第213話 野球の裾野
直史の野球人生は、小学生の頃の学童野球に始まる。
単純に小学生の頃は生徒数が少なく、過去の備品の使い回しが出来て、設備もそろっている野球しかなかったのだ。
なお屋内スポーツでは、バスケはなかった。あったのは卓球だけである。
かつて日本は卓球において、世界チャンピオンを三人も出していたのだが、その半世紀も前の遺産が、小学校の卓球関連の備品であった。
このため武史も野球をしており、バスケを始めるのは中学生になってからになる。
当たり前のことだが、リトルという野球も存在するのだが、当時の直史にとっての野球とは、地域の友人と一緒に行うスポーツ。
つまりご近所づきあいの一種の形であり、費用が高いということを除いても、わざわざリトルで野球をする意味は見出せなかった。
そして中学に入って、シニアの存在ぐらいは知っていたが、そこに行ってまで野球をしようというのは、誰もいなかった。
正確にはシーナが、リトルのころから行っていた。
女の子が閉鎖的な旧来のチームでプレーするというのが、当時の周囲ではありえなかったのだ。
なお女の子は屋外スポーツの学童自体がなかった。卓球か、もしくはバレーボールであった。
直史の野球に対する知識は、だから意外なことは知っているが、当たり前のことは知らなかったりした。
自分が上手くなるためのプレイには多くの時間を割いたが、現在の日本の野球事情などには、興味がなかったのである。
プロに行かない大人は、草野球を楽しむ。
直史の周りの大人にはむしろ、卓球好きの大人の方が多かった。
よって町内会での旅行で温泉卓球になどなると、とんでもないことになった。
後から知ったことだが、卓球の全日本にまで出た人がいたらしく、小学校の卓球を指導していたらしい。
社会人野球については、そこそこ前から知っていた。
大学卒業後に社会人、というルートでプロになった選手は、普通にいたからである。
だがクラブチームや独立リーグに関しては、あまり知識がなかった。
そちらの知識を調べたのは瑞希であり、大学に入ってからは、セイバーから将来の選択として示されたのだ。
豊かな生活というのは、仕事に追いまわされるものではない。
日曜日にはゆっくりと休んで、スポーツをするのもいいだろう。
その時にさすがに草野球では、直史がいくら衰えていると言っても、全く相手にはならない。
そのためにクラブチームというのを考えていて、そして大学野球引退後には、自分で決めて手塚に話を持っていった。
ここが野球の裾野の、一番特殊なところか。
何人かはプロ志望がいて、元プロがいる。
それでいてプロは諦めていても、野球はずっとやり続けていたい者もいる。
直史が見る限り、誠二の他にも二人ほど、プロに行ってもおかしくない能力の人間はいる。
こんなところでも野球を続けているのだから、野球に対する情熱や執念もあるのだろう。
だがプロに行けるのと、プロで活躍できるのと、プロであり続けるのはそれぞれ違う。
引退後まで野球で生活できる人間となると、さらに少なくなる。
ドラフトで指名されるレベルの選手というのは、だいたい分かった。
だが指名されてそこから活躍し、長くプロでいられるというのは、いまいち分かっていない。
誠二の抱える条件を考えると、最低でも四年はプロで、それなりの年俸にさせる。
そんな選手の育て方など、直史が知っているはずもない。
出来ることは、変化球打ちの練習台になってやること。
そして生きた150kmを投げて打たせること。
「いやいやいや」
途中で思わず、馬場のツッコミが入った。
「150kmを何種類持ってるんだ」
同じ150kmを、フォーシームとチェンジアップに出来る。
それが直史である。
ピッチャーの投げるボールには、初速と終速の差というものがある。
俗に言うフォーシームというのは、この球速差が少ない。
基本的にスピンレートの高い球は、やはり球速差は少ないと言われる。
回転軸と縫い目の関係によってはそうとも言えないのだが、つまりそれは回転軸と縫い目を変えることによって、同じストレートでも微妙に変化するというわけだ。
そもそもシュート回転するツーシームも、握りを変えるだけであるし。
なぜかそれだけのはずなのに、変化しないピッチャーもいる。
リリースの瞬間まで、指先がボールに引っかかる感触。
これを緩めにしてしまえば、スピン量は落ちる。
MLBで過去に粘着物質が多く使われていたのは、このスピン量をコントロールするためだとも言われている。
単なる滑り止めではなく、弱めの接着剤であれば、それは確かに使えるものだろう。
初速は同じで、リリースポイントも同じで、ピッチトンネルも同じ。
なのにわずかに遅く入ってくる。
タイミングを計って打つバッターであったら、いくらでもこれで凡退が取れる。
あとはスルーを投げて、これをしっかりと捕ってもらえるようにする。
直史は無茶は言わないピッチャーなので、ノーサインで全ての変化球を捕れなどという狂ったことは言わない。
変化球の種類が少ないピッチャーならともかく、直史であれば樋口であっても不可能であろう。
キャッチャーとしての経験の差で、馬場は誠二よりもむしろしっかりとキャッチング出来ている気がする。
これで一軍で出られなかったというのだから、プロの世界というのは難しいものである。
あるいはバッティングが壊滅的だったとか。ただそれならその時点で、プロには入れない。
練習が終わった馬場は、そのあたりのことも話してくれた。
「体がついていかなかったんだな」
今ならそう客観的に見えるが、プロでいる間は無理だった。
プロの世界に行けば、最初に見るのは、ほとんどの選手が自分よりも上だということ。
その差を埋めて、一軍で試合に出る。
オーバーワークで最初の数年を潰してしまった。
あせることなく、しっかりと鍛えていくべきだったのだ。
キャッチャーというポジションは、そうそう簡単に仕上がるものではないのだから。
ただ、多少の無茶をしなければ、ついていけない世界であったことは確かだ。
それ以上の無理をしてしまったため、今はここにいるのだが。
直史には理解出来ないというのは、ポジション争いだ。
中学時代は争うほどの部員がおらず、高校時代は普通に岩崎にエースを譲っていた。
逆にプライドが傷つくということで、最後の夏だけはエースナンバーをつけたが、あれが最後の1番であった。
早稲谷の背番号は、基本的に10がエースであったので。
目的はあくまでも、チームを勝利させること。
そのための準備はしっかりしておくが、自分が投げたわけでもない試合であれば、負けてもそれほど悔しくもない。
大学時代のことを考えれば、自分の成績さえ維持できていれば、それで文句は言われなかったのだ。
さすがに四死球を出しまくった試合は不本意であったが、あれでノーヒットノーランが達成出来るのだから、それはそれで逆にすごかった。
マッスルソウルズはトレーニングジムであるが、同時に科学的にフィジカルを成長させる、トレーナーも多く在籍している。
と言うか基本的に、全ての人間はトレーナーの知識を持っている。
誠二もそうなので、無茶と無理の境界線をちゃんと探りながらトレーニングをしている。
その理屈から言うと、直史の中学と高校の練習量はおかしい。
「ピッチングは減らしてウエイトを増やして、もっと先に球速を高めておくべきだったんだろうけど……」
馬場がそこで言葉を濁すのは、パーフェクトなピッチャーの実績を前に、一般論で間違っているとは言えないからだ。
一般的で、常識的な理論とトレーニングは、あくまでも平均的に一番選手を伸ばす手段に過ぎない。
それはプロ野球のコーチの、実体験による指導の枠決めと、何が違うのか。
もちろん馬場が言うような、本来の過程を辿っても、直史は違うタイプで一流のピッチャーにはなれたのかもしれない。
だが全ては実績で見るべきだろう。
それにマッスルソウルズにも、限界というものがある。
選手の全身の骨格や、生まれついての筋肉量、そして消化器系の吸収力などを考えれば、個人にもっと合わせたものにするべきだ。
イチローも、松井も、王貞治も超一流の選手である。
だが選手としての特徴は、それぞれ違うではないか。
野球のピッチャーは三振を狙うべきで、バッターはホームランを狙うべき。
それを原則として考えているバカは、今でもどこにでもいる。
昔はゴロを打てと言っていたり、低めに投げられないピッチャーはいらないと言ったり、だいたい無責任な極論がまかり通るものである。
走りこみをいまだにやらせる指導者もいたり、逆に走りこみの正しいやり方をしらず、一切やらせない者もいる。
科学的に肉体の特徴を捉えられるならともかく、中高生ぐらいまでは本当に合っているスタイルなど、選手自身にも分からないものである。
大介も悟も、アベレージヒッターであったのだ。
それが今では、普通にホームランを打っていける。プロの世界でだ。
優秀な選手を育てると言うよりは、選手をしっかりと成長させるためには、もっとずっと金のかかった、個々への指導が重要になってくる。
筋肉のつきにくい遺伝子や体質など、どうしようもないものは先天的になるのだ。
それを認めた上で、どのように育てていくかが、指導者には求められる。
しかしその育成技術が、どこまでの層にまで伝播させることが出来るか。
絶対に機器が必要な場面というのはあるのだ。
金も時間も有限の中では、全ての選手に、特徴に応じたメニューを作るのは不可能である。
なんだかんだ言いながら、素質はものを言う。
ただ素質を口にして諦めるなら、それはそこまでの話なのだろう。
野球の裾野は、少年野球である。なおあくまで名称の問題であって、少女も含む。
野球を始めたいというのが、一番最初の動機であることは言うまでもない。
