第207話 夢の跡
九回の畿内大の攻撃は、下位打線から始まる。
そこへどんどんと守備が全く出来なくても、とにかく打てる控えを、どんどんと出してくる畿内大。
だがバッターが多少レベルアップしても、どうしようもない存在というのはいるのだ。
逃げるスライダーを振って三振。
落差のあるシンカーを見逃し三振。
そして最後にはストレートを投げて、真上に打球は上がる。
無事に樋口がキャッチして、スリーアウトでゲームセット。
打者27人に対して98球、エラーが一つで12奪三振の、ノーヒットノーランであった。
バツの悪い顔をしていた沖田であるが、そもそもこの試合は早稲谷側も、沖田のホームラン以外は点が取れていない。
イレギュラーなので仕方がないと、必死で自分を納得させる沖田であった。
本日のヒーローは、当然ながら直史である。
この試合が直史の引退試合であるのだが、当然マスコミはそれを知らない。
クローザーとしては先発以上の制圧力を誇る直史は、神宮の決勝までは、投げてくると思わせておいた方がいいのである。
まあメンバー表に名前がなければ、あの研究の苦労はなんだったのかと、他のチームを別方向に絶望させるだろうが。
どうせどれだけ分析しても、分かるものではない。
インタビューにもいつも通りの塩対応の直史である。
辺見などへは今後の神宮大会への、所感を聞いていたりもするが。
直史の慇懃無礼なマスコミへの応対も、これが最後。
ここから先は、直史のいないチームが戦っていくことになる。
秋のシーズンは五試合に投げて、一度もヒットを打たれることがなかった。
最後はエラーがあったが、イレギュラーなのだから仕方がない。
とりあえずこれで、あとは勉強に専念出来ると思った直史である。
リーグ戦の他には二つの全国大会。そして日本代表での試合。
直史は結局、一度も負けることがなかった。
どこにも直史が、投げる相手は存在しない。
そして心の平穏が戻る。
早稲谷は結局、武史、村上、淳、星といったところを上手く継投させて、神宮大会でも優勝した。
そしてやっと、プロ入り組は本格的な交渉が始まる。
ドラフト最下位指名の星であっても、契約金は一千万以上。
そして初年度の年俸は、たいがいの企業の一年目を上回る。
目先のことを考えれば、プロ野球選手というのは美味しい収入に見えるのだろう。
それでも育成契約などは、最低限の賃金と言ってもいい。
支配下で指名することは、育成から入るよりも、はるかに待遇が違う。
育成の選手はまず支配下登録入りに向けて、必死に競争をするしかない。
レックスはそもそも、あまり育成では選手を取らないチームなので、支配下登録に必死になるということはない。
なんだかんだ言いながら、支配下登録の指名を受けた星は、チャンスをもらったのである。
年俸も支配下登録の最低限からは、少し上である。
レックスは過去にも、ドラフト八位で金原を指名して、今では完全に主力となっている。
入団時にはもう終わったなどと言われていたが、肘の故障からはしっかりと回復してきたのだ。
そして樋口が入る。
樋口は一年目から、正捕手の座を狙っている。
そのためにはまず、捕手としてではなくバッターとしての存在感を示した方がいい。
キャッチャーでトリプルスリーが狙えそうなのは、樋口ぐらいだろうなと直史は思っている。
キャッチャーは鈍足のポジションというわけではないが、あの屈む動作によってどうしても足に筋肉がつき、走るスピードは遅くなっていくからだ。
直史の高校の後輩である孝司も、走れるタイプのキャッチャーだったが。
なんで俺の部屋に集まるんだと思いつつ、空間を提供する直史である。
二人は既にプロに入って以降、どうやって結果を残していくかを考えている。
競合の一位指名だけあって、大卒の樋口は一年目から、ある程度使われることは間違いないだろう。
一年目の新人などは、とにかく自分の成績にこだわったほうがいい。
チームを勝たせることを考えるのは、監督の役目である。
現在のレックスのエースと言えば、左の吉村と金原の二人であろう。
あとはセットアッパーとして活躍している豊田。
なんだかんだ言って、直史と縁がある選手が多い。
「若いピッチャーがとにかく多いんだよな」
そして正捕手の丸川は、来年は36歳のシーズンである。
レックスは次の正捕手が育っていない。
出来るだけ即戦力ということで、樋口を取ったのは理解出来る。
だがキャッチャーというのはとにかく、一番データが必要なポジションである。
