第206話 ラストピッチング

 大学通算公式戦無敗。

 直史のこの称号は、少し間違っている。

 大学時代は公式戦以外でも一度も負けてはいない。

 そんな現在進行形の伝説を、破壊する最後のチャンス。

 神宮大会二回戦、早稲谷が対戦するのは、夏の全日本でも対戦した、畿内大学である。


 関西の大学において強力なスラッガーとして知られる近衛と、荒れ球エースの宮路と擁する畿内大学。

 この二人も大学四年間で、四度のリーグ戦優勝を飾っている。

 共にドラフトで指名されてプロに進むこの二人は、神宮の優勝などよりもずっと、早稲谷打倒を目標としている。

 正確には佐藤直史打倒である。


 先発にその名を見たときに、むしろ喜んだあたり、救いようのない野球バカである。

 神話の真なる完成は、この大会を終えたときにこそなされる。

 そして直史が投げるのは、日曜日のこの試合だけである。


 基本的に四年生は、この大会で引退である。

 もっともプロ入りする者は、それまで大学の練習に参加する予定だが。

 樋口の場合は他に、彼女の親御さんへの挨拶というイベントが待っている。

 結婚するのはとりあえず、最初のシーズンのオフになる予定だが。


 直史は、この試合で投げたら、あとは一度追い出し試合で投げて、それで終わりである。

 大学も寮から出るので、瑞希と一緒に住む部屋を探さなくてはいけない。

 もっともそれはセキュリティのしっかりしたところを、瑞希の父が探してくれるだろう。

 とりあえず同棲の許可をもらいに行かなければいけないのは、こちらも樋口と似たようなものである。


 直史のボールを受けるのは、実質これが最後の樋口である。

 実力的に考えれば、直史は大学院から司法試験に合格し、そこから一年の司法修習を受けて、それからプロに入っても充分に通用する実力を持っていると思っている。

 だが能力的なことではなく、動機的な面で、直史がプロに来る理由はない。

 アマチュアのまま、世界の頂点を見てしまった。

 仕事としてするにはプロ野球選手というものは、選択肢がある人間にとっては微妙である。

「俺がプロになったら代理人やってくれるか」

「いいけど基本俺は千葉にいるぞ」

「代理人交渉なんて年に一回だしな」

 友人に持っておきたい職業は、弁護士、医者、警官の三つである。


 


