第211話 全国の佐藤さんに喧嘩を売る行為
直史が竹中と最初に話したのは、中学時代のこと。
その時のやり取りは、ほんのわずかな時間であった。
そしてここで再会し、まず一つ質問する。
「フェニックスの竹中さんも同じ名字でキャッチャーだけど、親戚か何かか?」
「じゃあお前は全国の佐藤さんが親戚なのか?」
「なるほど」
もちろんそんなわけはない。
「まあでも、元は竹中じゃないしな」
と、竹中誠二との物語は始まるのだが、バッテリーなら先にやるべきことがある。
そう、百万語をついやするよりも、ボールのやり取りの方が雄弁であるのだ。
プロの中で一軍の壁に当たった馬場が、現在は選手兼コーチとして主にバッテリーを見ている。
直史の球は捕ったが、さすがは元プロと言うべきか、スルーを後逸することはなかった。
(樋口の方が上手いな)
それでもそう思ってしまうのだから、改めて世間の平均のレベルというのが、直史の基準とずれているのかが分かる。
ブルペンに入る前に、二人はグラウンドのファールゾーンでキャッチボールをする。
徐々にその間隔を広げていき、キャッチボールと言うよりは遠投になる。
竹中の肩の強さは、確かにキャッチャー向きであると言えた。
サードからキャッチャーへのコンバートというのも、この肩を活かしたものなのかもしれない。
キャッチボールでもしっかりと胸元に投げてくれることは、いい選手になる条件の一つだ。
一方の竹中も、これが世界で通用する球か、と驚愕していた。
確かに肩は強い。それは認める。
だが遠投で投げるにしても、自分よりもずっと低い、直線に近い軌道でミットまで投げてくる。
スピンが多く、回転軸がしっかりとしている。
そして胸元まで、ミットを1cmお動かすことはない。
インタビュー記事などで目にしたコントロールは、確かなようである。
気が付けばグラウンドの中の、かなりの視線が集まってきている。
ブルペンに移動すると、練習を中止してまで集まってくる。
この間も少しは投げたが、あの時は運動靴で、グラブも持っていなかった。
本格的な直史のピッチングを見るのは、これが初めての者が多い。
予定を聞いてわざわざ、この時間に来ている者もいるのだ。
甲子園に神宮と、伝説を残したピッチング。
東京ドームはおろか、海外のMLBが使う球場でも投げたピッチャー。
下手をしなくても今の日本では、現役では一番多くの環境で投げているのではないか。
「それじゃあ一通り、変化球投げてみようか!」
竹中はそう言って、そして彼の地獄が始まった。
直史の変化球の種類を、正確に数えることは不可能である。
なぜならばカーブにしても、スローカーブと普通のカーブを、一つのものとして数えていいものか、人それぞれで違うだろうからだ。
それにアメリカなどでは、利き腕側に曲がるツーシーム以外の変化球は、シンカー系などとまとめられていたりする。
一番使い勝手のいいカーブから、ある程度の速度や変化量を変えて、色々なコースに投げ込んでいく。
(いったいどんだけあるんだ!)
竹中のミットに収まる球は、確かに一つずつ感触が違う。
しかも変化球をコース指定して、しっかりとそこに投げ込んでくるのだ。
ボールが寸分の狂いもなく、キャッチャーミットに収まる。
この快感はキャッチャーをした者にしか分からないものだろう。
直史としてもキャッチング技術は、確かに大学野球でも上位のものだと言える。
あとはインサイドワークに、バッティングだろうか。
中学時代は部活軟式で、軟球をスタンドに放り込んでいたはずだ。
それも後で見せてもらうとして、どこまで変化球についていけるか。
落差の大きなナックルカーブがバウンドするのを、体に当てて前に転がした。
最初でそれが出来るなら、充分な能力といっていい。下手にミットで追いかければ体がついていかずに後逸する。
あとは一球。
「ジャイロボール」
直史は握りを見せる。ストレートである。
問題は手首の使い方なのである。
球速はほぼストレート。だが回転はライフル回転。
これによってむしろバックスピンのかかったボールよりも、ボールの減速が少なくなる。
ストレートよりもキレて、沈むように伸びる。
スプリットがNPBに登場したのはもう30年も前になるが、当時はストレートとほぼ同じ球速で落ちるということで、フォークよりも打つのが難しいなどと言われたものだ。
握りにより回転数と球速が違うだけで、原理は同じなのだが。
スルーは全くそれとは違う。
回転数を少なくして空気抵抗を増やし、バッターの手前で下に落とすボール、それがスプリット系と言われるものだ。
スルーはむしろカーブや縦スラの理論に近い。
スピンによって、下に曲げる。
だが揚力がかかっていないだけなので、スピンの変化する力を、下に曲げるように使っているわけではない。
高めに投げられたストレートと見たものが、ど真ん中に入ってきた。
落ちていると言うよりは、普通に重力に従っている。
普通のストレートだとバックスピンで重力に逆らうので、相対的に落ちて見えるのだ。
最初は捕るに至らず、ミットで弾いてしまった。
「そんじゃストレートとスルー、交互に10球ずつ投げるからな」
10年以上をかけて育ててきた野球脳が、このボールの軌道を理解するのを拒否した。
佐藤直史は変化球の鬼である。
そんなことを言われていたが、実際にそのボールを間近で見てみると、ストレートが恐ろしいことが分かる。
変化球にあれだけの変化を加えるのだから、バックスピンもかけることは予想できる。
鞭のようにしなやかに腕を使って、低い軌道から浮き上がるように見えるストレート。
アマチュアの投げる球ではないどころか、プロに行くようなピッチャーでも、こんなストレートは見たことがない。
練習を終わって、直史は帰るが竹中はこれから夜間シフトでの仕事である。
眠らない都市東京は、スポーツジムでさえ24時間営業なのである。
そこで少し直史は、竹中と話す機会があった。
「誠二ってことは上に一人いるのか?」
「いや、これはまあちょっと複雑な事情が……っても複雑すぎることもないか」
竹中は、実の父の名前が誠一といった。
竹中が生まれる前に、亡くなっている。
そして実の母も、出産時に死亡。
そこから子供のない夫婦に引き取られたわけである。
不思議というか皮肉というか、誠二を養子として迎えた後に、夫妻は実子を得る。
それが妹であり、ではあるが誠二は全く、妹との差別を感じたことはないという。
お兄ちゃんでしょ、と言われたことは数多あるが。
同じく兄である直史としては、お兄ちゃんなら仕方がないな、というところである。
「今のままだと大学は難しいけど、プロに入れたら大学に行かせてやることも出来る」
「なるほど」
平然と流す直史の態度は、誠二にとっても希少な反応であった。
「だいたいこの話をすると、もっと同情するような感じになるんだけどな」
「家族のために頑張るのは当たり前のことだろ」
直史のストレートな物言いは、誠二にとっては新鮮なものだった。
直史としても別に、これで同情したりとか、変に理解しようとはしない。
泣き落としなどに付き合っていたら、今頃ここにはいないからだ。
プロのスカウトは選手を獲得するためなら、人情に訴えることはいくらでもする。
セイバーは一切そういうことはせず、一番いい待遇を得るならレックスに来てくださいと言ったのみであったが。
誠二がプロに入ることは、今のままではかなり難しい。
ピッチャーならば一番アピールはしやすいし、数値化する評価も確実にある。
だがキャッチャーであるならば、やはりバッティングを磨いていかないといけない。
そのチームに、佐藤直史がいるならば別の話になるが。
「竹中、俺はあくまで野球は、人生を楽しむものの一部として考えてる。大事な試合であっても、他にもっと大事なことがあれば、そっちを優先する」
それは最初から伝えてあることだ。
「けれど俺を目当てに諦めの悪い球団は、スカウトを送り込んでくると思う。そこで目立てば、細くても道は切り拓けるかもしれない」
あえて自分は何もしないが、利用するのは許容する。
「元は内野だったんだし、外野も少しやってみたらいいんじゃないかな。バッティング絶対の自身があっても、編成でキャッチャーはいらないってことにはなるし」
自分の労力がかからないところでは、親切な直史であった。
新生活のための物件に目途がつき、瑞希との時間を作る直史である。
そこで瑞希の方からは、映画についての話を色々と聞いていた。
肖像権の問題から、名前が変更されていると言っても、原案という名の原作は、瑞希の書いたノンフィクションである。
そして監修として瑞希の名前が書かれている以上、初めて『白い軌跡』を見る者は、あれが現実だと思いかねない。
かといって問題がないほど修正するには、瑞希も直史も時間が足りない。
クレジットを入れないのであれば、あれはフィクションと完全に言えるのだが、すると監修料がもったいなさ過ぎる。
所詮この世は知恵と金なのである。
直史からの話を聞いて、瑞希も少し驚いた。
白い軌跡以前どころか、直史が高校に入る以前のことが、人生のここにつながってくる。
人々の運命の交わりは、離れたと思えば気が付いた時にまたつながっている。
野球だけではなく、人生というのはそういうものだろう。
瑞希としてはそれ自体は、別に自分に関わりのあることではない。
ただ誠二がここからプロにまで進めば、また直史の周りが騒がしくなるだろうな、と思っているだけだ。
あとはクラブチームのレベルが、想像以上に高いらしいことに驚く。
以前にも一度は見たのだが、試合を撮影したビデオなどを渡された。
直史以外にいるピッチャーでも、150km近くを投げていたりする。
直史は150km台のストレートを今日は投げなかった。
だが体感速度は150kmオーバーで、不思議に思われたものだ。
スピンをかけることにより、ボールの縫い目が空気の流れを作り、減速の少ないストレートとなる。
これは基本的なフォーシームだ。
