第204話 果て無き世界

 ピッチングに完成はない。

 理論上は考えたことがあるが、そこに至る道は、直史でさえまだまだ遠い。

 極めたと思っても、それはあくまでもこの舞台でのこと。

 より強大な相手に向けて、同じことが出来るのか。


 あるいは自分以外の人間が万全ではない状態で、どのようにすればいいのか。

 状況は一戦ごとに変わっていく。

 極めたと思ったところで、まだいくらでも試合の様相は変わる。

 一つとして同じ試合はなく、ただ淡々と同じように投げていけばいいわけではない。

 上杉のようにボールの威力だけで、ほぼ全部の三振を奪えれば別なのだが。


 直史も三振を取れるピッチャーだが、それはコンビネーションによる。

 速球に慣らしたところで変化球、あるいはその逆。

 緩急を使っていくことによって、ただのカーブが幻惑のカーブへと変化する。

 コンビネーションこそが、魔球の発生源。

 そのコンビネーションをどれだけ用意出来るかが、直史の考えた究極にして至高の技。


 魔球は存在する。

 ただそれは、一つの球種として成立しているものではない。

 コントロールと、緩急と、変化量。

 それが純正のストレートと混じるところに、凡退という結果が生まれる。




 直史とバッテリーを組むというのは、こういうことなのか。

 練習試合にはめったに出ない直史は、小柳川とはほとんど組んだことがない。

 リーグ戦ともなれば、キャッチャーは正捕手の樋口だからだ。

 樋口は間違いなく、ほとんど全ての領域で、小柳川の上を行くキャッチャーだ。

 プロに行っても、あれほどのものはなかなかないだろう。

 もしもあれがありふれているなら、プロのレベルというのは恐ろしいものがある。


 直史は気に入らなければ首を振ると言ったが、基本的にはほとんど首を振らない。

 首を振らずに、小柳川が要求したボールを、要求以上の精度や威力で投げ込んでくる。

 ツーストライクまでは後逸してもよし。

 それだけ開き直った小柳川は、自分で思っていた以上に、攻撃的なリードをしている。


 組んでみたら面白いというのはある。

 そもそも直史と武史、そして淳といった全くタイプの違う、それでいてその部門の最強格のピッチャーを、ブルペンでピッチングの相手をしまくったのだ。

 本人が思っている以上に、小柳川のキャッチャーとしてのレベルは上がっている。

 ただしバッティングに関しては、さすがに樋口に劣るものだが。


 他にも主力を抜いたため、早稲谷は点が取れない状況が続いている。

 だがそういう時にこそ、涼しい顔でアウトを積み重ねるのが、直史というピッチャーである。

 四番に座る桂は、ドラフトでも指名された、高確率で打点を積み重ねるバッターだ。

 強打者と言うよりは巧打者で、万能タイプの四番である。

(じゃあこれ?)