セに限っても、各チーム最低10人ほどのデータを持っていないと、とてもリード出来るものではない。
あとはバッティングでどれだけ魅せるかだ。
アマチュアとプロとで、一番ポジション争いの厳しさが変わるのは、キャッチャーではないだろうか。
それは他のポジションとのコンバートが難しいから、ありうるのかもしれない。
ただし樋口の場合はバッティングがいいし、高校時代にはピッチャー経験もあるため、フィールディングが上手いのは確かである。
サードかファーストなら出来るんじゃないかと思うし、ちょっと頑張ればそれよりも難しいセカンドとショートもなんとかなりそうである。
それだけ運動神経抜群で、視野の広い樋口であるが、さすがに球団もキャッチャーとして使うつもりであろう。
高校時代はワールドカップでもマスクを被ったし、大学時代はずっとキャッチャーである。
そしてWBCにも出たのであるから、プロを含めてもトップレベルのキャッチャーとして認識されていたというわけだ。
世間的には直史の相棒というイメージが強いだろうが、大学も三年生になってからは、重要な試合は全てキャッチャーのマスクを被っている。
そんな樋口であっても、油断も慢心もない。
そして既にプロに入る前から、準備はしっかりとする。
これまでは神宮に備えてきたわけだが、プロの入寮日は一月である。
つまり丸々一ヶ月が、空いているわけである。
体を鈍らせないように、大学の練習には参加させてもらう。
だがそれとは別に、対策を取っておきたい。
「あるんだろ、球団別選手のデータ」
「俺は知らない」
「タケの所属先をレックスにしているってことは、レックスを強くするためのデータを持ってるはずだろ」
「それはそうかもな」
セイバーとのつながりを、今の樋口は求めているわけだ。
SBCは関東圏三箇所、そして最近は関西にも一箇所のセンターを作った、トレーニングセンターである。
野球に限ったことではないが、一番多く扱っているのは野球で、直史も利用している。
クラブチームを傘下に持っているので、将来的にはそこで楽しもうと、直史も思っているのだ。
基本的には尾田や岩崎、アレクといったセイバーと接触のある選手が多く利用している。
ただそれとは別に、プロや大学のチームのデータも取っていると思われるのだ。
画像解析が明らかな現代において、その持っているデータは、球団の分析班を超えているかもしれない。
少なくともまだ球団に合流していない樋口としては、そこからのデータがほしいのである。
「まあ連絡が取れるようにはしておくから、交渉は自分でしてくれ」
「分かった」
直史としても、あえて邪魔をする理由はない。
なお契約を済ませた樋口は、マスコミに対してその内容を完全に明らかにしている。
金の流れがあくまでも推定のプロ野球において、樋口はそのあたりはオープンである。
「ただこれ、他の選手は違う部分がけっこうあるんだろうな」
樋口がそういうからには、実際の年俸には開きがあるのだろう。
年俸という形以外で、色々と副収入的なものがあるのか。
まあ樋口としても、公表したのは契約書の内容だけである。
競合一位としては当然のように、契約金一億円、出来高5000万円、年俸1600万円である。
大卒一年目の社会人が得るには、多すぎる金額だ。
もっとも経済観念もしっかりした樋口が、無駄な買い物をすることもないだろうが。
とりあえずスーツ一式と靴に時計と、身だしなみを整える程度の買い物はしたわけである。
同じプロでも、星とは入団の時点で、大きな差がある。
だがここからの逆転があるのが、プロの世界なのだ。
同じく八位指名で入ったレックスの金原は、今年は推定6000万でプレイしているはずなのだから。
樋口が在京球団にこだわったのは、恋人の両親が現在、東京に住んでいるからである。
それもレックスの選手寮のある、埼玉に近いところだ。
定年まであと数年あり、樋口の計画というか未来予想図では、子育てにまともに参加出来そうにない自分は、あちらの実家に頼らなければ無利だろうという判断である。
樋口の母は新潟で働いていて、そうそう面倒を見に来てくることも難しい。
そもそも嫁と実母の間は上手く行かないのが、世の常である。
元々は仲がよかった二人なので、そんな心配は杞憂なのかもしれないが、嫁姑関係というものは、楽観視すべきではない。
そのあたり直史も分かっている。