 一回の表から、畿内大の作戦は明らかである。

 今までにも何度も繰り返され、そして失敗してきた待球策。

 打たないと分かっているなら、コントロール重視の八分の力で投げておく。

 打ってもファールか、守備の範囲内に届くボール。

 よくある打たせて取るためのボールというのは、現実には存在しない。

 だが直史に限っていて言えば、そんなボールを投げているのではないかと想像されたりもする。


 神宮大会は決勝こそ地上波でも放送される予定であったが、試合枠を拡大。

 早稲谷の試合に限っては、全てを放送することになった。

 一人のピッチャーのここまでの特別扱いは、これまでにないものである。

 だが別に直史が頼んだわけではないので、仕方のないことである。


 とりあえず一回の表を三者凡退に終わらせて、裏の攻撃に期待する。

 一点を取ってくれるまで待つ。

 だがクラッチヒッターの樋口は、畿内大の宮路とは相性が悪い。

 読んで打つタイプの樋口は、荒れ球の宮路を読むことが出来ないのだ。

 せめて置きにきたところを打ちたいものだが、フォアボールを連発しても、ぶんぶんと腕を振るという美点を、宮路は持っている。

 キャッチャーとしてはリードしにくいだろうなと、敵のキャッチャーに同情する樋口である。


 いきなりのデッドボールでランナーが出た早稲谷であったが、そのランナーを活かせずに残塁。

 両チーム打撃が動くことなく、0からのスタートだ。




 直史は不思議だな、と考える。

 近衛はいいバッターで、それもスラッガーだ。

 直史の被出塁率の低さを考えれば、一番バッターに置いておくべきなのだ。

 オーダーが分かったのはお互いに提出する時であるが、今日は直史が球場に来ているのだ。

 リーグ戦でも投げない日は、そもそも球場にすら来ていなかったのが、四年生になってからの直史である。

 ただそこまでのことは、案外知られていないのかもしれない。

 ロースターに名前がなかっただけで、今日は勝てる確率があると思う。

 そして弟の方の佐藤に完封を食らうのが、六大学のパターンである。


 四番の近衛に対しては、初球にど真ん中のストレートを投げた。

 樋口のリードであるが、さすがに打ってこないだろうし、打ってきても力むと思ったのだろう。

 それでもそんなリードをするのかと直史は思ったが、平然と頷いて投げるあたり、恐怖心が麻痺している。

 ボールを見送ってストライクとなった近衛は、思わず打席を外して天を仰いだ。


 直史にはもう、神話が付きまとっている。

 純粋にピッチャーとしての力量ももちろんあるのだが、ここまでの実績を残してしまえば、それがプレッシャーとなってバッターを縛ってしまう。

 まさかそんな球は投げてこないだろうと思って、絶好球を見逃してしまう。

 そしてそれに捕らわれてしまって、後悔が集中力を乱す。


 ボール球のカーブとスライダーを振って三振。

 少なくともこの打席においては、近衛は立て直すことが出来なかった。

 キャッチャーは性格が悪い方が向いていると言われるが、確かに樋口の性格は悪い。人格も悪いが。

 それに平然と頷く直史も、全く人のことは言えない。


 これに比べると、小柳川は善良だなと思う直史である。

 プロの世界は成績が全て。

 樋口はさぞ、プロでも成功するのだろう。




 樋口が嫌いなのは、敵に限らず味方であっても、調子に波がある選手である。

 野球は統計のスポーツであるから、確率で勝負する場面があるのだ。

 そしてキャッチャーとしてバッターを手玉に取るよりも、バッターとしてピッチャーを打つ方が、樋口としては難しい。


 初回から沖田に当ててきたピッチャーを、樋口は苦々しく見つめる。

(ノーコンにピッチャーをやらせるなよな)

 これからプロ入りする身としては、こんなところで怪我をするわけにはいかない。

 よって普段よりも、積極性に欠けるバッティングになるだろう。

 そう考えながら、他のバッターに打ってもらう方法を考える。


 相変わらずの荒れ球であるが、ある程度の変化はある。

 左右にはよく散らばっているが、高めにはあまり来ていない。

 そして沖田には当ててしまったが、おおよそはゾーン内で勝負してくる。


 樋口は認めたくないが、ノーコンの剛速球によって、成績を残すピッチャーもいるのだ。

 ただそれは危険球で、退場になる可能性も高い。

 そのため荒れ球でも、頭部を避けた低め程度にはコントロールしているということか。

(まあプロに行くんだから、そのあたりは考えているのか)

 それでも樋口の好きなタイプのピッチャーではないが。

 バッテリーを組むにも、バッターとして対戦するにしても。




 いつもの時間がやってきた。

 即ち、誰も塁に出られない展開である。

 出来ることと言えば、内野ゴロや内野フライでも、相手のミスを願って一塁を全力で駆け抜けること。

 そしてその努力は、無駄な努力となる。


 バッターは一巡して、それでも畿内大のバットに快音は聞かれない。

 四回の表まで、あっさりと抑えた直史は、ボールをマウンドに残してベンチに戻る。

 この回は三番の沖田からなので、どうにかしてほしいものである。


 荒れ球のために打つことが難しい。

 これが直史のコンビネーションであると、ぶつけるような球は投げないため、もっと踏み込むことが出来るのだ。

 だが沖田にも意地がある。

 先ほどのデッドボールのお返しもしなければいけない。

 プロテクターをしていれば、ほとんどの怪我は防げる。これが決勝なら、もっと積極的に打っていけたのだが。


 直史は決勝などには投げない。

 絶対的なエースがいなくても、早稲谷は勝てることを見せなくてはいけない。

 ここで打たなければ、クリーンナップとして情けなさ過ぎる。


 荒れ球ということは、つまり甘いコースにも入ってくるということ。

 ベルト下にまではコントロール出来るようだが、それでも甘めのボールはある。

 バッテリー間のコンビネーションを考えず、打てる球を打つ。

 好球必打で、沖田のバットは荒れたストレートを捉えた。


 狭い神宮の中で、ボールはレフトの頭を越えていく。

 土方や近藤に比べればアベレージヒッターというだけで、沖田も長打が打てないわけではないのだ。

 甘い球の一発がスタンドに入って、一点先取。

 そして同時にほとんどの人間が、早稲谷の勝利を確信した。




 かつて直史は、セーフティリードについて問われたことがある。

 高校野球は何点差であっても、勢いで一気に逆転してしまうことがある。

 それでも何点あれば安心出来るかと問われて、六点と言ったことがある。


 六点あれば100イニング投げても負けないのではないか。

 そんなことを思われる直史は、とりあえずノーヒットピッチングを続けていく。

 秋のリーグ戦から数えれば、無出塁イニングがどれだけ続いていることか。

 無失点イニングではなく、無出塁イニングである。

 