 頷いた直史の投げたカーブに、桂の動きが止まる。

 ミットに収まったボールを、二度見三度見した。


 キャッチャーからは普通のカーブに見えるのだが、角度の問題でバッターには、二段階に変化して見えるのである。

 ただ人によってはその錯覚を脳が処理してくれるという者もいるらしいので、過信は禁物の魔球である。

 小柳川もバッターボックスで見てみたが、妙に遅い曲がるカーブだとは感じた。

 しかし二段階に変化するとまでは、さすがに思わなかった。


 スルーにしてもそうだが、直史はまるでマジシャンのように、バッターの錯覚を利用する。

 それが可能なだけの制球力を持ち、変化球の数も多い。

 ただ大学野球でもトップレベルになると、それだけでは足りないようにもなる。

 初回は100%と言ってもいいぐらいの出来であったが、二回以降はややボール球を使っている。

 リーグ戦のバッターのレベルがどうだったか、小柳川には実感がない。

 なので安全な範囲を必要以上に使ってしまって、球数は増えていくのだ。

 それでもボール球に手を出してくれるのは、直史のこれまでの経験による。


 剛速球投手でもないので、直史はボール球をあまり投げない。

 そしてなぜかボール球でも、直史が投げると審判の手が上がる。

 ストライクゾーンに投げるという、先入観があるからだ。

 それを利用して、直史はストライクゾーンを広げる。

 すると相手の打線は、よりそのゾーンに対応しなくてはいけなくなる。


 ピッチャーが面白いと思うのは、自分のボールでバッターを翻弄することが出来るからだ。

 中学時代はキャッチャーもやっていた直史は、色々とピッチャーの暴投に苦慮したものだ。

 そしてその結果、コントロール重視の今のスタイルが固まった。

 ただし速いボールも曲がるボールも、下手をすれば一年生のキャッチャーは捕れない。

 今から思うと一年生にキャッチャーをやらせるのはイジメのようなものであるが、直史も出来るだけ後逸しないようなボールを投げていた。


 キャッチャーの真価を知ったのは、高校生になってからだ。

 ジンはもちろん優れていたが、三年のキャッチャーは直史の変化球も、体で止めて必ず前に落としていた。

 そして小柳川は、その時の三年生より、はるかに上手いキャッチャーだ。




 0の数字が続いていく。

 ただしそのスコアボードの0は、慶応だけではなく早稲谷もである。

 やはりスタメンを三人落としているのは、攻撃面でさらに大きな影響を落としている。

 辺見は難しい顔をしているが、直史としては問題ない。


 投げているのは楽しい。

 このまま延長戦まで投げていっても、問題はないぐらいだ。

 ただベンチにいる樋口たちは、うずうずとしているようだが。

 エースが控えのキャッチャーとバッテリーを組んでいるというのは、樋口にとってはほとんどない経験だ。

 自分の時よりやや球数が増えているが、しっかりとランナーを出さないピッチングをしている。

 緊張でベンチに戻ってきては、どっかりと座り込む小柳川。

 リードに必死でとてもバッティングにまでは気が回らない。


 辺見としてはそろそろドラフト組も頭が冷えているだろうから、どこかで変えたいなと思わないではない。

 だが直史としては違う。

「延長までずっと完封するから、適当に一点取ってくれればいいぞ」

 おそらくその場合、直史の体力や集中力以前に、小柳川の精神力がもたないだろうが。


 ドラフト指名された時のことを、辺見もまた憶えている。

 正確にはあの時代は、現在のようなドラフトとは違うシステムであったのだが。

 神宮までには樋口も切り替えて、またキャッチャーの座を取り戻すだろう。

 それが分かっているだけに、辺見としてもこの試合ぐらいは、という気持ちがないではない。

「一点でいいんだからな」

 そう、一点あれば大丈夫なのだ。




 六回の裏が終了し、いまだにどちらにも先制点が入らない。

 スタメン三人が抜けた状態を、どこまで辺見は許容するのか。

 直史が一人もランナーを出さない状態は、ずっと続いていく。

 一人でもランナーが出たらと思わないでもないが、この秋の直史はまさに神がかっている。


 三試合連続の完全試合。

 高校野球の地方予選ではなく、大学の六大学リーグなのである。

 それでも当たり前のように、試合を0で封じてしまう。

 得点だけではなく、ヒットも出なければフォアボールも出さない。

 つまるところランナーが出ない。


 同じピッチャーであった辺見は、プロの世界で多くのピッチャーを見てきた。

 その中には辺見の目から見ても、化け物としか思えない球を投げる人間もいた。

 直史のボールは、そういうものと似ている。

 ストレート単体にしても、大学に入学してから10kmほども球速が上がっている。

 だがそれ以上に、変化球が恐ろしい。


 コントロールが優れているのは、技巧派であれば当然のこと。

 辺見にしても現役時代は、アウトローの出し入れには自信を持っていた。

 だが直史のコントロールは、それとは次元が違う。

 指先のわずかな力の出し入れで、変化量を変えてくる。

 そして変化球で、ボール一個分の出し入れをするのだから、人間技とは思えない。


 これがプロの世界に入らず、野球から離れていくのかと、辺見は惜しくは思う。

 あるいはかつての所属球団からスカウトが来て、どうにかならないかと言われたこともある。

 どうにもならないと、辺見は答えるしかなかった。

 直史の意思が堅いということもあったが、それ以上に直史という存在は、プロでは劇薬になると思ったからだ。

 だが実際のところは、単に嫉妬していただけなのかもしれない。

 ドラフトの上位指名でプロの世界に入った辺見だが、その時代の大学野球は、せいぜい早慶戦が注目されていたぐらい。

