第212話 キャッチャーの心得
優れたキャッチャーというのは、どういうものであろうか。
キャッチング、スローイング、リードと、あとは壁になる根性に、守備の要としての役割もある。
直史が初めて知った「捕るだけではない」キャッチャーがジンである。
バッティングの技術で言うならば、後輩の倉田や孝司の方が優れていた。
またスローイングについても、二人の方が肩は強かった。
現在の誠二と高校時代のジンを比べた場合、キャッチャーとしての技術は、リードも含めて誠二の方が上だろう。
身体能力が圧倒的に違うため、バッティングも含めて選手としては確実に上だ。
だが決定的に欠けている部分がある。キャッチャーとして見た場合だが。
「今日はある程度散らして投げるからな」
球種を見せた日とは違い、今日の直史はトレーニングモードである。
即ちキャッチャーのための投球ではなく、完全に自分のためだけの投球だ。
キャッチボールは済ませていたので、誠二を座らせてさっそく投げていく。
まずはカーブを主体。
ゾーンから外れたカーブが、どこどこと地面を叩いて、誠二はそれを必死で抑える。
(これはまだいいんだけど)
問題は次である。
すっぽ抜けたカーブが、はるかに頭の上を通過する。
誠二はそれを見送ることしか出来なかった。
直史と馬場が、分かっていても言わない欠点。
選手としてなら普通に通用する、コミュニケーション能力。
だがキャッチャーとしては、普通とは違ったコミュニケーション能力が必要になる。
そしてそれを口だけではなく、プレイで証明しないといけない。
大学時代は必要としなかったフルパワー。
完全に制御を外したボールは、ゾーンを完全に外れる。
スライダーが外角からさらに外に逃げていって、誠二はそれを捕れなかった。
(この環境なら、馬場さんが教えない限りは分からないんだろうな)
そして馬場は、教えるつもりがないらしい。
それはおそらく、自分で気付かない程度であるなら、この茨の道からプロへ進むことは、不可能だと分かっているからだろう。
厳しいことだとは思う。
だが馬場は誠二の家庭環境なども知った上で、プロに行けるようにしなければいけないと思っているのだろう。
単にプロに行くのではなく、そこで稼ぐという覚悟。
それは誠二にかつての内野だけではなく、外野の守備までもさせていることから分かる。
プロに行って、プロとの世界にしがみつく。
直史には共感出来ない部分であるが、背景を考えれば理解は出来る。
ただ今日はとりあえず、自分のピッチングだ。
現在の体重は75kg。
一番球速が出ていた頃と、同じ体重になっている。
ただし体脂肪率は、わずかに高い。
つまり絞りきれていないし、筋肉もまだ細い。
制御用の筋肉が、出力用の筋肉に足りていない。
秋のリーグ戦はそれでも充分であったが、直史の考えるレベルには至っていない。
それはつまり、プロのレベルであっても蹂躙するというもの。
それだけのピッチングのボールを取れるなら、キャッチャーの技術としては充分だろう。
時々武史を連れ出して投げさせれば、スピードにも対応出来る。
暴れまわるボールが、徐々に収束されていった。
あれだけ出たために投げていながらも、最後にはしっかりとまとめてくる。
凄いピッチャーだとは、もちろん分かっていた。
だが今まで見ていたのは、試合での姿だけ。
その準備としての練習が、ここまで特異なものだとは、思ってもいなかった。
一通りまとめてから、ブルペンを後にする二人。
これで直史は今日は帰るが、その前に誠二と話す機会がある。
「なあ、お前ってキャッチャーでプロに行きたいのか? それともプロにさえ行けたらどこでもいいわけか?」
その質問に誠二は、少し考えて答えた。
「キャッチャーでいるからこそ、バッティングも活きてくるって感じかな。明らかにキャッチャーをやってから、相手のボールを読んで打つようになったし」
「キャッチャーはバッティングのついでか?」
「いやいや、相手のバッターの分析とかもしっかりやってるぞ」
それは最低限の仕事だろう。
直史としてはキャッチャーの役割が何か、はっきりと分かっている。
ジンはそのように過ごしていたし、樋口だって本当はあれだけ華やかなプレイヤーだが、キャッチャーとしての重要事項は忘れていなかった。
「じゃあキャッチャーにとって一番大切なことってなんだと思う?」
「それは……一番か。一つだけに絞るってことか?」
「もちろん他にも色々とあるけど、一番大切なことだ。特にプロに行くなら」
プロに行くなら。これ以上の殺し文句はない。
誠二は考える。一番大事なことというのは、考えていなかった。