 夏にも全日本で畿内大との試合に投げ、そこではヒット一本とエラー一つがあった。

 エラーなどはさすがにピッチャーのせいではないと思うが、エラーとヒットの境界は曖昧なものである。

 同じ強さの打球であっても、守備の正面であればアウトになる。

 またふらふらと浮いたボールでも、ちょっとしたことでヒットになってしまうことはある。


 フォアボール以外はピッチャーの責任ではない。

 逆にランナーが出ること全てを、そのピッチャーの能力の一部として考えたりもする。

 奪三振は完全にピッチャーの勝利であるが、同時にそれは労力の大きなアウトの取り方でもある。

 望ましいのは初球打ちでの凡退であるが、それもボールが野手の正面に飛ぶと決まったわけではない。

 ただし直史の場合は、ある程度打球のコントロールは出来ていると言われる。

 そうでなければここまで、内野ゴロでアウトは取れないであろうからだ。


 一点あれば。

 もちろん直史は、大丈夫などとは言わない。

 だがピッチングにおいて一番面白いは、序盤に一点だけを取った試合。

 追加点もなく、このわずかな一点を守るというのに、多大な集中力が必要となる。


 四回から六回までは、合計で32球で九つのアウトを取った。

 ほんの少し打てそうな球を投げてくるので、どうしてもバットに当ててしまう。

 それがファールにカットできるならまだいいのだが、内野のゴロを打ってしまう。

 そしてアウトが積み重なっていく。




 試合の展開が早い。

 早稲谷も追加点が入らないが、直史がサイン交換までいちいち早いのだ。

 樋口としても感傷を覚える間もなく、どんどんとサインを要求される。

 そして三振を奪ったり、内野ゴロを打たせたり、内野フライを打たせたり。

 回が進むにつれて、むしろ早打ちの傾向は高まってくる。

 なぜなら直史は、追い込んでからは打てないような球を投げてくるからだ。


 七回にも奪三振があって、これで10個目の三振。

 直史のペーストしては、ごく標準的なものである。

 これが直史の、公式戦最後の試合になるのだ。

 それなのになんの感慨もないのかと、樋口としてもさすがに苦笑を浮かべてしまう。


 最後だからもっと、何かにこだわって投げてもいいのに。

 そうも思うが、こういう時でもいつも通りに投げるから、直史は強いのかもしれない。

 そして八回に、それは起こった。

 先頭打者近衛のバットは、またもボールの上っ面を叩いた。

 ショート正面、先制の一発を打った沖田の守備範囲。

 ボールがイレギュラーし、名手の股の間を抜いていった。


 イレギュラーによるエラー。

 完全な捕球体勢であった沖田は、その腰を落としたまましばらく固まり、そこからがっくりと膝を落とした。

 バウンドの瞬間をキャッチすれば、イレギュラーはない。

 分かっていたはずなのに、丁寧にいきすぎてしまった。

 大観衆の視線の中、なかなか立ち上がれない沖田に、直史は声をかける。

「沖田、あの一点がある」

 スコアには、早稲谷の1の数字だけ。

 エラーが記録されたが、ノーヒットノーランは継続中だ。


 沖田は一人で一点を取ったのだ。エラー一つならまだプラスである。

 なにせここのところ直史が投げると、どうしても打線の援護は少ないので。

 一点取れば勝てるなど、それは過去の結果にすぎない。

 この試合もそうだとは限らないのだが、この際はそう思ってもらった方がいい。


 普通ならパーフェクトピッチング中は、どうしても守備は堅くなるものである。

 だが直史の場合はもう、慣れっこになってしまった。

 気を抜いたつもりはないが、確実なのはバウンド後すぐのキャッチ。

 沖田は後悔するが、直史の指したスコアには、自分の叩き出した一点がある。




 気にしすぎだ、と直史は思う。

 あくまでも試合に勝つために、一点もやらないピッチングをしているのだ。

 そして一点もやらないためには、ランナーを一人も出さない方がいいということだ。

 先頭のランナーが出たが、ただそれだけだ。

 これまで誰一人、ヒットは打っていないのだから。


 上手く弱い打球を打たせることに成功していた直史であるが、仕方のないことだと考えるしかない。

 沖田を責めても過去は変わらないし、一点だけしか取れていない打線にも責任はある。

 ここから畿内大が試合を逆転するとしたら、どうにかこのランナーを帰して、延長に持ち込むぐらいしかない。

 だがそういう都合のいいことは、現実で考えていてはいけないのだ。


 この時に直史と樋口は、同じことを考えていた。

 何がなんでも一点が欲しい機内大が、ノーアウトのランナーを出したのだ。

 そして四番の近衛は、それほど足は速くない。


 投げられてカーブを、五番打者はバントしてきた。

 ファースト方向に転がすバントであるが、その勢いは思ったよりも弱い。

 ダッシュしたのは直史ではなく、樋口である。

 瞬発力を持つキャッチャーである樋口は、ミットを使わずに素手で捕球。

 そしてそれを、二塁ベースに入る山口に投げる。


 フォースアウト。そして飛び上がった山口は、一塁へも送球。

 カバーに入っていた直史が、受け取ったボールを持ったまま、一塁ベースを踏んだ。

 ダブルプレイで、走者が消えた。

 そして畿内大の希望も消えたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る