 それでも神宮が溢れるほどに、観客が集まることはなかった。

 辺見の大学時代は、あくまでもプロへの道。

 そこそこ陰惨なこともあった。

 それが直史の場合は、世間の方からスポットライトを当ててくる。

 どれだけの人間がプロ入りを望んでいたか、辺見はとても数え切れていない。


 三年の春の、WBCの時が直史の最盛期であったろう。

 あの後からは辺見も、クローザーとして起用したりして、むしろ登板数は多くしたりもした。

 だが世間は、パーフェクトに抑える直史の姿を期待するのだ。

 その流れに、辺見もまた抗うことは出来ない。


 単に才能と言うには、直史の練習量は半端なものではない。

 ずっとブルペンで投げる様子は、辺見も見てきた。

 だが練習のメニューもトレーニングのメニューも、いっさいこちらのことは聞かなかった。

 天才とかどうとか言う以前に、もっと特別なのだ。

 神様が創るときに、何か人間の基準とは違うものを入れてしまったのか。

 佐藤四兄妹はそんなところがあるのは確かだ。




 試合が進んでいっても、直史のピッチングに陰りは見えない。

 慶応は二人目のピッチャーを出して、どうにか早稲谷に点を取らせずにいる。

 だが試合の流れは、決まったようなものだ。

 しかしこういう完全に相手を封じている時の方が、意外な得点が入ってもおかしくないのだが。


 日曜日の第二戦目のため、延長は12回までである。

 そこまでも直史は、平気で投げ続けていくのかもしれない。

 九回を終えたところで、球数はまだ102球。

 平均的なピッチャーであれば、まだまだ投げ続けることは出来る。


 直史としても、八分の力で投げている。

 単純な球数だけで言うなら、この調子で200球は問題なく投げられるだろう。

 樋口と組んで投げる時に比べれば、小柳川の要求する球は難易度が低い。

 なのでそのコンビネーションで通用するように投げるには、今日の直史は、実はボール球を多く投げている。


 気の毒なことだが、審判は直史の味方である。

 大学入学の四年間で、直史はそのコントロールをとことんまで審判に見せ続けてきた。

 それが布石となって、ボール球をストライクにコールさせることに成功している。

 一試合あたり、大乱調だった一つの試合を除いて、一個もフォアボールを出さないことが多い直史。

 ボール球に手を出すと、余計に審判はそこもストライクだと判断してしまうことになる。

 だがもうどうしようもない。

 10回が終わって11回が終わっても、直史のボールにバッターは翻弄される。

 いったいどこまで、この流れが続いていくのか。


 0-0で停滞している試合は、おおよそエラー絡みか一発で勝負が決まることが多い。

 ただし直史は大学入学以降の公式戦では、一度もホームランを打たれたことがない。

 そう、大学のみならず、国際的な代表試合にまでもである。


 直史としてはこの試合、投げることに専念しているので、バットで貢献できないのは申し訳ないなとは思っている。

 だが下手に打ちにいって、衝撃が右手に残るのは避けたい。

 それに正直なところ、さすがに一点ぐらいは取ってくれると思っていた。

 だが12回の裏ともなれば、これで点が入らなければ、引き分けで月曜日の試合となる。


 せっかく投げたのに、点が入らないのは嫌だな、と素直に思う直史である。

 そして向こうのピッチャーも、ここまで全く打つ様子を見せなかった直史を、甘く見ていたのだろう。

 この回先頭の小柳川が、フォアボールを選んで一塁に進む。

 続く直史は、本来ならば送りバント。だが辺見としては普通にアウトになって戻ってくれればいいと考えている。

 バントであっても打たせにいって、怪我でもしたらことである。

 だが何もサインが出なかったので、直史は打っていった。


 ふらりと上がったボールが、ファーストの頭を越えてライト線へ。

 小柳川は慌ててダッシュするが、果たして三塁まで到達出来るタイミングか。

 そう思ったのだが、ボールに追いついたライトは悪送球。

 それを見て小柳川は、三塁まで辿り着いた。


 ノーアウトで一三塁。

 これで点が入らなければ、間違いなく監督の無能である。

「主役になる時がきたぜ~」

 そう言いながらネクストバッターサークルから、西が立ち上がる。

 ここでは深い外野フライでも、一点が手に入る。

 内野の守備がかなり前目であるので、内野ゴロでの一点は厳しいか。

 だがその分、ゴロが内野を抜く可能性も高くなる。


 右方向を狙う。それが最低限の仕事。

 ただダブルプレイでも、その間に一点が入ってしまう。

 色々と考えた結果か、西は歩かされてしまった。

 ピッチャーとしてもこの状況は大変だろう。

 だが満塁策を取ったため、むしろ失点の可能性は少なくなったとも言える。


 内野ゴロならホームフォースアウト。

 この場面で、バッターは二番の山口。

 とにかくひたすら、凡退することが少ない打者である。


 やるべきことは分かっている。

 とにかく点になる打球を打てばいい。

 そう考えていた山口は、四球の後の甘いボールを、地面に叩きつけた。

 高校野球ならこれで金属バットの力で一点が入るが、大学野球はどうであるのか。

 高く跳ねたボールを見て、ランナーは全てスタートしている。


 自分が帰ればサヨナラ。

 そう思っている小柳川は、もつれそうになる足を動かしながら、ホームへと突っ込む。

 ヘッドスライディングであるが、自分に触れるミットの感触はなかった。

 山口の打った球は、バウンドしてから内野の頭を越えていたのである。




 かくして伝説は終焉した。

 そして神話が完成した。

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