近所に住んではいるが、祖父母の広い実家に、両親が住んでいないことは、そのあたりを考慮してのものなのだろう。
瑞希と結婚したとしても、職場のことを考えると、どちらかというと妻側の家に近いほうに住むべきである。
ただ育児に関しては本当に母はスペシャリストなので、頼る必要は出てくるかもしれないが。
四人育てているのだから。
色々と将来が見えてきたな、と思う直史である。
人生設計が具体的になってきた。
来年の一年が過ぎれば、司法試験を受験することが出来る。
かなり今でも多めの勉強時間を取ってはいるが、それでも難しいのが司法試験である。
ただ予備試験を受けたことで、おおよそのレベルは分かったといってもいい。
油断せずに勉強を続ければ、自分も瑞希も合格するだろう。
この一年を、どう過ごすべきか。
漫然と勉強だけをするよりは、ちゃんと息抜きもした方がいい。
それは直史が、勉強だけではなく野球の練習も通して、身につけた経験知である。
長いだけの練習をするチームが、白富東に負ける理由の一つだ。
とりあえずやるべきは、瑞希と一緒に暮らす部屋を見つけることだが。
そのためにまず、冬休みには実家に帰らないといけない。
追い出し試合が、四年生と下級生の間で行われる。
早稲谷は四年生のスタメンが多かったが、直史が短いイニングしか投げず、下級生側が武史と淳で投げてくるなら、それなりの勝算はあるだろう。
四年生の中からプロ入りするのは五人だが、社会人野球に進む者や、クラブチームに入る者もいるらしい。
はっきり言って現在の早稲谷の四年生は、ポジション争いがえぐかったので、社会人でもう少しチャンスをもらえば開花しそうな選手はいるのだ。
もちろんこれで完全に、野球とは離れる者もいる。
あるいは草野球などをする者もいるかもしれないが、大学野球でガチにやってきた者が、草野球に参加するのは反則レベルである。
ピッチャー以外のポジションであればまだマシだろうし、下手にピッチャーをしてもキャッチャーが捕れない可能性もあるが。
「なんだかんだ言って、いい四年間だったなあ」
「そりゃお前はな」
直史の感想に、秒で突っ込む樋口である。
この四年間、直史に心を折られて、野球を辞めた人間が何人いることだろう。
おそらく対戦相手だけではなく、同じ部内にも多かったはずだ。
高校時代にもそういった人間は多かったかもしれない。
そしてプロでのリベンジを誓っても、直史はプロには行かないわけである。
罪な男だ。
完全に他人事のように、樋口は思う。
直史のしでかした残虐行為の三割ぐらいは、樋口の責任もあるであろうに。
「あと一年は東京にいるわけだし、奢りなら誘ってくれ」
「まあ高給取りになるからいいが、弁護士になったらお前も奢ってくれよ」
「お前が引退してからならともかく、それまでは圧倒的にそちらの方が高給取りになると思うんだがな」
「そいや弁護士の司法修習っていうのはどこでやるんだ? 普通に東京か?」
「まあ東京もあるんだけど……」
大学卒業までの、短い期間。
野球を辞めた直史は、ここからようやく大学生らしい生活を送ることになる。
いやこれまでの爛れた生活も、ダメダメな大学生としては、ごく普通の生活であったかもしれないが。
それに練習を休みまくった主力というのは、直史以外にはいない。
この短い、残された日々でも、色々と事件は起こったりする。
事件とまではいかないが、普通の生活の中の出来事だ。
だがとりあえず、野球に翻弄される騒がしい生活は、もう終わったわけである。
不敗神話は完成した。
高卒で超高校級のピッチャーなど、そのままプロに行くであろうから、この記録を塗り替えることは出来ないであろう。
武史が奪三振ではえぐすぎる成績を残しているが、それはまた違う段階の話である。
佐藤直史の大学野球は終わったのである。
野球というものに魅了された多くの人間に、多くの仮定の歴史を思わせる、大学野球からの引退。多くの人間が、これで直史の野球の物語が完結したと思っただろう。
ただし彼の人生から完全に野球が消えることはなく、また色々と面倒な事態になったりして、結局その人生からはまだ野球の色が消えることはない。
あるいは野球に呪われたと言ってもいいほどの、才能と結果が人生には長く付きまとう。
それは直史自身が完全に野球から離れた後も、長く長く続いていくものであるのだった。
……まだちょっとだけ続くんじゃよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます