第209話 新たな舞台へ道は分かれる
年が明ける。
実家にて紅白歌合戦を見ていた直史であるが、今年は武史が東京に残り、ツインズも仕事と、珍しく四兄妹のうち直史だけがいる。
ちなみに淳もまた、本当の実家の方に帰っている。
直史よりはどちらかというと、武史を心配している母は、残念に思っていたがその理由からなんとも言いがたい顔をしている。
母と瑞希の関係は、何度も顔を合わせているが、悪くはないと思う。
嫁姑関係に関しては、武史の方が深刻になりそうだ。
直史を出産してすぐ、また母は妊娠したため、その育児を祖母が多くすることになった。
それは別にしても、長男の直史は大切に、だが少し独特な価値観の中で育てられた。
それに比べると武史は、またすぐに双子を妊娠しながらも、母は少しだけ余裕をもって、育てられた方なのである。
直史が子供のころからしっかりしていて、武史の方に手をかけることがあったというのも大きい。
手のかかる子ほど可愛く、そしてその嫁ともなれば評価が辛くなる。
恵美理には責任はないことだが、彼女のメンタリティはかなり日本人に近いが、それでもヨーロッパ的な思考が時々見え隠れする。
ただ本来ならそれは、佐藤家のような旧家とが相性がいいはずなのだ。
武史との相性がまだ、二人の間では成熟されていない。
あちらは一人娘なので、将来的には武史が向こうの家を重視することはありうる。
孫の世話がしたいのならば、むしろツインズの方が向いているかもしれない。
ただあそこは二人がかりで育児をするのだから、世の中の平均に比べて大変ではないのかもしれないが。
正月が明けて東京の寮に戻ると、樋口が待っていた。
翌日はレックスの寮開きであり、新人選手の入寮日だという。
プロの門を潜ること自体は、特に不安など感じてはいない。
先輩選手にはWBCで顔見知りになった選手も多い。ワールドカップでは吉村とも一緒だった。
その吉村はもう、寮を出ているらしいが。
寮の部屋は既に見に行って、荷物も送ったそうだ。
「埼玉県なんだよな」
レックスの寮と二軍球場は、埼玉県の戸田市にある。
「結婚はどうするんだ?」
「一年目のオフにする。あっちはもう30歳になるしな。口にはしてないけど、気にしてるはずだし」
「じゃあ一年は寮暮らしか」
「まあな。さっさと二軍にはおさらばしたいけど」
レックスの寮から本拠地の神宮球場へは、車でおよそ40分ほどはかかる。
大学時代は15分だったのだから、移動時間が無駄である。
この機会に車を買っても良かったのだが、どうせ一年目は一軍に合流したとしても、先輩の車に同乗していく場合が多い。
キャッチャーというポジションは、そう簡単に成熟するものではない。
特にプロのキャッチャーともなれば、最低でもリーグの対戦相手のバッター、五球団分を憶えておかなければいけない。
そして同時に、10人以上は投げる味方のピッチャーについても、把握しておかなければいけない。
だがそれでも樋口は、一年目からのスタメン奪取を狙っている。
キャッチャーは確かに頭を使うポジションだが、少なくとも樋口の記憶力と計算力は、おおよそのキャッチャーを上回るものだろう。
日米でキャッチャーに違いがあるとは言え、肩の強さや最低限壁になるという、キャッチャーの役割は果たせる。
その自信の根拠は、佐藤兄弟のスピードボールと変化球、そして左のアンダースローなどを経験したからである。
「正直なところ、またいつかお前の球を受ける機会がある気がする」
「まあ俺はまだ一年ちょっとは、東京にいる予定だしな」
そういうことではないのだが、そういうことにしておこう。
それにいずれ、お互いがもっとずっと歳を食って、プロでは通用しないような時になったら。
中年太り対策に、二人で草野球に参加してもいいだろう。
かくして樋口は寮を去った。
大学の卒業式には、また戻ってくるらしいが、
四年間の相棒との別れは、最後に居酒屋で酒を入れずに飯を食っただけであった。
高校野球は年齢で公式戦への参加が制限されるが、大学野球は年齢ではなく入学してからの年月がその制限である。
四年目を終えた直史は、当然ながら選手としては引退だ。
辺見としては選手としてではなく、バッティングピッチャーやキャッチャーの養成のために、参加してくれてもいいなと願っている。
直史は直史で、運動不足を解消するためにも、そこそこのことは続けていきたいと考えていた。
千葉に戻ってからは、セイバーの作った会社の持つクラブチームに、参加すればいいと思っている。
だが現時点においては、勉強が最優先される。
同棲のための引越しも考えたが、瑞希は基本的に大学に近い場所を希望しており、直史もそれには異存はない。
ただクラブチームに入るといっても、順調にいけば一年で退団し、また千葉で活動することになるのだ。
