第220話 魔王の弟

 四月も中旬、大学では春のリーグ戦が始まる。

 今年で四年生になる武史は、就職先が決まっているので、その点でとても気楽である。

 その就職先は定年はないが平均退職年齢29歳の、超絶ブラック業界なのだが。

 実は教職課程を取っている、リスクに配慮していると言うよりは、なんとなく安全を確保している武史である。


 周囲に流されて生きることは悪いわけではない。

 問題はその流れを自分で認識し、修正していくことが出来ているかである。

 武史は完全な次男気質だが、信用する人間を選ぶ目は持っている。

 とりあえずしばらくはセイバーにお任せでいいだろうと考えている。

 辺見は別に、悪い人間ではない。

 ただセイバーよりも論理的でなく分析的でもないので、元から野球に対する知識の薄い武史は、信用する気にはなれない。


 辺見を信じるぐらいなら、武史は淳を信じる。

 淳は野球知能が高い身内だ。武史は田舎的な感覚を持っているので、身内意識がある。

 ただ実際のところ淳は、直史はともかく武史には、複雑なコンプレックスがあるものだが。


 ともあれリーグ戦の第一戦は、東大との試合である。

 ここで武史は、辺見からもういいだろうと言われてしまった。

「もう奪三振記録は作ったし、お前の価値が落ちることはない。だから公式戦はある程度、他のピッチャーを育てることに使うぞ」

 とまあ一戦目はベンチからも外されてしまったわけである。


 もちろん辺見としても、優勝を狙わないわけではないので、武史を全く使わないわけではない。

 ただ東大との試合であれば、別のピッチャーで充分と思ったわけだ。

 佐藤兄弟ばかりが目立っているが、早稲谷にはピッチャー志望の選手が山ほどいる。

 それに下級生でピッチャーを作らなければ、来年以降の戦力が薄い。

 ただでさえ早稲谷は、去年のスタメンがほとんど四年生であったのだ。

 武史がまだいる今年のうちにチームを再編成しないと、しばらく暗黒期になりかねない。

 選手の質自体は、それなりに優れているのだ。


 佐藤一族と白富東、そして早大付属出身の二派閥が、去年までの早稲谷であった。

 別に両者は喧嘩をしていたわけではないが、このどちらにもつかなかった選手が、あまり起用できなかったという印象がある。

 ただ対戦相手が東大だからと、甘く見ていたのはある。

 先発させた投手は、先制点を奪われた。


 辺見は忘れていたのだろうか。

 この東大の四年生は、あの奇跡の一年を知っている最後の年代。

 そう、東大がリーグ優勝に迫った、あのシーズンを経験しているのだ。

 土曜日の第一戦はなんと4-3で東大が勝利した。

 やはり早稲谷は、去年よりも確実に弱い。

 練習試合ではしっかりと経験を積んだと言っても、やはり四年生に頼りすぎていたのだ。

 これは月曜日に出番が来るかもしれないな、と判断する武史である。

 本当なら月曜日はオフなので、だいたい恵美理と会う約束をしているのだが。


 ただそれならそれで、試合を見に来てもらえばいい。

 そして試合後にはさっさと帰ってデートである。




 日曜日の先発は、第二エースとして認識されている淳である。

 いくら研究しても、左のアンダースローという存在は、慣れなくてはなかなか打てない。

 だがそれでも、兄二人に比べれば、理不尽なまでの存在ではない。

 ……理不尽であることは間違いないのだが。


 甘く見ているわけではないが、淳にとってリーグ戦での活躍は、将来のためには大切なことである。

 少しでも良い成績を残して、出来るだけ上位で指名される。

 多少は甘く見ても、この左のアンダースローと言う希少さから、普通のピッチャーよりも切られる可能性は低いと思う。

 武史のついでという感覚は強いが、淳のことも多くスカウトには見られている。

 武史が在京球団、特にレックスに絞っているが、他の在京球団も、指名出来れば交渉して説得する自信はある。

 なので五球団に加えて東北までもが、武史を狙っているのだ。

 あとは先輩つながりで、ライガースなども関心は持っている。

 単純に関心だけと言うならば、12球団全てが持っているのだが。


 6-0と七回までを淳が投げ、他のピッチャーがそれ以降を投げて、継投完封勝利。

 ピッチャーだけではなく、確実に打力も落ちている。

 キャッチャーは樋口がしっかり鍛えた上山が、二年生ながら正捕手の座を掴みかけている。

 ただ淳からすると、どうせなら倉田あたりも来てくれていたらな、と思うのだ。

 その倉田は地元の大学に進み、野球部も辞めて白富東のコーチをしているという。

 国立は優れた指導者だが、バッテリーに関してはさすがに微妙な問題がある。

 そこを補ってくれるボランティアコーチがいるというのは、ありがたいものであろう。


 試合が終われば一度大学へ戻り、そこから着替えてようやく会える。

「遅い」

「悪い」

 普通に店の中で待ち合わせていた葵と話をする。

 ここからやっとデートであるが、淳は明日も短いイニングを投げるかもしれない。

 ただ武史が先発なので、あまり問題はないと思うが。


 今年と来年、リーグ戦が人生で一番大事な時期の淳である。

 それに対して葵は、大学院へ進むことも決めて、まだモラトリアム期間である。

 もっとも既に研究したいことは決まっているし、将来的にどう働くかも、ちゃんと考えなければいけない時期ではある。

 お互いに社会に出て行く準備は、しっかりとしている。

 その中で葵が不満なのは、自分ではなく友人のことである。


 葵はそもそも、中学に入るまで友達らしい友達がいなかった。

 勉強ばかりしている瓶底メガネと、腫れ物扱いされていたと言ってもいい。

 聖ミカエルはお嬢様学校だが、同時に進学枠のクラスもある。

 寮もあって人間関係は濃密だが、それでも環境を変えたいと思ったのだ。


 そこで明日美に出会った。

 聖ミカエルの人間にとって、明日美の存在は特別なのである。

 おおよそ全ての人間が、その人格形成に影響を与えられたり、人生を変えたりしていた。

 その明日美は、大学を出たら結婚と、衝撃的な展開になってしまったが。


 まあ、あの男なら、と納得せざるをえない。

 おそらく日本の20代の男の中では、最高レベルに稼いでいて、完全無欠に近いスーパーヒーローである。

 だから明日美ではなく、葵が問題としているのは、友人と言うよりはライバルであった谷山美景のことである。

 聖ミカエルから東大に入った、残りの一人である美景は、中学高校と通して、葵にとっては勉学においては、目の上のたんこぶであった。

 全国でもトップレベルの成績、そう、ツインズにも匹敵するほどの。

 それが卒業後にはまた映像の専門学校に行って、制作会社に進みたいと言っているのだ。


 総合職とか営業職とかではなく、専門職である。

 映像を作るのには色々な人間がいるが、現場に出るという職種。

 映像カメラマンを目指し、デザインの勉強などもしている。

 葵にとっては理解しがたい方向の分野である。




 ただ理由は、納得のいくものであった。

 中学の頃から明日美という存在を目の前にして、その映像を撮影することを続けてきた。

 すると今度は映像関連のこと全てに、興味が湧いてきたのだという。

 東大など入らず、美術系の大学に入るべきであったのかもしれない。

 だが本人としては、それも一つの経験だとして、これから先の人生設計を組みなおしているのだという。

 両親からはあまりいい顔をされなかったらしいが。


 葵の美景に対するライバル心は、それほど接触のなかった淳であっても、節々に感じてはいた。

 ただそれは一方的なもので、美景は普通に、葵のことも友達だと思っていただろう。

 自分のかなわない人間が、自分の理解出来ない道へ行く。

「分かるな」

 淳としては自分がどうしても行きたかった、甲子園とプロ野球。

 特にプロ野球に関しては、直史が全く興味を示さなかったのが、淳としては釈然としない。


 才能を持つ者は、その才能の奴隷となる義務がある。

 どこかで見かけた言葉であるが、淳はそれを完全に無視している直史を、眩しいものに感じている。

 結局プロには行かず、クラブチームに入ってしまった。

 これであと二年は、プロの指名は受けられない。

 いやそもそも、企業チームならともかくクラブチームで投げて、直史の実績に何かプラスになるのか。

 そんなものは全くない。


 天才が、自分の才能とは全く別のことをしようとしている。

 それをもどかしく思ってしまう、努力家の秀才が二人である。

 だからお互いに分かってしまえるし、それがこの場合は心地いいのだ。

 二人がくっついたのは、自然のことであったろう。




 翌日の月曜日は、予想通りに武史が投げた。

 他に選択肢などなかったであろう。

 そしてあっさりと完封して、21奪三振。

 既に誰も手の届かない領域へ、武史も踏み込んでいる。

 奪三振記録がどこまで伸びるのか、それに球界の注目は集まっている。


 春のリーグ戦、早稲谷は確かに弱くなった。

 だが優勝を諦めるほど、弱くなってはいないようである。

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