃないけど」
わくわくとした視線を向けられても、困るわけだ。
「ジャージならあるんで、着替えてきましょうか」
違う。そうじゃない。
車の中のバッグには、運動用の衣類が入っている。
千葉のSBCに向かう時には、使っているトレーニング用のジャージなどを入れてある。
ただしユニフォームなどはない。
スパイクとグローブが入っているので、それで充分とも言えるが。
結局直史も着替えたわけだが、部長さんはがっかりしていた。
案内されるのはグラウンド、トレーニングルーム、そして室内練習場。
グラウンドはともかく、他の二つはマッスルソウルズよりも上の設備となっている。
マッスルソウルズの場合、トレーニングルームは会員と共同なので、それは当たり前だが。
野球以外のスポーツ全般も扱うマッスルソウルズと、野球部の東洋ガス。
当たり前だが注力している先が、野球だけの方が動かせる人や金は多い。
プロ球団は、サッカーに比べてはるかに少ない野球。
だが現実的な話をするなら、企業チームとクラブチームをあわせた社会人野球に、年々活発になる独立リーグ。
これらは野球で食べているとは言えないのだろうか。
そしてまた、日本全国の高校や大学。
プロにつながるチームには、どれだけの野球関係者がいるか。
ここもまた野球の世界だな、と直史は思うのだ。
「佐藤」
そんな直史に声をかけてきた者がいる。
キャッチャーのプロテクターを装着し、すぐにでも練習を開始出来そうな男。
「俺を憶えているか?」
「大阪光陰のキャッチャー。ストレートにはそこそこ強いが、緩急差に弱い。それと落ちるタイプのカーブにも弱かった」
「名前は忘れても攻略法は憶えてるのかよ」
「名前も憶えてるぞ、大蔵」
真田とは相性が悪かったというが、プロ入りした豊田とは普通にバッテリーを組んでいたのだ。
バッティングにおいてはむしろ、真田と組んでいた木村よりも上だったはずだ。
「顔見知り程度でなんだが、頼みがあるんだが」
誠二を案内していた部長と、その誠二は動きを止めて見守っている。
甲子園で優勝したチームのピッチャーと、それに敗北したキャッチャー。
因縁は充分である。
「お前の球、捕らせてくれないか」
「俺はいいけど……」
部長の方を見ると、コクコクと頷いていた。
なるほど、見たいのか。
「まあいいですけど……」
今日の主役は、誠二になる予定であった。
企業チームに入るかどうかということは、誠二にとっては自分の将来を左右することである。
ならば少しだけ、自分も協力してやろう。
七月の夏場にマウンドに立つと、どうしても高校時代を思い出す。
別に大学でも、夏場に練習はしていたのだが、かなりサボりぎみであったので。
またその頃には、マジメな学生には普通に試験があった。
(夏だなあ……)
今年もまた、白富東は甲子園に行けるのだろうか。
もし勝ちぬけたなら、甲子園に向かう前に顔を出してみるか。
知った顔は全て卒業し、かつては対決した国立が監督となった白富東。
だがやはりあそこが、直史の野球の原点だ。
マウンドからキャッチャーボックスの大蔵を眺める。
大阪からここまで、大学を経て社会人野球へ。
彼もまた、野球に魂を縛られた人間なのか。
別に今さら恨みはないというか、彼が正捕手であったときの大阪光陰には一度も負けてはいない。
だがバッテリーを組んだ誠二の方を贔屓するのは、身内意識が高い直史としては当たり前のことである。
軽く投げて肩を暖めたら、ピッチングに入る。
練習中のはずの選手たちが、ぞろぞろとこれを見物に来る。
初球のストレート、ミットは流れたがどうにか捕ることが出来た。
しかし次の落差の大きなカーブは、ワンバンして後逸してしまう。
さらに続いてスルーを投げれば、こんなものは当然初見で受けられる者は少ない。
スライダーやチェンジアップも、捕球するたびにミットが流れる。
別に意地悪をしているわけではない。
今の直史でも全力投球すれば、キャッチャーにとっては捕るのが難しい球にはなるのだ。
本格的に準備が出来たら、スプリットの後に全力のストレート。
ミットを弾いた球が、マスクに激突した。
近くで見るとこうなるのか。
直史のボールは、150kmを出すので遅いはずはないが、やはり変化球のキレが目立つ。
大学時代も樋口以外は、初見ではまともには捕れなかった。
その樋口も高校時代に、直史の球を受けるというアドバンテージをもっていたものだ。