強いバックスピンをかけるのは、最後に指で弾く感覚だと言われている。
だが直史は逆に、最後まで指を巻きつける意識を持っている。
最後に弾くという点では同じなのだが、指の柔らかいのはピアノをやっていた直史や、水泳をやっていた武史に特有のものだ。
武史は指と言うよりは、体全体が軟体であるように教えられたのだが。
まだ寒い冬であるが、マッスルソウルズのトレーニング施設には、屋内練習場まである。
大学院はともかく、予備校の方は普通に授業があるが、どちらかというと自習の方が多いのが、この時期の直史であった。
引越しの準備をして、あとはあちらの物件が空くのを待つのみ。
そんな中で直史は、トレーニング施設にやってくる。
グラウンドと違ってこのトレーニング施設は、チームだけのものではない。
利用者の中には中学生や高校生、さらに社会人の選手までがいる。
プロの選手はさすがに、ジムの設備までしか使わないようだが。
ピッチャーがやってきて、受ける者がいなければ、誠二がキャッチャーをすることが多い。
とにかくキャッチャーに、特にプロのキャッチャーに必要なのは、多くのピッチャーの球を受けることだ。
その経験の蓄積がなければ、プロの一軍の試合には出られない。
「結局一軍には行けなかった俺だけど、佐藤君はどう思う?」
まだそこそこお客さん扱いの中で、馬場が直史に聞いてみた。
「キャッチャーとしては確かに、大学野球レベルならレギュラーにはなると思いますよ。ただ俺は高校大学と、超一流のキャッチャーに受けてもらうのが多かったので」
直史はジンと、後輩のキャッチャーを何人か、そして小柳川などを脳裏に浮かべる。
総合的に一番なのは樋口であるが、WBCでは山下にも受けてもらうことはあった。
さすがにNPBでもトップレベルであるあのあたりと比べると、キャッチングとスローイングでは、まだ劣っているとはっきり言える。
ただドラフトで指名された孝司などと比べると、見劣りするものではないと思う。
だがそれは、高校生時代の孝司と比べた場合だ。
神奈川は不動の正捕手であった尾田が、さすがに引退を視野に入れている年齢だ。
キャッチャーとしてはともかく、打撃の成績は年々降下している。
チームのためにも次のキャッチャーを育てるのは、スターズとしては喫緊の課題のはずだ。
しかしキャッチャーというのはピッチャー以上に、入手が難しいポジションである。
またキャッチャー本人の技術だけでなく、ピッチャーとの相性もある。
その点では樋口などは、本来の性格はひどく自己中心的であるが、キャッチャーとしては黒子に徹していた。
誠二の本質は、あまりキャッチャーではないのではないかと、短い期間であるが思うことはある。
高校からキャッチャーにコンバートというのも、珍しいと思うのだ。
本来の打撃力などを考えると、サードで良かったと思うのだが。
ただ身体能力的には、キャッチャーをこなせている。
おそらく高校時代は、キャッチャーで満足な選手がいなかったのだ。
そこで東名大菅原の監督は、期待をこめて誠二をキャッチャーに抜擢した。
それが最後の年に、怪我で使えなかったことは、痛恨の計算外であったろう。
二軍どまりとはいえ、プロに行った馬場は誠二の能力は評価している。
ただメンタルがキャッチャーというのには、少し違うとは感じている。
別にキャッチャーのくせに自己主張が激しいとか、そういうものでもないのであるが。
「俺を受け入れてくれたのは、あいつをプロに行かせるためですよね?」
「監督はそれを考えているみたいだけどね」
マッスルソウルズ創設から、プロを輩出したことはない。
社会人のノンプロならともかく、クラブチームまではスカウトの目が届かないというのも、一つの理由ではある。
「俺が見る限りでは、プロでも通用するだけの力はあると思うんだ」
馬場は憧憬の眼差しで、誠二を見つめている。
なぜプロをやめたのか、それとも単に戦力外を告げられたのか、それは知らない。
馬場は年齢も30歳ぐらいで、ここからステージを上げていくのは、さすがに無理だろう。
ジンのように高校野球の指導者になりたいという者もいるが、こうやって野球の技術を磨かせたいという者も、やはりいるのだ。
野球というスポーツの、日本における裾野は広い。
「ん?」
そんな誠二のキャッチングを見ているときに、直史は気が付いた。
「気が付いたかい」
どうやら馬場も分かっているらしい。
「どうして言わないんですか?」
「出来れば自分で気が付いてほしいんだよね。でなければ、キャッチャーでプロには行けない」
元プロとしては馬場はシビアだが、直史はそのあたりは優しい。
口で伝えるのがダメなら、体で教えてやるしかないだろう。
「この後、ブルペン入っていいんですよね」
「ああ、よろしく頼む」
頼まれた直史は、プロのキャッチャーに必要なことを知っていた。
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