キャッチャーはやることが多いだけに、これまでどれも必死ではやってきたのだ。
「あくまでキャッチャーとしてなら、キャッチングかリードか、守備の要としての指示かな」
「リードと守備のサインは、ベンチから出すこともあるだろ」
「するとキャッチング」
「そうだな」
ピッチャーの一番の仕事は、投げること。
ならばキャッチャーの一番の仕事も、そのボールを捕ることであろう。
「ピッチャーにとってありがたいキャッチャーっていうのは、つまるところ壁なんだよな」
ピッチングをした人間ならば、おそらく誰もがある程度同意してくれるだろう。
ピッチングの練習というのは、必ず相手がいてくれるものではない。
直史の場合も、中学時代にずっと投げ込んでいた。
意思のない壁に投げるよりも、キャッチャーに投げた方がずっと上達しやすい。
それに無機物に投げるのとは、感覚が全く違うのだ。
直史は優しいので、素直に告げてやれる。
「今のままならキャッチャーとしては、絶対にプロには行けないな」
打撃だけで行くというなら、それは話は別なのだろうが。
ほとんど社会人と変わらない条件で、プロに行くということ。
それは即戦力として求められているのだ。
そのキャッチャーとしての基礎、心構えの点において、誠二は間違っている部分があるのだ。
ワンバンのボールをしっかりと体で前に落としているのはいい。
だが暴投した球を、捕ろうともしないのは違う。
「いや、いくらなんでも捕れない球ってあるだろ」
「あるな。それに俺も、樋口あたりが暴投を無視したら、普通に諦めがつく。だけど下級生とかがとんでもない暴投でも、そのまま見送っているのを見たら、なんだこいつは、と思う。もちろん悪いのはピッチャーだけど、悪いままにしておくのはキャッチャーの責任だ」
ふむ、という顔で説明を求めてくる。
「ピッチャーからしたら、どんな球でもどうにか前に落としてくれる。暴投でもキャッチしてくれる。少なくとも限界まで追ってくれるキャッチャーじゃないと、信頼出来ないんだ」
既に信頼関係があるなら、また話は変わってくるのだが。
「たとえ失投でも、ピッチャーにそんな球を投げさせるのすら、キャッチャーの責任だと思うべきだ」
なぜなら、キャッチャーは黒子であるから。
全ての守備陣の中で、唯一他の八人を、その視界の中に収める。
そんなキャッチャーが扇の要であることは、確かに間違いない。
そして野球はピッチャーが投げなければ始まらないが、キャッチャーが捕れなくても試合にならないスポーツなのだ。
「だからどんな暴投でも、捕れないと分かっていてもジャンプするんだ。それが本当のキャッチャーとしての第一歩だ。実際にはキャッチャー以外で使われる可能性も高くても、バッティングを見られるよりも、キャッチングを見られる回数の方が、圧倒的に多いんだからな」
言われてみれば確かに、それは間違いではないと思える。
キャッチャーというのは恐ろしいポジションなのだ。
リードを読まれて打たれれば、キャッチャーの責任になる。
ピッチャーが失投して打たれても、それはキャッチャーの責任になる。
ピッチャーのメンタルのケアまで、キャッチャーにはある程度求められるからだ。
だがそれだけに、チームのエースの信頼を得られれば、一緒に上がっていくことが出来る。
どれだけピッチャーを活かせるか、また邪魔をしないか、そういったことまで全て、キャッチャーには求められるのだ。
縦横三メートル以内なら、確実に前に落としてくれる壁。
そういった存在が、キャッチャーには求められる。
もちろん実際はもっと、確実にミットで捕ってくれることを望む。
キャッチャーとしての実力がどうなのか、直史としては微妙だな、と思う。
キャッチャーはもっと、性格が悪くなくてはいけない。
人の嫌がることをして、投げられたら嫌だなという組み立てをし、そしてそれをピッチャーに要求する。
だが同時に、ピッチャーの投げたい球を投げさせることも重要だ。
キャッチャーがそのピッチャーの、限界よりもさらに上の球を引き出すということはある。
しかしそれはピッチャーが、キャッチャーの捕球能力を信じていなければありえないことだ。
全力のストレートをミットで弾く。
落ちたスプリットやカーブを、ワンバウンドとはいえ後逸する。
変化の大きなスライダーについていけない。
こういったことはピッチャーのやる気を、極めてなくすものである。
ふむふむ、と誠二は頷きながら、頭の中で己のプレイを考えている。
「ひょっとして今日、捕れない球を投げてたのは、それを思わせるためか?」