悔しそうな顔をする大蔵は、やはりバッティングの方を磨くべきなのだろう。
そのためにこそ、誠二を獲得しようとしているのか。
同じ年齢のキャッチャーなど、社会人チームには二人もいらないだろう。
直史が考えるには、世代交代も考えて、五歳ほどは年齢差があった方がいいと思うのだ。
せっかくだからバッターボックスで見たいというバッターが出てきて、そこでキャッチャーは誠二に代わる。
ここでわざと捕りやすい球を投げる直史ではない。
もっともスルーは、ちゃんと訓練していないと、そうそう捕れるものではないが。
順番に何人ものバッターが、バットこそ振らないがバッターボックスで直史のボールを見る。
そしてその変化球を、しっかりと誠二は捕球していった。
結果的には誠二のパフォーマンスを、野球部の人たちに見てもらえたことになる。
ベンチに座って全体の練習を見ている直史は、ここもまたいい環境だな、と思った。
直史はなんだかんだ言いながら、練習環境にはずっと恵まれて生きてきた。
あまりにも甘っちょろい中学時代も、後から考えれば今のスタイルを築くためには、必要だったと言えるのかもしれない。
高校時代はジンとセイバーの手によって、勝利することを楽しむことが出来た。
大学時代は勝利が命題であったため、それ以外のことを全部排除してしまったが。
「どう思うかな?」
飲み物を持って来てくれた部長に、直史は頭を下げる。
「活気があっていいですね。大学はもっと窮屈なものでしたけど」
満足そうに頷いた部長は、世間話を始める。
だが単純な世間話は、あまり長くなかった。
結局尋ねたいのは、どうして直史はプロの世界に行かないのか、ということである。
プロになるのが一番の目標であるなら、そうすればいいだけの話である。
だが直史には他に目標があり、そのためにはプロへの寄り道は難しかったのだ。
将来は千葉に戻り、そこでクラブチームに参加しようという考えでいる。
野球を完全に辞めるわけではなく、単にプロの世界に行かないというだけなのだ。
プロになりたいという人間を、多く見てきた部長である。
特に社会人野球というのは、プロに行くための最後の段階だ。
ここで二年を経過してもプロに指名されないのなら、もうさすがに限界である。
社会人で給料を貰いながら野球をするのも、それはそれでいいことなのだが。
「そうですね。私も一般企業に入るつもりなら、地元の企業チームがあるところに入ったかもしれません」
千葉県には企業チームでも、かなり強いところがあるのだ。
弁護士を目指すことについても、別にそれは直史でなければ出来ないことではないのだ。
自分の人生を賭けて、何かを成し遂げようと思うなら、野球を選択する人間もいるのだろう。
だが直史は、それはもういいのだ。
WBCという大舞台で、世界の頂点のレベルはおおよそ分かった。
メジャーの本当の一線級は、あそこには出てこなかったが、それでも想像がつく程度の差でしかないだろう。
テレビ中継でMLBの試合を見ても、それほど驚異的な選手は見当たらない。
だからもう、直史はここでいいのだ。
大介のように、チームの優勝と自分との戦い、二つをやる気持ちは直史にはない。
大学時代のように、実質的には金のためにやるというのは、リスクが高すぎる。
本業を持って、クラブチームで野球がしたい。
野球をもって誰かを楽しませるのではなく、自分が楽しむ。
それが直史という人間なのだ。
この日、誠二はその実力を東洋ガスの選手たちにも認められた。
能登や山中とはまた違ったルートで、プロの世界を目指すことになる。
チームのキャッチャーが捕れない球を、誠二は捕れる。
そんな後押しをしてくれるために、一緒に来たのか。
わざわざ野球道具を持っていたというのも、出来すぎである。
ただ直史は、こんな展開もあるかもしれないとは思っても、結局自分からは動かなかった。
自分が行くところで、野球が動いているのだ。
直史の意思ではない。それは確かなのだ。
こいつは本当は、とても優しい人間なのではないかと、誠二は思う。
論理的過ぎて、冷静すぎて、詳しいことは見極めようがないのだが。
企業チームで、プロからの指名を狙う。
それが誠二の今後の目標になるだろう。
「その前にクラブ野球選手権があるけどな」
誠二の言葉に、それはなんだと調べ始める直史である。
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