こういう時のために伝手やコネがある。
直史がなんとなく電話したのは、高校時代に散々影響を受けた手塚である。
手塚は現在は出版社勤めをしており、念願のマンガ編集に携わっている。
ただ野球マンガを担当しているので、自然とそういった伝手は増えてくるわけだ。
直史のネームバリューというのは、ものすごく高いものがある。
都内のクラブチームには、普通にいくらでも引き受けてがあるであろう。
だが直史の条件は、あくまでも勉強が優先であって、試合があっても出られるとは限らない。
そう考えれば薄くあっさりと問い合わせをしていく必要があるだろう。
さて、社会人のチームについては、主に二つに分けられる。
独立リーグというのもあるが、あれはあれでプロリーグなので、直史の希望には沿わない。
やりたい時に野球をする。
ある意味ものすごい贅沢そうで、簡単な条件である。
草野球まで合わせれば、いくらでも野球をする舞台はあるだろう。
だがそこに一定のレベルという条件を加えると、ほとんどが外れてしまう。
「お前がプロに行かないっていうのは、マンガ的にはありえない展開なんだけどなあ」
「新田だってプロに行かずに親の会社継いだじゃないですか」
「そういうレベルじゃないだろうけど、まあ事実は小説より奇なりというわけか」
手塚は直史とこの一年のことを話しながら、いくつかの選択肢を示してくれる。
一つには大学で、練習補助員として参加すること。
辺見から提案されていることと似ているが、試合に出ることはない。
たとえ練習試合でも、現役の選手を優先させるのだ。
レベルは確かに保たれるが、直史は試合でもそこそこ投げて、勝負を楽しむこともしたいだろう。
他にはシニア、もしくは高校のコーチという選択もある。
ぜひ来てくれと言われるかもしれないが、試合に出られないのは同じだ。
するとやはり、クラブチームになる。
現代における社会人のチーム、その一つだ。
かつては企業の多くが持っていた、社会人野球であるが、現在は業績不振などにより、それを維持することが困難になっているチームが多い。
これに対して主流となってきているのが、クラブチームである。
企業がスポンサーになっていることもあるが、その企業の社員が選手になっているわけではない。
もちろんその企業の社員が選手になっていることもあるが、社外の人間がそこそこの運営費を払って、選手となっているわけだ。
「ただ、一年間か」
大学院で一年間。それが終わって司法試験に合格すれば、直史は司法修習は、地元の千葉で受けるつもりである。
司法修習の間に体を動かすのは、かなり難しいだろう。
ただそちらはセイバーのコネによって、運動する環境は整えてもらえる。
そこまでして野球をやるなら、もういっそプロになれよと思う手塚である。
だが直史は、大学の四年間は例外的に外で過ごしたが、地元に残るつもりで生きているのだ。
代々の先祖を祀る墓に入る。
そんな手塚からしても古いと思える価値観を、直史は持っている。
手塚はそのコネを駆使して、この明らかに瑕疵物件に近い直史を、どこに任せられるか話をしてみることにした。
一番最初に話を持っていったところが、是非来て欲しいと言って来た。
さすがにいきなりそう上手くいくのか、と疑うわけでもなく思った手塚であったが、あちらはとにかく来てほしいということであった。
その中では直史が、おそらく一年しか在籍できないことや、練習への参加も短くなるだろうし、公式戦にも都合が合わないであろうということも隠さずに言った。
それでもいい、というのが返答であった。
どうやら直史の球界における価値というのは、手塚にとっても予想外であった。
大学が休みの間に、直史は手塚と共に、そのクラブチームを訪れた。
休みの日に悪いな、と直史は思ったものだが、手塚としてはこれも仕事のうちであるらしい。
なお話が面白くなりそうなので、瑞希も同行していたりする。
クラブチームの名前は、ちょっと聞くと頭が悪そうであった。
完全燃焼マッスルソウルズ。
企業がスポンサーとなっているチームであり、その企業はスポーツ飲料やスポーツ製品を中心に、トレーニング施設の経営なども行っている。
一般人にも開かれたセンターとしては、セイバーの作ったチームとの共通点がある。
クラブの選手の人間は、企業の人間かトレーニング施設のメンバーに限られている。
直史もつまり、月に8000円を払ってそこに所属してもらうわけだ。
社会人野球の企業チームは、俗にノンプロと言われているが、実際には給料をもらって野球をしている。
それに比べればクラブチームは、いい年齢をしたおっさんたちが、金を払ってまで野球をやっているわけである。
「それならまだ独立リーグの方がいいんじゃないですか?」