「それもあるけど、どの程度の暴投なら止めてくれるのか、それも確かめたかったからな」
だから最初はコントロールがとっちらかり、後にはちゃんと収束していったのだ。
「まあでも落ちるボールを全部、体で止めて前に落としていたのは良かったよ」
そこは確かに、感心するところであった。
「パスボールで試合に負けるとか、キャッチャーにはほんとにキツイらしいしな。そこからどうやって立ち直るかが大事なとこなんだけど」
「想像するだけでいやだな」
「股の間を抜いていくような変化球もあるからなあ」
「ジャイロか」
直史は高校大学に加えて、国際戦も経験している。
アマチュアだけではなく、プロも混じったWBCもだ。
そして思うのだが、ピッチャーにとっても一点を取られることの重さは、高校野球が一番であったと思う。
そもそも大学時代は、自責点がなかったという、根本的な話は別とする。
プロ野球でミスするのは、そのまま人生に関わってくるはずだ。
別にキャッチャーに限らず、ワンプレイのミスがそのまま、試合の勝敗だけでなく、人生を変えてしまうことがある。
ただそれでも、ミスの影響が大きいのは、高校野球の方であったと思う。
人間的に未熟だから、ということもある。
だがやはり、負けたらそこで終わる高校野球が、一番恐ろしいと思う。
トーナメントで鍛えられているから、日本は国際戦に強い、とも言われる。
過去には永遠に続くかのようなキューバ代表の連勝を止めたのも日本であった。
オリンピックでも金メダルを取ったし、WBCも初回から二回連続で優勝し、この間も優勝した。まあそれは自画自賛になるが。
ぎりぎりの緊張感の中でやる野球は面白い。
だからこそ直史は大学の野球は、仕事としてしか楽しめなかったとも言える。
パーフェクトをしても、そこに緊張などはなかった。
勝つこと以上に優先することはなかったからだ。
これから直史は、樋口やWBCで組んだ他のキャッチャーと、誠二を比べていくことになる。
その比較に耐えられるようになれば、プロに行ける実力は確実につく。
ただまあ、一番コネや伝手があるレックスには、その樋口が行ってしまっているわけだが。
樋口はひどく性格が悪く、相手を欺くことに長けていて、それを楽しむキャッチャーだ。
だが、味方のピッチャーに対しては献身的だ。
後輩のピッチャーに対しても、注文は多い。
だが最後まで付き合う気の長さがある。
それがキャッチャーなのだろう。
クラブチームの練習や試合を、わざわざ見に来るスカウトは少ない。
だが今は直史がいて、そしてマッスルソウルズは都内の有力大学や、有名社会人チームと試合を組むことがある。
高校や大学に比べればはるかに少ないが、それでもアピールのチャンスはある。
そしてキャッチングよりも派手な、バッティングを伸ばしてやることも出来る。
練習で直史の球を打てるなら、試合で他のピッチャーの球も打てるだろう。
ついでに早稲谷との練習試合でも組んだら、武史のスピードも体験出来る。
まあ単純なスピードではなく、ストレートの質が、武史は桁違いなわけだが。
「なんだか妙に協力的だよな」
素直な厚意に、そんなことを言われてしまった。
ただ直史としては、これもまた野球の楽しみ方の一つだと思うのだ。
自分自身の技術は、おそらくこれ以上は伸ばしようがない。
今が最盛期であり、練習量が足りなくなるこれからは、徐々にではあるが落ちていくだろう。
ただこれだけの技術を、自分の楽しみのためだけに用いるのは、満足するのは難しい。
多くのバッターの自信を叩き折ってきた。
これからはその成長に寄与しても、面白いではないか。
直史は別に誰かのためではなく、己自信の楽しみのために、誰かを育てていくのだ。
ジンが高校野球の監督をやりたいと言うのとか、あとは上総総合の鶴橋が定年後も高校野球に関わっているとか、おそらくこれと似た気分なのではないか。
もちろん直史の本職は別にある。
だが息抜きのゲームにおいて、育成プレイをするというのは、立派な趣味の一つであるだろう。
東京から去って、千葉のクラブチームに入ったとする。
そしたらそこでも、色々なキャッチャーと組むのではないか。
それは確かに誰かのためになることだが、究極的には直史の楽しみのためであるのだ。
指導者ではない。だがコーチには近いのか。
野球の道はピッチャーだけではない。
野球の楽しみ方は、選手としてプレイするわけではないのだ。
一線を退いてようやく、直史はそれに気が付いたのであった。
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