この時点では別に、プロ野球選手が目的でなくてもいい。
だが同時の、才能のない人間でもプロ野球選手を目指してもいい。
そしてもう一つ、裾野を潰さないために必要なのは、野球をした者が幾つになっても、野球を続けられる環境だ。
草野球という手段があるし、日本には多くのグラウンドが存在する。
それらの完全な、野球をやるためだけの野球と違い、野球が上手くなりたいための野球が存在する。
高校から大学、そして社会人に独立リーグと、その選択の幅自体は、昔よりも広がっている。
ただ名門の社会人野球チームは、以前と比べるとだいぶ減ってしまった。
その中で逆に増えたのが、クラブチームである。
企業によって収入が保証されているわけではない。
ある程度のスポンサーは入っているが、給料を払ってプレイしてもらう社会人と、金を払ってプレイするクラブチームとは、全くその点が違う。
金を払ってでも、ある程度の環境でプレイしたい。
それはまさに、野球ガチ勢であると言っていいだろう。
プロへの道はもう残っていないであろう人間も、給与に格段の差がある独立リーグや、クラブチームでプレイするのは、なんだかんだいって日本の野球人気を、象徴するものである。
そういったことを伝えると瑞希は、社会人野球について少し調べたりするのである。
クラブチームと独立リーグ。
高校から大学、そして社会人に比べると、明らかにプロに至るには茨の道である。
それでも年間に大きな大会があり、都市対抗、日本選手権が二大大会である。
このあたりの事情については、むしろ直史よりも瑞希の方が詳しかった。
社会人野球の大きな大会は、この二つである。
だが名前は社会人日本選手権とか都市対抗とか言っても、実はクラブチームにも参加の可能性はある。
道があるというだけで、実際に通れるかとは別の話だ。
将棋の竜王戦に、アマチュア参加枠があるとか、三段リーグ編入試験があるとか、そういったものと同じレベルである。
つまり歴史的に見ても、ほんのわずかしかいないということだ。
瑞希はそう言いながらも、日程さえ合えば直史は、普通にあっさり勝ってしまうのだろうと思っている。
問題は今のレベルを、どれだけ維持できるかだ。
大学野球もそれなりに休むことがあったが、樋口に付き合ってもらってグラウンドの外では練習をしていた。
「よく考えたら、あいつには借りがあるんだよな」
「そうなの?」
中学最後の相手で、そして負けたという以上に、何かがあるのだろうか。
「俺もずっと忘れてたし、細かいところは憶えてないんだけど、選手整列の後に、野球辞めるなよとか、またどこかで対戦しようとか、そんなことを言ったはず」
あれがなければ高校最初の自己紹介で、野球をやっていたなどと、直史は言っただろうか。
シーナに誘われたと言っても、そのシーナは直史が野球をやっていると言ったから誘ったのだ。
人間の発する言葉には、言霊が宿っていると言われる。
別にそんな複雑なことを考えなくても、ほんのわずかな一言で、人間の人生は変わってしまうことがあるのだ。
人生を変えたあの一言、などといった感じの自己啓発本が売れるのは、実際に言葉を必要とする人間が多いからだろう。
その意味では瑞希と出会ったことも、間違いなく人生を変えている。
大袈裟なことを言わなくても、バタフライエフェクトと言われるように、わずかな行為が世界を大きく変えることはある。
少なくとも日本の、そして一部の世界については、直史の影響を大きく受けている。
だが直史もまた、他人の影響を受けてはいるのだ。
ジンという、初めてのまともなキャッチャーは、高校レベルでも有数のキャッチャーだった。
大介が打てなければ、夏の大会を勝ち進むことも無理であった。
それに岩崎という、同じピッチャーとして比較しやすい存在が身近にいた。
恩返しとか、貸し借りなどは、本当は存在していない。
ただ直史個人としては、少しばかり力を入れて、色々といじってみたいだけである。
自分の肉体を全盛期に保つのは難しいが、誰かに技術を伝えるなら、それなりに可能かもしれない。
もっともピッチャーに500球を投げさせようとは思わないが。
マッスルソウルズには野手にはいい選手がいた。
だがピッチャーは、直史の体感的には普通である。
誠二レベルのキャッチャーであれば、普通のピッチャーを使って試合に勝つことは難しいだろう。
高卒か大卒で、プロや社会人には行かなくて、それでいてある程度の実力を持ったピッチャーが、勝ち進むには必要になる。
そんなピッチャーには心当たりがないわけでもないが、今どこで何をしているのか、興味もないし調べようもなかった。
(まあ、チームの戦力を整えることまでは、俺の仕事じゃないしな。
あくまでも余暇で野球を楽しもうとする、野生のラスボスのような直史であった。
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