「どうかな。地理的にはやっぱり、関東の中でも東京にいるのが、色々なメリットはあるだろうし」
新しく住むところからは、電車を使っておよそ20分。
スポーツジムの横に存在するのが、球場である。
「なんか大学のグラウンドより立派なんですけど」
「まあこれは貸し出しもしてるらしいしな。さすがに維持するのに、部費だけでは足りないらしいし」
照明もあるし、少しだが観客席まである。
確かにレンタルするにしても、充分すぎる施設である。
「土日のどちらかは使えるようになってるし、選手はそれぞれのスケジュールを空けて練習をするんだ。隣のジムの施設は、会員だからもちろん使える。さらに隣にはフィジカル育成のための食堂もあるんだな」
セイバーもやっていたことであるが、ここはさらに規模が大きいと思う。
ノウハウを作るために、10年以上はかかったということだ。
「やあやあ、ようこそようこそ」
50歳前後の男性が、このチームの監督であり、同時にセンター長で会社社長の中富である。
彼もまた、大学までは野球をやっていた人間で、ドラフトの候補にまではなった選手であった。
ただ指名にまではいたらず、当時としてはありきたりのルートだが、社会人野球のチームへ所属。
そこからもプロには至らなかったものの、社会人時代に培った人脈などを活かし、このクラブチームを作ったのだという。
直史が見てきた中には、監督として色々な人間がいた。
ただ中富の持っている空気は、その中でも格段に異質なものであった。
瑞希はしっかりと、最近使っている自分の名刺を渡している。
直史の場合は必要ない。野球関係者で彼を知らない人間はいないのだから。
直史が感じた違和感の正体は、すぐに分かった。
グラウンドを案内してもらっていたのだが、監督と言うよりはもっと上の、経営者としての面が強いのだ。
つまりセイバーに似ているわけだが、あれほど情報の蓄積と分析に偏ったわけではない。
チームの施設としては、大学の野球部にも劣るものではないと思う。
そもそも選手の部費だけで、この設備が維持できるのか。
その選手たちのレベルも、おそらく大学野球と同じぐらいにはある。
そしてかけ声は大学時代に比べれば少ないものだが、熱気はむしろ優るかもしれない。
案内してもらっているうちに分かった。
ここにいる選手たちは、全員が自分の責任で野球をしているのだ。
一度入部してしまったから惰性でとか、そういう者は一人もいない。
そして強制されている者もいない。
さすがにここからプロなど、そういった道は難しいのだろう。
だがそれでも野球をやりたいという、純粋な野球好きが揃っている。
既に手塚から聞いているはずだが、直史は自分の事情について改めて説明する。
「大丈夫大丈夫」
中富はそう言って手を振った。
「部費を払っている以上、ちゃんと後片付けさえすれば、文句を言われる筋合いはないさ。それにうちには、まだ本気でプロを目指している人間もいるからね。そのためには君のようなピッチャーがいてくれるというのは、本当にありがたいことなんだ」
それについては瑞希も頷く。
直史レベルのピッチャーは、普通ならばプロに行っているのだ。
それに多様な変化球を操るため、その練習も出来る。
「大切な試合に登板出来なくても?」
「うちはそういうチームだしね」
このチームの選手の中には、夢や理想を持っている人間は、まだまだ多い。
ただ打算だけでやっている人間は、一人もいない。
社会人のチームに加えて、高校生や大学生など、対戦相手には事欠かないのが、東京のチームのいいところである。
社員の選手の中には、元プロではあるが、故障で一軍に上がれなかった者が、人を育てることに喜びを感じている場合もある。
とにかく印象として言えるのは、陰湿なところがないということだ。
それでいて高校時代のような、高校生に特有の未熟なところもない。
プロを目指す者もいる。
コーチを兼任している者もいる。
ただ単に野球が好きなだけの者もいる。
それがこのグラウンドの中に集まって、全く違う理由をもちながら、熱気を絶やさずにプレイしているのだ。
他にも手塚は、調べた先はあった。
だが直史はここが気に入った。
白富東の雰囲気に似ている。
そう思ったのは瑞希も、実は手塚もそうであったのだ。
全く目標の違う、あるいは目標のない野球。
ただ野球をするためだけに存在する、奇妙なチーム。
セイバーの作ったところは、まだ何か目的を感じられた。
だがここにはそれすらもない。
直史のこれまでにない野球生活が始まろうとしていた。
×××
※ 新田 超有名マンガ「タッチ」のキャラである。
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